「……何コレ?」

朝食の席に着いたシーザーが静かに言った。

シーザーの目の前には黒い物体が。

隣に座っているアーサーも、目の前の物体を唖然として眺めている。

「卵焼き……のようなもの?」

ボクが苦笑いを浮かべて疑問形で答える。

それを聞いて、シーザーは怒り心頭という表情を浮かべたが、どうやらそれを通り越してしまったらしく、諦めの表情で大きな溜息をついた。

「……オレが作り直すからいい」

シーザーはそう言うと、席を立ってキッチンへと向かっていってしまった。

その後ろ姿を見送って、今度はボクが溜息をつく。

「……まぁ、こういうこともありますよ」

アーサーが慰めの笑みを浮かべて励ましてくれるが、それも今のボクにはむなしく響くだけ。

ここに来てから、昼食と夕食はミラ達が作ってくれるのだが、朝食だけはボク達3人が交代で作ることになっている。

しかし、ボクは料理というのが非常に苦手で、簡単な料理であるはずの卵焼きですらこの始末だ。

週の終わり、せっかくの楽しい休日でいい気分になっているだろう2人のその気分を朝から害してしまった申し訳なさで、ボクはもう1つ溜息をついた。

もちろん悪気があったわけではないのだが、こんな料理を出されては、悪気も何もあったものではないだろう。

テーブルの斜向かいでは、アーサーがフォークで黒焦げの卵焼きをつつき、ごく少量をすくい取って口に運んでいた。

その結果は言わずもがな、盛大にしかめ面を浮かべ、それどころか目の端に涙すら浮かべていた。

ここまで焦げていれば見た目で味が判断できるはずなのだが、アーサーはたまに悪意なくこういった行動を起こす。

もちろん、その行動が視界の端に入ったボクは、更に落ち込んだ。

ちなみに、卵焼き以外の料理はまともだった。

といっても、トースターで焼くだけのトーストと、野菜を切るだけのサラダなのだから、失敗のしようもないのだが。

それからしばらくして、シーザーが代わりの料理を持ってキッチンから戻ってきた。

シーザーは手にした3枚の皿を、何も言わずにそれぞれの目の前に置く。

皿には、ふんわりとしたスクランブルエッグと、ほどよく焦げ目の付いたウィンナーが2本、更にカリカリのベーコンが1枚、きれいに盛り付けられていた。

皿の端にはきっちりとケチャップと粗挽きのマスタードも添えられている。

意外なことにシーザーは料理が得意で、しかも、普段は洗濯物も畳まずにその辺りに放っておいたり、掃除も適当にしかしないといったガサツさを見せるくせに、なぜか料理に関してだけは几帳面で丁寧だった。

几帳面で丁寧に盛り付けられた料理は、見た目はもちろんのこと、味も非常にいい。

「いただきます」

皿を並べて席に着くなり、シーザーが挨拶する。

『いただきます』

つられてボクとアーサーも挨拶をし、作り直された料理に手をつけた。

予想通り、おいしい。

「やっぱり、シーザーの料理はおいしいね〜」

見え透いたご機嫌取りとは自分でも思うが、これでシーザーの機嫌が直ってくれればありがたいので、あえて言ってみる。

が、

「…………」

シーザーはまったくの無反応で、もくもくと料理を口に運んでいた。

アーサーは困惑した様子でボクとシーザーを見比べ、ウィンナーとベーコンをナイフで細かく切っている。

「いや、ホント、おいしいよ」

試しにもう1度言ってみるが、

「…………」

やはり無反応。

会話らしきものはそこで終了。

あとには、沈黙と食器がこすれ合う音だけが鳴っていた。

こうも無反応だと、後ろめたい気持ちでいっぱいになって、せっかくのおいしい料理も本来の味を堪能できない。

3人共あらかた料理を食べ尽くした時、シーザーが口を開いた。

「お前、もう朝飯作んなくていいよ」

それは怒った口調ではなく、かといってあきれた口調でもなく、まったくの無感情な口調だった。

そして、黒焦げの卵焼きを指して、シーザーが続けて言う。

「いつもこんなじゃ、食材がもったいねぇし」

「……うん」

うなだれて返事をするボク。

確かに、シーザーの言ってることが正しいので、反論することもできない。

「……ま、誰にでも得手不得手があるから、仕方ねぇけどよ」

少し間を置いてから言ったシーザーの口調は、少しだけ優しかった。

顔を上げて見ると、ボクとは目を合わさず、少し気まずげに視線をあさっての方向に向けていた。

再びの沈黙。

今度の沈黙を破ったのは、アーサーだった。

「ところで今日はどうします?」

どうやら今日の予定を聞いているらしい。

続けてアーサーが言う。

「僕は街に行ってみようかと思ってるんですが、一緒に行きませんか?」

その言葉に、ボクは少し考えた。

今日は昨日の夜にできなかった復習をしようかと思っていたのだ。

とはいえ、ここでアーサーの誘いをむげに断るのも後髪を引かれる。

考えるボクをよそに、シーザーが答える。

「お、オレ行くぜ。

 レンジャーになるんだったら、ここの街にも慣れとかねぇといけねぇしな」

なるほど正論、と言えるシーザーの言葉。

それを聞いて、ボクも答えが決まった。

「ボクも行くよ」

考えてみれば、復習は帰ってきてからでもできる。

朝から晩まで勉強勉強では、勉強の効率も悪くなるかもしれない。

我ながら言い訳じみた答えだと思うが、事実、一日中教科書と向き合うのは精神的にこたえるものがある。

それならば、せっかくの休みくらい、誘いに乗って街中を探索してみた方がいいだろう。

アーサーはボク達の答えを聞くと、嬉しそうに笑み、空になった皿を持って席を立った。

「じゃあ、片付けたらアルファス達に言って、さっそく出掛けましょう」

 

 

街はいつも以上に賑わっていた。

週の終わりである6日目は多くの人々が休日らしいので、いつも以上に人が多いのは当然のことなのだろう。

とはいっても、ボクが街に下りたのはこれで3度目。

最初はクーアにここに連れてこられた時、2度目はミラと一緒に夕食の買い出し来た時、そして3度目が今だ。

シーザーもアーサーも、同じく買い出しで1度ずつ来ているので、全員揃って3度目ということになる。

しかし、今回は前回、前々回と違って、特に目的があるわけではないので、勝手が少し違う。

どこかに行きたい、何かをしたい、という目的があれば、そこに向って進むだけなのだが、目的がない以上、なんとなく街中をうろつくしかない。

まったく無目的にトランスポーターをはしごして、気になった店や場所を見つけてはそこへ向かう。

色々な機械が陳列された店、新しい本から古い本までを取り扱っている本屋、旅で必要な物一式が揃えられるような雑多な品物が置いてある雑貨屋、高価そうな武具をショーケースの中に並べている武具店、準備中と書かれた札が扉に掛かっている料理屋、甘い香りを発するお菓子が所狭しと並べられた菓子店など、街にはありとあらゆる店が立ち並んでいた。

どれも、1軒1軒回っていたら、とてもじゃないが1日で回りきれるような数ではない。

また、小さな通りではそれほどではないが、大きな通りには露店も多く、そのほとんどは食べ物を扱ったものだった。

ステーキの串焼き、ウィンナーを丸ごと1本パンで挟んだホットドッグ、切り込みの入ったジャガイモにバターを乗せた物、シュワシュワと泡の立つ色とりどりの飲み物、フワフワとした雲のような白い菓子。

どれもこれもおいしそうに見える。

大きな通りの脇にはちょっとした広場が多々あり、人々は露店で買った食べ物を、広場にあるベンチや噴水の縁に腰かけたりして食べていた。

物珍しさに露天に近寄っていくと、そのたびに売り子の人に声を掛けられるが、手持ちの金があまりないボク達は、愛想笑いをして露店から離れていくだけだった。

そう、今ボク達はあまり金を持っていなかった。

今まではクーアが支払いをしていたので、ボク達が金に関して考える必要はなかったし不自由をすることもなかったが、レンジャーになる以上、金の管理も自分でできなければならないということで、今は10000クリスタだけを渡され、それで1ヶ月やりくりしろと言われている。

ここに来てから3週間、ボクの手持ちは半分にまで減っていた。

クォント内部にも街同様に様々な店が立ち並んでおり、減った金のすべてはそこで使ったものだった。

ボクは半分程度残っているが、シーザーはほとんど使い果たしていると言っていた。

そういえば、シーザーは四六時中何かを飲んでいたり食べていたりしていた気がする。

どうやら金の管理をシーザーに任せるのは危険なようだ。

逆にアーサーはほとんど手付かずのまま残してあるらしいが、『堅実だね』とボクが言ったら、『お金をいっぱい貯めて武具を買い集めようと思って』と答えが返ってきた。

こちらも金の管理には不向きのようだ。

ともあれ、人混みに流されながら、気になった店を出入りしたり、露天に寄っては離れたりを何度も繰り返しているうちに時間はあっという間に過ぎ、気が付けば昼食も取らないまま、数時間が過ぎていた。

今いる広場の時計の針は、すでに12時を過ぎている。

「ねぇ、そろそろお昼にしない?」

ボクが立ち止まってシーザーとアーサーに声を掛ける。

2人も同様に立ち止まって、同時に時計を見上げた。

「もうこんな時間ですか」

「どっかで適当に食おうぜ」

「どこで食べましょうか?」

ボクの提案に賛成して、2人が再び動き出す。

人の多い、少し大きな通りに向って歩いていく2人に遅れないよう、ボクも慌ててあとを追った。

が、2人が通りに出た途端、2人が人混みにまぎれてしまい、あえなく見失ってしまう。

ボクも急いで通りに向って走ったが、時すでに遅く、人混みにまぎれた2人を見つけることはできなかった。

それどころか、ボクも人混みに流され、どんどんと前に進まなければならないはめに陥ってしまった。

ボクは人混みから逃れる為、なるべく周囲の人の迷惑にならないように、斜め前方に向って歩を進める。

自分の居場所すら背の高い大人達にまぎれてしまっていて分からないままでしばらく歩き、やがて通りの反対側に抜けると、そこは人がまったく歩いていない細い路地裏のちょうど入口だった。

(どうしよ……)

はぐれてしまった時のことを考えて、2人とは事前に、はぐれてしまったらむやみに捜さずにクォントに戻る、と決めてあるので、ボクがいないことに気付いた2人はクォントに向かうだろう。

その為、はぐれたこと自体はそんなに問題があるわけではない。

問題は、クォントへの道のりだ。

無軌道にここまで来てしまった為に、帰り道が分からない。

街に点在するトランスポーターはたいがいがクォントに通じているのだが、そのトランスポーターすらどこにあるのか分からない状態だ。

空を飛べれば上空から位置を確認できるし、そのままクォントに帰ることも可能なのだが、街では犯罪防止の為、特例を除いて『飛ぶ』、そして『転移』することは許されていない。

何よりまだボクは空を飛ぶすべを持っていないし転移するすべもない。

しかし、だからといってここでじっとしていても始まらない。

(トランスポーターを探さなきゃ)

人混みに再びまぎれてしまったら、トランスポーターを見つけることは難しいだろう。

となると、今いる路地裏を進むしかないのだが、ふと出掛けにミラの言った言葉を思い出した。

『路地裏などの、あまり人が少ない場所に行かないように。

 クォントは治安が良いですが、残念なことにまったくの無犯罪とは言えません。

 人気のない場所で犯罪が起きる、というニュースは少なからず聞きますから、できる限りそういった場所には近付かないでくださいね』

今立っているこの路地裏は、まさにミラが言った人気のない路地裏だ。

安全を考えるのなら、人混みに流された方がまだ安全だとは思う。

しかも、この路地裏を進んでも、その先にトランスポーターがあるとは限らない。

(……でも)

多少なりとも戦闘に関しては自信を持てるようになった。

少なくとも一般人の犯罪者などにに後れを取るようなことはないと自負できる。

(……行ってみよう)

そう決心し、内心ドキドキしながらも、路地裏を進むことに決めた。

もちろん、一般人でない犯罪者に遭遇してしまったらそれまでなのだが、レンジャーを目指す以上、常に自分よりも弱い者を相手にするという状況ばかりではないだろうから、多少の冒険も必要だろう。

とはいえ、ボクはそうならないことを祈りつつ、路地裏を前へと進んだ。

通りの喧騒が次第に遠ざかり、小さくなっていく。

路地裏は入り組んでおり、少し進んだくらいでは、人気のある通りには出そうにもなかった。

しかし、ここまで来て引き返すわけにはいかない。

ボクは勘を頼りに、狭い路地裏を右へ左へと進んでいった。

そして、しばらく進み、元いた通りの喧騒などまったく聞こえなくなった頃。

このガキッ!!

少し先の路地から、男の怒声が聞こえた。

驚いたボクは、思わず体をビクつかせてしまう。

ボクは息を殺し、声のした路地へと向かった。

路地の曲がり角まで来て立ち止まると、そこから路地を覗き込む。

するとそこには3人の人がいた。

1人は人族の男、1人は馬獣人の男、もう1人は獅子獣人の少年だった。

人族は地面に仰向け倒れ、口から泡を噴きながらビクビクと痙攣していた。

馬獣人は右手にナイフを持ち、それを少年に突き付けており、ナイフを突き付けられた少年は、見下すかのような表情で馬獣人を見上げている。

状況は分からないが、かなり危険な状況だということは把握できる。

ボクが飛び出すべきかどうしようかと逡巡していると、

「澄ました顔してんじゃねぇぞ、ガキィ!!!」

怒声と共に、馬獣人がナイフを少年に向って繰り出した。

(あぶない!)

そう思う暇も有らばこそ。

少年は繰り出されたナイフを、目にも止まらぬ速さで横に避け、右の手刀で叩き落とした。

馬獣人の手から叩き落とされたナイフが、乾いた音を立てて地面の上に転がる。

「ひっ!?」

馬獣人が右手を押さえながら、おびえたように息を飲んだ。

その馬獣人に向って、少年がにじり寄る。

そして次の瞬間。

「ッ!!!」

鈍い音を立てて、少年の右拳が馬獣人の股間を直撃した。

馬獣人は悲鳴すら上げず仰向けに倒れ、すでに倒れている人族同様、口の端から泡を吹いて痙攣を始めた。

少年はそんな2人を見下ろすと、右足を振り上げた。

(……まさか!)

ボクがそう思うが早いか、少年は振り上げた右足を、倒れた馬獣人の股間目掛けて一直線に振り下ろした。

再び鈍い音が響く。

馬獣人はすでに気絶していた為に悲鳴をあげることはなかったが、蹴り下ろされた衝撃で、その全身が大きく震えた。

次いで少年が人族の方に歩み寄り、再び右足を振り上げた。

それを見た瞬間、

「ダメだ!!!」

ボクは無意識のうちに飛び出して叫んでいた。

少年の耳がピクリと動き、右足が地面に下りる。

両足を地に着け、少年はゆっくりとこちらに顔を向けた。

そうして初めて少年の顔をよく見ることができた。

顔面は鈍色で、首回りを飾るタテガミは銀を思わせるような薄鈍色をしており、実際に路地に差すわずかな陽の光を受けると、タテガミは光を反射して銀色に輝いているように見える。

瞳は鮮やかなコバルトブルー、鼻は艶を帯びた黒。

纏う衣服はアイボリーブラックのジャケットにミッドナイトブルーのズボン。

首には銀のネックレスを下げている。

年齢はボクと同じくらいだろうが、身に付けている衣服のせいで若干年上のように感じられる。

端正な顔立ちは完成された彫像のような雰囲気を漂わせ、均整のとれた体付きがさらにそれを引き立てていた。

少年はその端正な顔立ちに表情を浮かべることはなく、突然の闖入者であるボクをじっと見ていた。

ボクはというと、勢いで飛び出したもののどうしていいか分からず、ただその場に立ち尽くしていた。

少年と視線を交わすこと数秒。

少年が口を開いた。

それはまだ声変りもしていない、ボクと同じまぎれもない少年の声だった。

「君、こいつ等の知り合い?」

「……違うけど」

「こいつ等が僕に何をしようとしたか、知ってる?」

「いや、分からないけど……」

「そう。 じゃあ口を挟まないでくれる?

 君には関係ないんだから」

そう言うと、少年は再び人族に向って右足を振り上げた。

少年のその行動に、ボクはまたも無意識に叫んでいた。

「ダメだって!!!」

少年はチラリとこちらを見たが、今度は動きをとめず、振り上げた右足を人族の股間に向けて振り下ろした。

ドッ!

鈍い音が路地に広がった。

それを見た瞬間、ボクは少年達に向って走り出していた。

ボクは無表情に人族の股間の上に右足を乗せたままの少年を押しのけると、倒れている人族と馬獣人に向ってしゃがみ、両手を2人にかざして魔法の詠唱に移る。

『痛苦に喘ぎてのたうつ者よ。 快気の慈を受け、鎮まり癒えよ』

発動と共に、人族と馬獣人の体が白く発光した。

最低位の回復魔法、しかも2人に向って行使している為、効果のほどはそれほど高くはないだろうが、それでも応急処置にはなるだろうし、このまま魔法を持続させれば、あるいは回復させることができるかもしれない。

ボクは一心不乱に魔法に集中し、少しでも魔法の効果を高めようと努めた。

そこへ、横から声が掛けられる。

「何してるんだい?」

声と共に、襟の後ろを掴まれる感触。

魔法への集中の為、ボクは答えを返すことも、襟の後ろを払うこともできない。

少年が再び聞いてくる。

「何してるって聞いてるだろ?」

と同時に、今度は掴まれた襟を強く後ろに引かれた。

ボクはバランスを崩して後ろに倒れ込んでしまい、魔法が中断されてしまった。

見ると、魔法が中断された為、2人の体から光が消えていた。

あの程度の効果時間では、とても回復できたとは思えない。

ボクは再び魔法を掛けようと、2人の方に寄る。

が、

「聞かれたことに答えなよ」

それを阻んで、少年がボクの前に立ち塞がった。

ボクを見下ろす少年は無表情のまま。

ボクはそんな少年を睨み上げ、

「その人達を治すんだ!

 じゃないと、その人達、死んじゃうかもしれないんだぞ!?」

「それがどうかしたのかい?」

「どうかって……!」

平然と言ってのける少年に、ボクは一瞬声に詰まり、言葉が続かなかった。

少年が続ける。

「確かに睾丸破裂は死亡の危険性があるけど、こいつ等はそうされて当然のことをしたんだ」

「……どういうこと?」

いぶかしんで聞くボクに、少年は2人を見下ろしながら言葉を続けた。

「こいつ等はね、僕を犯そうとしたんだよ」

「!!」

少年の言葉に、苦い記憶が脳裏に蘇る。

クーアと出会う前の苦い記憶が。

そんなボクをよそに、少年は更に言う。

「そんな奴等、睾丸を潰されて当然だろ?

 だから潰してやったんだ。

 それで死んだって自業自得じゃないか。

 それなのにどうして無関係の君が治すんだい?」

言われ、ボクは何も言うことができなかった。

クーアと出会う前、まだボクが玩具奴隷だった頃、ボクを犯す主達に殺意を抱いたことがボクにもあったからだ。

しかし、

「でも、だからってこのままじゃ死んじゃうよ……

 いくらなんでも殺しちゃ……ダメだよ」

なんとかそう言葉を絞り出すと、ボクは再び2人に寄り、魔法の詠唱に入った。

だが、少年が邪魔をする。

「むぐ!?」

少年はボクのマズルを両手で上下から押さえ付け、口を開けなくしてしまった。

これでは詠唱はおろか、声を出すことさえできない。

「やめなよ、無駄なんだから。

 仮に君がこいつ等を治しても、すぐそのあとに、また僕が2人の睾丸を潰すよ?

 意味ないだろ?」

無表情にボクの顔を覗き込みながら少年が言った。

ボクは少年を見返すが、少年がされそうになったことを思うと、ボクには強く睨みつけることなどできなかった。

かといって、少年から目をそらすこともできなかった。

少年は、あくまで無表情のままボクの顔を見つめていた。

ボク達は、しばらくの間、お互いの目を見合っていた。

やがて、

「……君、面白いね」

そう言って、少年がボクのマズルから両手を離した。

次いで、振り返って倒れている2人に向って両手をかざし、

『痛苦に喘ぎてのたうつ者よ。 快気の慈を受け、鎮まり癒えよ』

ボクと同じ、『回復』を行使した。

だが、少年の『回復』は、ある一点がボクのそれとは異なっており、そのことが少年のことを端的に示していた。

「闇の……魔法……」

思わず呟いたボクの言葉通り、少年の行使した『回復』は闇の力を帯びていた。

その証拠に、人族と馬獣人の全身を包むのは、白い光ではなく、黒い闇。

「キミは……」

「そうだよ。 僕は闇の力を使う。

 初めてかい? 闇の魔法を見るのは」

「……ううん」

以前、ボクは1度だけ闇の魔法を見たことがあった。

とてつもなく強力な、禁魔を。

だが、今はそんなことよりも気になることがあった。

「……なんで……なんで急に……?」

問うボクに、少年はこちらを見もせずに答える。

「面白い君に免じて、だよ」

「……?」

「もっとも、完全には治してやらないよ?

 僕を犯そうとしたんだから、多少なりとも僕の気持ちが晴れるようにしないと」

「どういうこと?」

「僕がするのは出血を止めるだけ。

 機能までは回復させないつもりだよ。

 それでもこいつ等が死ぬことはないだろうからね。

 これなら君も文句ないだろ?」

「……うん」

答えてボクは思う。

ボクをかつて犯した主達に対し、ボクは殺意を抱いたことがあった。

しかし、ボクはその殺意を表に出すことはなかった。

いや、正確に言えば、出せなかったのだ。

力ないボクが抵抗したところで、主達に敵うべくもないと、そして何よりも、主達を恐ろしいと思ったから。

だが、もしボクが勇気を出して抵抗をしていたのなら、事態は変わったのかもしれない。

そう思うと、ボクの取っていた、従順に主達に従う、という行為は果たして正しかったのか、と疑問に思えてしまう。

目の前にいる少年は、それをした。

殺意をあらわにし、実際に抵抗をした。

自分よりも強く見える大人2人を相手に、だ。

その結果、彼が犯されることはなかった。

もちろん、死んでも構わないというのはやり過ぎだとは思うし、結果論だが、彼が2人よりも強かったからということもある。

しかし、彼のその心身の強さは、少年の姿同様、ボクを惹き付けるものがあった。

と、そんな葛藤と思いにボクが捕らわれているうちに、

「終わったよ」

どうやら回復が終わったらしく、少年がこちらを振り向いて言った。

人族と馬獣人はいまだに泡を吹いたままだったが、全身の痙攣は治まっていた。

「あ、ありがとう……」

「なんで君がお礼を言うんだい?」

「あ、いや……なんとなく……」

「……君、本当に面白いね」

そう言って少年はボクの顔を覗き込んできた。

ボクは見られていることが気恥ずかしくなり、彼の意識をそらす為に立ちあがって言う。

「この人達、どうしようか?」

「このままでいいんじゃない?

 そのうち勝手に目を覚ますだろうから」

少年はチラリと横目で倒れている2人を見て言った。

その時、突然、ボクの腹の虫が鳴いた。

思わず赤面してうつむくボク。

そんなボクに、少年から声が掛かる。

「お腹空いてるのかい?」

「……うん。 まだお昼、食べてないんだ」

「そう。 じゃ、何か食べに行こうか。

 少しぐらいならおごってあげるよ」

「えっ?」

少年の突然の申し出に、ボクは驚いて顔を上げ、声を上げた。

彼は相変わらず無表情のまま、こちらを見ていた。

「嫌?」

「嫌じゃないけど……でも、どうして?」

「君が面白いから」

「……それって、理由になってないような……」

即答された少年の答えに、ボクの正直な感想が口をついて出た。

「そう? 僕には充分な理由なんだけど。

 で? どうするんだい?」

「いいけど……でもおごってもらうのは悪いよ。

 ボクもお金、持ってるし」

「人の好意は素直に受けるものだよ?

 断る方が失礼だ」

キッパリと言い、顔を近付ける少年に気押され、

「じゃ、じゃあ、えと、うん」

しどろもどろで、ボクは了解の意を示した。

それを聞いた少年は、

「なら行こう」

言って、1人、さっさと路地を歩いていってしまった。

それを唖然と見ていたボクは、今度ははぐれないよう、急いで少年のあとを追った。

 

 

大通りの脇にある広場の1つ。

その中に設置された大きな噴水の縁に、ボクと少年は腰かけていた。

手には、通りを挟んだ向こう側にあるジャンクフード店で買った大振りのバーガー。

ボクと少年の間には、黒っぽい泡の立つジュースとフライドポテトが入った紙袋がある。

一口にジャンクフードと言っても、値段や味はピンからキリまであり、向かいのジャンクフード店は値段が高く、味も良い部類に入る。

そこで、なかば一方的な約束通り、少年はボクに昼食をおごってくれた。

となりで少年がカサカサとバーガーを包んだ紙包みを開け、大人でも大きいと感じるだろうバーガーにかじり付いた。

ボクもそれにならって紙包みを開け、バーガーを一口。

ジューシーな肉の甘みとほどよい酸味のケチャップ、そしてシャキっとしたレタスの瑞々しさとが口の中で混ざり合い、それは値段以上の味を感じさせた。

よく噛んで飲み下すと、空の胃袋にえもいわれぬ満足感を与えてくれた。

次いで二口目を頬張り、更にストローでジュースを一口飲み込み、フライドポテトを2、3本放り込む。

そこまで食べ、やっと腹も少し落ち着き、ボクは隣で同じようにフライドポテトを口に入れていた少年に声を掛けた。

「おごってくれてありがとう。

 ボクはジークって言うんだけど、キミの名前は?

 ここに住んでるの?」

ボクの挨拶と質問に、少年は口の中の物を飲み下し、答える。

「僕の名前はハーゲン。 ハーゲンって呼んで。

 住んでた所はここじゃない。

 全然違う世界だよ」

「……住んでた?」

その言い方が気になり、失礼かもしれないとは思いつつも聞いてみる。

が、ハーゲンは気にした風もなく、ジュースを一口すすると答えた。

「そう、住んでた。

 僕の両親は死んでるんだ」

あっさりと両親の死を語るハーゲン。

聞いてしまったことが申し訳ない気がして、慌てて謝ろうとするも、それよりも早くハーゲンが口を開いた。

「今は親代わりの人とこっちのホテルに泊まってる。

 だからここに住んでるとは言えないね」

謝りそびれたものの、ハーゲンの口調から気にしている風にも聞こえなかったので、ボクは質問を続ける。

「ホテル? どうして?」

「レンジャーになる為だよ」

「え?」

意外な答えに、ボクは驚いた。

ハーゲンはそれを気にもとめず、淡々と答え続ける。

「レンジャーになりさえすればここには用はないから、別にここで部屋を借りる必要ないし、親代わりの人がお金持ってるから、ホテル住まいでもなんの不自由もない。

 昼間は勉強と訓練をしてればいいだけ。

 たまに息抜きにこうして街に出てくる。

 自分で言うのもなんだけど、結構楽な生活してると思うよ。

 で? そういう君はここに住んでるのかい?」

反対に聞かれ、ボクは食事の手をとめて答える。

「僕もそう。 レンジャーになる為にここに来たんだ。

 親代わりの人がクォントに部屋を持ってるから、そこで一緒に暮らしてる」

「そう」

気のない返事を返し、バーガーを食べることに専念し始めたハーゲン。

あまりのリアクションの薄さにどうしてよいか分からず、仕方なしにボクも食事に専念することにした。

そして1分後。

「ごちそうさま」

ボクはバーガーの包み紙を丸めて、フライドポテトの入っていた紙袋に放り込んだ。

同様にハーゲンも包み紙を放り込み、おもむろに紙袋を手に取った。

「あ、ゴミ箱どこだろ?」

ボクがゴミ箱を探して辺りをキョロキョロしていると、

ボッ!

横から小さな破裂音が聞こえた。

見れば、ハーゲンの手から紙袋が消え失せ、代わりに紙袋をすっぽり覆うくらいの大きさの黒い球体が。

黒い球体は霞のように消え、それを見届けたハーゲンが口を開いた。

「なんでゴミ箱なんて探すんだい?

 消せばいいじゃないか」

感情もなくそう言ったハーゲンに、ボクは背筋にかすかに寒気を感じた。

ハーゲンは何事もなかったかのように、残ったジュースを飲み干し、空になったジュースの容器を再び黒い球体で消し去る。

と、ハーゲンがこちらに顔を向け、じっとボクの顔を見つめ始めた。

その様子は、まるで何かを観察しているような感じだ。

ここまでじっと見られているとなんとなく恥ずかしくなって、ボクは顔をそらし、ジュースをひとすすり。

が、ボクが顔をそらしても、ハーゲンはボクをじっと見ているようで、視界の端にハーゲンの顔がチラチラと入ってくる。

それに耐えられなくなったボクは、ハーゲンの方に向き直り、聞く。

「ボクの顔に何か付いてる?」

「何も」

「じゃ、なんでじっと見てるの?」

「見てたら駄目なのかい?」

「ダメじゃないけど……なんか恥ずかしいよ」

言って、残っていたジュースを飲み干した。

すると、空になったジュースの容器を、ハーゲンがボクの手からサッと奪い取り、またも黒い球体で消滅させた。

それを見て、ボクが尋ねる。

「ねぇ、ハーゲンって闇の力を使うんだよね?

 レンジャーって、その……なんていうか……」

「闇の力を持つ者がなっていいのかってこと?」

言い淀んだボクの言葉を読んだのか、ハーゲンが逆に尋ねてきた。

彼が使った回復魔法、そして今見せた黒い球体。

これらは明らかに闇の力だ。

以前クーアが話してくれたレンジャーについての話では、レンジャーとは光の側に立つ者達が集まるコスモスの構成員と聞いた。

正反対の力である闇の力を持つ彼がレンジャーになれるのだろうか、と疑問に思うのは無理からぬことではないだろうか。

「うん、まぁ……」

なんとなく言いづらい返答に、ボクは言葉を濁す。

しかし、ハーゲンは相変わらず無表情に、

「なれるよ」

とだけ答えた。

そしてしばらく間をおいて、言葉を続ける。

「レンジャーの中にも闇の力を使う連中はいるよ。

 もっとも、数はすごく少ないし、あんまりいい顔はされてないみたいだけど。

 ……まぁ、仕方ないけどね。

 闇の力はコスモスにとっては特別なものだし」

「うん、そうだろうね」

確かに、闇の力はコスモスにとって特別だ。

何しろ、コスモスの不倶戴天の敵であるカオスは闇の側に立つ者達が集まるものなのだから。

と、ボクが納得しかけた時、

「違うよ」

ハーゲンが否定の言葉を口にした。

「え? 違うって、何が?」

聞き返すボクの目をまっすぐに見てハーゲンは言う。

「君、今カオスのことを考えてただろ?」

「う、うん」

「確かにカオスは闇の集合体だしコスモスの敵だけど、僕が闇の力がコスモスにとって特別って言ったのはそういう意味じゃない」

「? じゃあ、どういう意味?」

「フラークを知ってる?

 コスモス発足の中心になった国、現トリニティの前身である帝国ジーニスの初代皇帝フラーク」

「うん、少しだけ」

授業で最初に史学を教わった時に出てきた名前だ。

フラークは今から1万2000年前、数多くの国々が争い、全世界を統一しようとしていた時代に生まれ、その中で次第に頭角を現し、最終的には世界を二分するほどの版図を誇った帝国ジーニスを築き上げた英雄だ。

ジーニス建国後、彼は光の側に立つ者達が集まる世界機構の設立を打ち出し、彼が中心となって尽力した結果、現在のコスモスがある。

彼の子孫はその後3つの皇室、ルードラント家、シール家、ホルトムーン家に分かれ、それぞれが今現在、スキルインペリアル、マジックインペリアル、マシンインペリアルを統治しており、その3国を総称してトリニティと呼んでいる。

その為、現在でもトリニティはコスモスに対して強い発言力を有し、トリニティの意向がコスモスの運営に反映されることも少なからずあるという。

「で、そのフラークがどうしたの?」

「彼が使っていた力が闇の力だったんだよ」

「えっ!?」

事もなげに言い放ったハーゲンの言葉に、ボクは思わず驚きの声を上げた。

「やっぱり驚いたね」

言うハーゲンに、ボクは口を開けたままうなずいた。

それはそうだろう。

光の側に立つ者達が集まる組織を作った中心人物であり、現在ではその功績を称えて神聖皇帝とまで言われているフラークが、光とは相反する闇の力を振るっていた。

そんななんとも皮肉でいびつなことに驚かずにはいられないだろう。

しかし、そんなことは教科書にも載っていなかったし、フラークについて教えてくれたミラの口からも聞いていない。

「隠されてるんだよ」

ボクの考えを読んだかのようにハーゲンが言葉を続ける。

「世界を三分する勢力の1つ、光の組織コスモスを築き上げた中心人物が、敵対勢力の闇の組織カオスが司る闇の力を振るっていたなんてこと、コスモスとしては認めるわけにはいかないんだ。

 これはコスモスを根底から覆しかねないことだからね。

 だからこそ、コスモスはこのことを公表しない。

 知った奴もいただろうけど、このことが表面化された話を聞かないってことは、ひょっとしたら、口封じでもしてるんじゃないかな?」

「口封じって……」

「コスモスは君が思ってるほど奇麗な組織じゃないよ」

あっさりと言い切るハーゲン。

ボクは言葉に詰まる。

クーア達が属してる組織が、そんな恐ろしいことをやっているなど信じたくないからだ。

「まぁ、そういう理由で闇の力を使うレンジャーは疎まれてるんだ。

 もっとも、そういう理由で疎むのはフラークの真実を知っている上層部の一部だけで、一般のレンジャーは単に闇の力が嫌いだから疎んでるみたいだけどね」

そう言って、ハーゲンが言葉を切る。

その時、ふとあることが気になった。

「……ねぇ。 なんでハーゲンはそんなこと知ってるの?」

ハーゲンの語った知識は教科書には記載されていない。

ボクの勘だが、おそらく昨日アーサーが話していた禁書保管室といったような場所にしかないような文献にしか書かれてはいないことだろう。

当然、その情報源が気にはなる。

ハーゲンは、そう質問されることがあらかじめ分かっていたかのように話し始めた。

「僕の親代わりの人、先生が教えてくれたんだ。

 その人は色々なことを知っててね。

 知識はもちろん、戦い方も教えてくれてるよ。

 君の親代わりの人は教えてくれないのかい?」

「……ううん」

ボクはクーアのことを思い浮かべて一瞬言い淀んだ。

「今、仕事で出かけてるんだ。

 レンジャーの仕事で。

 ボクもレンジャーになる為に勉強とか訓練とかしてるけど、今はその人の仲間の人達に教えてもらってる」

「そう」

一言で答えたハーゲンが言葉を切ったので、会話が途切れる。

なんとなく気まずい沈黙が流れるが、そう感じているのはどうやらボクだけらしい。

ハーゲンは相変わらずボクの顔をじっと見ている。

こんな風にじっと見られていると、余計に気まずく、気恥ずかしい。

なんとかアクションを取ろうと、ストローに吸いついてすすってみるが、ジュースは口の中に入ってこなかった。

どうやらいつの間にか全部飲んでしまっていたようだ。

ついにすることもなくなったボクは、この空気に耐えられなくなり、とにかくなんでもいいから話そうと試みた。

「あの――」

が、

「ところで」

ほとんど同時にハーゲンも口を開いた。

片手で空になったボクのジュースの容器を取り上げる。

「な、何?」

驚いて聞き返すボク。

ハーゲンは手にしたジュースの容器を消し去ると、じっとボクを見つめたまま続ける。

「これからどうするんだい?

 何か予定あるのかい?」

「予定は別に…………あっ!」

答えて、すぐに思い出した。

(シーザーとアーサーとはぐれちゃってたんだ。 クォントに帰らなきゃ)

色々とあってすっかり忘れていたが、2人とはぐれたままだった。

「? どうしたんだい?」

「友達とはぐれちゃってて、いったんクォントに行かなきゃいけないんだ。

 はぐれたらクォントで落ち合う約束になってるから。

 でも、道が分からなくて……」

「クォントに行くトランスポーターだったら、もう少し行った場所にあるよ? 行く?」

言われてボクはうなずこうとしたが、少し思いとどまった。

昼食をおごってもらったうえに帰り道まで教えてもらって、それで何もお礼をせずに別れるということに抵抗を感じたからだ。

「行かないのかい?」

ボクの沈黙を否定的にとらえたのか、ハーゲンが言う。

ボクは慌てて首を横に振り、

「ううん、そうじゃなくて。

 あのさ、もしよかったら、一緒に来ない?

 おごってもらったお礼とか、したいから」

ほとんど考えの惰性でそう口にした。

ハーゲンはボクをじっと見つめながら、少し考えたような間ののち、

「別にいいよ、一緒に行っても」

と、答えた。

相変わらず無表情なので、喜んでいるのかどうかは分からないが。

ともあれ、同行の同意を得ることができたボクは、ハーゲンに導かれるままにトランスポーターに向かい、ハーゲンを連れてクォントに戻ることになった。

 

 

ハーゲンと共に入ったトランスポーターは、クォント門前の大広場の一角に繋がっていた。

クォント前は休日ということもあって大量の人々で賑わっている。

ここでシーザーとアーサーの2人を探し出すのは骨が折れそうだ。

「……友達がどこにいるのか分かるかい?」

辺りを見回してハーゲンが言う。

「あ〜……え〜と……」

ボクも辺りを見回し、言葉を濁した。

大量の人だかり、しかもそのほとんどすべてが大人なので、ボク達よりも背が高い。

冷静に考えてみると、骨が折れるどころか非常に難しい。

それどころか、2人がここに戻ってきているかどうかも分からないのだ。

「ちょっと、無理……かも」

「……だろうね。

 他にどこか待ち合わせられるような場所は?

 友達が先に着てれば、この人混みの中から君を見つけ出すの難しいと思って、そこに行ってるかもよ?」

冷静なハーゲンの言葉は確かに一理ある。

シーザーはともかく、アーサーなら確かにそう思うかもしれない。

とすると、あの2人が行きそうな場所は、

「じゃあ、いったん部屋に戻っていい?

 行くとしたらそこだと思うんだ」

「なら行こう。

 ここでじっとしてても仕方ないしね」

「そうだね。 じゃあ、ついてきて」

言ってボクは手を差し出した。

その手をハーゲンがじっと見つめる。

「……何?」

小首をかしげてハーゲンが尋ねてくる。

「何って……こんな人混みじゃはぐれちゃうかもしれないから、手をつないだ方がいいじゃない?」

さも当然のように答えるボクに、ハーゲンは少し考える間を取り、ボクの手に自分の手を重ねた。

毛皮の感触とほんのりと暖かい熱感が伝わってくる。

ふと、その感触と暖かさに、胸がどきりとした。

「? どうしたんだい? 連れて行ってくれるんだろ?」

ほんのわずかの間だったが、ボクが奇妙な感覚を味わっていると、ハーゲンが急かすように言ってきた。

「えぁ……? あ、うん、行こうか」

ボクは慌てて、取り繕うように答え、ハーゲンの手を引いて、人混みをかき分けながらクォント内部へと向かった。

人混みを抜け、クォント内部に入り、トランスポーターを使って部屋のある上層に転移する。

その間、ボク達の間に会話はなく、ボクはさきほど感じた、そして今も感じているこの奇妙な感覚の正体を考えていた。

しかし、移動するだけの短い時間では、奇妙な感覚がなんなのか、その答えを出すことはできなかった。

転移の際の光が消え、眼前に雲海が広がる。

すると、ハーゲンはボクから手を離し、トランスポーターから外に出てつぶやいた。

「……高い」

岩床の端に立ち、雲海の果てを眺めている。

しばらくそうしているハーゲンを見ているうちに、ボクの中の奇妙な感覚は治まり、当初の目的を思い出していた。

「この先に部屋があるんだ。 行こう」

同じくトランスポーターを出たボクはハーゲンをうながす。

ハーゲンは振り向き、何も言わずにボクのあとをついてきた。

「あそこがそうだよ」

と、ボクはクーアの部屋、正確に言えば部屋のある岩塊を指差した。

空に浮かんでいるようなその大きな岩塊を見て、ハーゲンが言う。

「ずいぶんといい所に住んでるんだね」

ハーゲンの口調は表情同様に無感情な感じがしたが、なんとなく皮肉を言われているような気にもなり、ボクは苦笑いをして返した。

少しの距離を歩き、玄関に到達。

クーアから渡されていた、スペアのカードキーを玄関脇のスリットに通し、ドアを開ける。

すると、玄関には見慣れたブーツとサンダルが一足ずつあるのが目に入り、同時に鼻をくすぐるいい匂いが。

「2人共帰ってきてるみたい」

言って、ブーツを脱ぎ、ボクはハーゲンに上がるようにうながした。

同じくブーツを脱いだハーゲンを連れ、リビングに向かう。

短いその道中、ボクは内心ドキドキしていた。

はぐれたことをシーザーに怒鳴られないかと思ったからだ。

アーサーならそんなことはしないだろうが、シーザーならしかねない。

というよりも、たぶんそうなる。

ましてや、今朝の件があるからなおさらだ。

せっかくハーゲンを連れてきたのに、いきなりボクが怒鳴られでもしたら、ハーゲンは何事かと思うだろう。

そんなこと考えながら、内心ビクついてリビングに到着。

「あ、おかえりなさい」

リビングに入ったボク達を迎えたのは、ソファに座ってテレビを見ていたアーサーの言葉だった。

予想通り、アーサーからの罵声はなかった。

それどころか、笑みさえ浮かべてくれている。

「お、帰ってきたか」

キッチンの方に目を向ければ、そこには何やら料理をしているシーザーの姿が。

(……あれ?)

意外にもシーザーからの罵声は飛んでこなかった。

それどころか嬉しそうな表情さえ浮かべている。

なんとなく不気味だが、とにもかくにも心配が杞憂に終わって一安心。

キッチンに立つシーザーの手元を見れば、シーザーの振るうフライパンの中でオレンジ色の物体が踊っている。

匂いの正体はこれのようだ。

「心配したんですよ?」

ソファから立ち上がって、こちらに歩み寄りながらアーサーが言う。

責めている様子は微塵もなかったが、一応ボクは苦笑いを浮かべて謝った。

「ごめん。 ちょっと道に迷っちゃって」

「ところで、そっちの方は?」

アーサーはハーゲンを見て問う。

「あ、道に迷ってる時に会って、ここまで連れてきてくれたんだ」

「そうですか。 ありがとうございます。

 僕はアーサーです。 よろしく」

感謝の言葉と自己紹介をし、握手の為に手を差し出すアーサー。

ハーゲンは差し出された手を握り返し、

「ハーゲンだよ」

とだけ短く答えた。

「オレはシーザー。

 そのバカ連れてきてくれてありがとな」

シーザーも料理の手を休めることなく自己紹介をする。

バカ呼ばわりされたことが少し引っ掛かったが、こちらに非があることは確かなので、文句を返すのは諦めることにする。

それよりも、人見知りをするシーザーがどういった態度を取るのかが少し心配だったのだが、にこやかなその表情と口調から察するに、ボクが心配をする必要はなかったようだ。

ハーゲンに人見知りの条件が当てはまらなかったのか、それともシーザーの人見知りが改善され始めているのかは分からないが、後者だとこれから先もありがたい。

などと考えていると、

「ところで昼飯は? 食った?」

炒め物を続けながらシーザーが聞いてきた。

「あ、うん。 ハーゲンがおごってくれたんだ」

「そっか。 今オムライス作ってるけど食う?」

「え……と……」

問われてボクはハーゲンをちらりと見る。

ボクはそこそこ腹が一杯で、食べようと思えば食べられないこともないのだが、ハーゲンはどうなのか分からない。

ハーゲンはボクの視線を受けて、少し肩をすくめ、

「君が決めていいよ」

と、了承ともいえる言葉を返してきた。

何かお礼を、と思ってここに連れてきたのだが、これで一応のお礼になるのだろうか。

というより、そもそも何をしてお礼とするのかを考えてもなかったので、これをお礼としてとらえてくれるとありがたい。

そんなことを思いつつ、ボクは答えた。

「じゃあ、少しもらおうかな」

「じゃ、ちょっと待ってろ。

 あ〜、皿だけ並べといて」

指示を出したシーザーは、鼻歌混じりに料理を続ける。

ボクは言われた通りにキッチンのラックから4枚の皿を取り出し、キッチンのカウンターの上に並べた。

アーサーはテーブルの上にテーブルクロスとコースター、さらにスプーンを並べ、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出してグラスに注いでいる。

ボクはハーゲンをうながしてテーブルに着くと、同じくオレンジジュースを注ぎ終わり椅子に座ったアーサーに小声で尋ねた。

「ねぇ、シーザーの機嫌がやけにいいけど、何かあったの?」

言って横目でシーザーを見ると、シーザーはフライパンを返しながら満面の笑みを浮かべていた。

ボク同様にちらりとシーザーを見たアーサーは、シーザー同様に満面の笑みを浮かべ、

「ああ、実はさっきクーアから連絡があったんですよ」

と答えた。

その言葉にボクは耳を疑い、思わず聞き返す。

「えっ!? ホントに!?」

疑いの言葉を吐きつつも、自然と笑みが浮かぶ自分に気付く。

連絡の内容が気になったボクは、テーブルに身を乗り出して尋ねた。

「それで、なんて?」

「今の予定だと3日後には帰れるそうです」

答えたアーサーも嬉しそうだ。

クーアが帰ってくるとあれば、シーザーが上機嫌なのも納得できる。

事情を知らないハーゲンは、ニコニコと笑っているボク達を交互に見比べていた。

しばらくして、シーザーがオムライスの盛られた皿を、器用に4枚持ってキッチンから出てきた。

「おまたせ〜」

言って、テーブルクロスの上に皿を置くシーザー。

皿に盛られたオムライスにはケチャップがかけられ、みじん切りにしたパセリが散らされていた。

ボクとハーゲンの腹具合を考慮してか、ボク達2人のオムライスはシーザーとアーサーのそれに比べると、一回りほど小さかった。

「それじゃ……」

シーザーが音頭を取る。

『いただきます』

4人の声が唱和した。

目の前に置かれたオムライスから立ち上る焼けた卵とケチャップの匂いは、空腹ではないとはいえ、食欲をそそるものがある。

ボクはスプーンを手に取り、オムライスをかき取り、口に運んだ。

若干半熟の卵と、酸味の利いたケチャップ、ほっこりとしたチキンライスが口の中で合わさって、おいしい。

やはり、シーザーの料理の腕は素晴らしく、ボクのそれとは雲泥の差だ。

横目でハーゲンを見ると、彼もおいしいと感じているのか、無言でオムライスの山を削っていっていた。

ひとしきり全員がオムライスの山を削った頃、シーザーが口を開いた。

「クーアが帰ってくるって聞いた?」

言葉はボクに向って放たれたもののようだ。

ボクはオレンジジュースで口の中の物を飲み下し、うなずく。

「聞いたよ。 3日後に帰ってくる予定なんでしょ?」

「そうそう。 ここに戻ってきてすぐに電話があってよ。

 仕事がケリつきそうだからって言ってた」

「他には何か言ってた?」

「いや、何も」

「そう。 ……3日後っていうと、30日か」

ボクはカレンダーを見て呟く。

そして、ふとあることを思い出した。

「ねぇ。 クーアの誕生日って30日だったよね?」

「ああ、確かそうでしたね」

アーサーもカレンダーを見て相槌を打った。

「勉強と訓練で忙しくて忘れてしまってました。

 ……プレゼント、どうしましょう?」

「今日買ってくりゃよかったな」

オムライスを食べ終えたシーザーが言う。

確かに、せっかく街に下りたのだから、何か買ってくればよかったと思う。

「食ったら買いに行くか?」

「……お金、あるんですか?」

「…………」

アーサーの言った一言に、シーザーは顔を曇らせて沈黙。

そういえば、シーザーは無一文に近い状態だったことを思い出した。

「シーザーはケーキとか作って、それをプレゼントの代わりにした方がいいんじゃないですか?

 せっかくこれだけおいしい料理が作れるんですから」

アーサーの提案に、その手があったか、という表情をシーザーが浮かべる。

が、

「まぁ、普通はケーキとプレゼントは別物ですけどね」

続けてアーサーが笑顔で言った言葉に、再びシーザーは顔を曇らせた。

そんな2人のやり取りを見つつ、皿を空にした僕は、ハーゲンを横目で見る。

ハーゲンも皿の上もグラスの中もすっかり空にして、無表情に2人のやり取りを見ていた。

ハーゲンを蚊帳の外に置いて話が進行してしまっていることに気付いたボクは、少々申し訳なさを感じ、せめて状況の説明だけでもしようと口を開く。

しかし、それに先んじてハーゲンがこちらを向き、口を開いた。

「クーアっていうのは、君の親代わりの人かい?」

「あ、うん」

説明しようとしていたところを制されて、続きの言葉に詰まるボク。

ハーゲンは質問を続ける。

「ひょっとしてその人、Zクラス?」

「うん、そうだけど……なんで知ってるの?」

まだ何も説明してないのにそのことに気付いたハーゲンに、ボクは逆に問う。

ハーゲンは肩をひょいとすくめて答えた。

「その名前は先生から聞いたことがあるからね」

なるほど、とボクは思う。

レンジャーのクラスの中で最高クラスのZクラスともなれば、レンジャー以外の人間でも知っている可能性は充分にある。

まして、ハーゲンはレンジャーを目指しているわけだから、知っていても不思議はない。

冷静に考えてみれば当たり前のことだと気付く質問をしてしまったことを多少恥つつ、ボクはハーゲンに向って言う。

「今聞いた通り、30日がクーアの誕生日なんだ。

 でも、ボク達、まだプレゼント用意してなくて、それでひょっとしたらまた街に下りるかもしれないんだけど。

 ……キミも一緒にくる?」

言って、なんとも勝手な言い草だと自分で思った。

誘っておきながら、こちらの都合で連れ回すことになるのだから。

文句を言われても仕方がないだろうと思う。

しかし、ハーゲンは少し考える風な素振りを見せ、

「……ひょっとしたら、祝われても嬉しくないかもよ、その人」

と、言い切った。

「……どういう意味だよ?」

その言葉に素早く反応したのはシーザー。

少し険のある声音だ。

シーザーにしてみれば、自分達の好意でしようとしていることを頭から否定されて気分を害されたようなものなのだろう。

それまで和んでいた場の空気が、徐々に変わり始めた。

「言った通りの意味だよ。

 祝われても嬉しくないかも、っていう意味さ」

「だから、それがどういう意味だって聞いてんだよ」

ハーゲンの答えに、怒鳴りこそしていないが、シーザーの言葉にこもる敵意とでもいうべき感情が強くなった気がする。

ボクもアーサーも、シーザーとハーゲンの間に流れる不穏な空気に緊張を隠せない。

しかし、そんなボク達をよそに、シーザーとハーゲンのやり取りは続く。

「大人っていうのは、そこまで自分の誕生日が嬉しいわけじゃないってことさ。

 少なくとも、君達が誕生日を迎えるのと同じような感覚はないだろうね」

「てめぇもまだガキだろうがよ。

 だいたい、てめぇにクーアの気持ちが分かんのかよ」

「確かにまだ僕も子供だけどね、少なくとも君達よりは、そのクーアって人の気持ちは理解していると思うよ」

「てめぇ……」

ガタンッと音を立ててシーザーが立ち上がった。

隣のアーサーが反射的にシーザーの体を掴むが、シーザーはそれを振り払って続ける。

「いい加減にしろよ。

 会ってもねぇのに何知った風な口きいてんだよ、おい」

「君達こそ何も知らないんじゃないかい? そのクーアって人のこと」

「あ?」

「一緒にいるからって何もかも知った風に言うのは愚かってことさ」

「この――!」

ついにシーザーが我慢の限界に達した。

テーブル越しにハーゲンに掴み掛かろうとと身を乗り出す。

「シーザー!」

アーサーが叫んでそれを制し、ボクもハーゲンの前に身を乗り出して、シーザーを制す。

「なんで止めんだ!! 離せ!!」

アーサーに羽交い締めにされながら、シーザーが怒鳴った。

地力では明らかにアーサーの方が強いので何もできないだろうが、それでも振り回したシーザーの腕はテーブル上の食器にぶつかり、吹き飛ばされてテーブルや床の上に散乱する。

「落ち着いてください!」

もがくシーザーを止めながら、アーサーが叫ぶ。

しばらくして、シーザーが暴れるのをやめた。

それでも、まだ鼻息荒くハーゲンを睨み付けていたが。

一方のハーゲンはまったくの無反応。

目の前でシーザーが暴れていたことすらまるでなかったかのように、落ち着いたたたずまいで座っている。

「ハーゲン……」

ボクは落ち着き払ったハーゲンに声を掛ける。

なんとか仲を取り持とうとするが、思うようにいい言葉が見つからない。

そんなボクの努力を知らぬ風に、ハーゲンは話を続ける。

「今のは僕が悪かったかもね。

 でも、君達が何も知らないだろうっていうのは、そう的外れな意見じゃないと思うよ?」

「どういうこと?」

ボクが問う。

ハーゲンはチラリと僕を見て、ボク達全員に尋ねた。

「君達、Zクラスがどんなクラスか、知ってるかい?」

「……レンジャーの中で最高位のクラスだということは知ってます」

アーサーが答えた。

その答えにハーゲンは首を小さく横に振る。

「まぁ、その程度の認識だろうね。

 下位のレンジャーでもその程度の認識かもしれない」

「……他に何かあると?」

「あるよ。 重要なことが」

アーサーの質問に、きっぱりと言い切るハーゲン。

「Zクラスのレンジャーは基本的に不老長寿だ。

 過去の例をみても、平均7〜800年は生きてる。

 Zクラスのクーアというレンジャーの名前は、少なくとも200年くらい前の資料に載ってる」

『!?』

「ちなみに、Zクラスでクーアという名前のレンジャーは、歴史上1人しかいない」

ハーゲンの言葉に、ボク達3人は言葉を失った。

クーアの年齢はどう見ても20代半ばにしか見えない。

それに、普通の人間が200年も生きられるはずもない。

「もう少し資料を調べれば、もっと前の資料にも名前が載ってるかもね。

 だから、君達の親代わりのクーアは、最低でも200年以上は生きてるんだよ」

ハーゲンが言葉を切る。

ボク達は軽いショックを受け、一様に沈黙していた。

さきほどまでは荒れていたシーザーも、ショックのせいか口を開けて呆けている。

そのしばしの沈黙を破ったのは、ハーゲン。

「そんな何百年も生きてる人間が、いまさら誕生日を祝われたって嬉しいかって思って言ったんだ。

 でも、自分の弟子が祝ってくれるっていうのなら、それは嬉しいことなのかもね」

言って、ハーゲンは椅子から立ち上がった。

「じゃあ、僕は帰るよ」

「えっ!?」

ハーゲンの言葉に我に返り、声を上げるボク。

ハーゲンは肩をすくめ、

「だって、ここにいたら悪いだろ?

 そこの狐君を怒らせたみたいだしね。

 邪魔だろうから帰るよ」

そう言って、まだ呆けたままのシーザーに視線を向け、

「オムライス、おいしかったよ。 それじゃ」

と、一方的に告げ、リビングから出ていってしまった。

シーザーは何も言わず、その後ろ姿を目で追い、アーサーは何かを言い掛ける素振りを見せたが、やはり何も言わず、シーザー同様にハーゲンの後ろ姿を目で見送った。

ボクも2人のようにその後ろ姿を見送るだけだったが、少しして慌ててハーゲンのあとを追った。

「待って!」

玄関でハーゲンに追い付き、ボクは引き留める。

ハーゲンは玄関でブーツをはき、すでに部屋から出ようとしていた。

ハーゲンが振り返る。

「何?」

リビングでの出来事など何もなかったかのように、平静に尋ねてくるハーゲン。

「え……と……」

ボクは少し気後れして言葉を濁す。

何か言葉を見つけて答えようとするが、混乱気味の頭では何も言葉が出てこず、かろうじて、

「……送ってくよ」

とだけ、言葉を発することができた。

それに対しハーゲンは、

「そう」

と、素っ気なく答え、玄関のドアを開けた。

 

 

「ここでいいから」

ハーゲンがそう言ったのはクォント前の大広場にある噴水のそばでのことだった。

「これ以上一緒についてきて、また迷ったら困るだろ?」

皮肉を言って、さっさと行こうとするハーゲン。

「待って」

そのハーゲンをまたもボクが呼び止めた。

ハーゲンが足を止め、振り返る。

「何?」

「……お礼しようと思ったのに、逆に気分悪くさせちゃったみたいでゴメン」

「別にいいよ」

会話が途切れる。

なんとはなしに気まずい空気になり、何か取り繕おうとボクは次の言葉を考えるが、それを待たずしてハーゲンが言う。

「じゃあ、行くよ」

踵を返すハーゲン。

ボクは慌てて、とっさに頭に浮かんだ言葉を口にした。

「あ、あのさ!」

ボクの声に、ハーゲンがピタリと足を止めた。

その背に向って、ボクは続けて言う。

「また会えるかな?」

ハーゲンが振り返る。

その表情は相も変わらずの無表情で、感情を読み取ることはできない。

「……会う気になればいつでも会えるだろうね」

そう、どちらともつかない答えを残し、ハーゲンは再び踵を返して、人混みの中に消えていった。