「じゃ、オレ風呂入ってくるわ」
キッチンで洗い物を終えたオレは、リビングのソファでくつろいでいるジークとアーサー、そしてケルカに向かって言った。
3人は思い思いに応え、オレを送り出す。
2階に上がり、脱衣場で衣服を脱ぎ捨てると、星空を見上げられる風呂へと足を踏み出した。
クォントの最上部近くに位置するこのクーアの部屋の周囲には、星明りを遮るような灯りはほとんどなく、まさに満天の星空が見渡せる絶景が頭上に、そして地平の彼方まで広がっていた。
(疲れた……)
内心呟いて、オレは体を洗う作業に取り掛かった。
1基だけあるシャワーをひねり、湯で全身を湿らせ、獣人用のシャンプーを手に取り馴染ませ、全身に揉み込む。
耳の先から足の先、尻尾の先まで、大量の泡が全身を包み、1日の汚れを浮き立たせる。
シャワーを頭からかぶり、全身の泡を洗い流すと、1日の汚れと共に疲れも洗い流されていくような気がして心地良い。
目を閉じて、しばらくそうしてシャワーを浴びていると、ふと背後に気配を感じた。
その次の瞬間。
「小振りなお稲荷さんはっけ〜ん!」
声と共に、股間を鷲掴みされた感触が襲ってきた。
「うわぁ!?」
突然の出来事に、驚いて声を上げるオレ。
抵抗しようともがくが、両腕を胴体に押し付けられる形で外側から押さえ付けられているため、足と尻尾をバタつかせることしかできない。
頭を振り、顔周りの水分を飛ばして何とか目を見開いて見ると、目の前の鏡には、後ろから抱き込むようにしてオレの股間を両手で鷲掴んでニヤニヤしているケルカの姿があった。
「なっ、何してんだよ!」
オレは思わず声を荒げる。
突然股間を鷲掴みにされたのだから当然の反応だろう。
それはケルカも予想していたらしく、オレの怒声に動じた様子も悪びれた様子も見せることなく、ニヤニヤ笑いを顔に張り付けていた。
と、それまで鷲掴みにしていただけだったケルカの手が動き出した。
ケルカの手の中で揉みくちゃにされるオレのペニス。
「――っ! やめろよ!」
オレはさらに声を荒げ、なんとかケルカの腕を振りほどこうと暴れた。
しかし、ガッチリと両腕を押さえ付けられているうえ、大人と子供では地力が違い過ぎ、オレの努力は無駄に終わる。
暴れるオレを見て、ケルカは心底楽しそうにニヤニヤと笑っている。
どうやらオレが抵抗するのが面白くてたまらないらしい。
そうしているうちにも、オレのペニスはケルカの両手によって弄ばれ続け、やがて、
「お? ちょっとデカくなってきたか?」
変化に気付いたケルカが口に出して告げた。
言われるまでもなく、オレは自分のペニスが勃起しつつあることに気付いていた。
そのことに気付いたからこそ必死に抵抗していたのだが、こうなってしまってはもはや抵抗の意味は半減してしまっている。
それに、そもそも抵抗したところで力の差は歴然であり、ケルカにオレを解放する気がなければどうすることもできないことを、オレは悟っていた。
それならば、とオレは抵抗をやめ、ケルカのするがままに任せることにした。
無抵抗のままでいればケルカも飽きて解放するだろう、という予想がそこにはあったからだ。
しかし、
「なんだ、もう抵抗しねぇのか?
それじゃ遠慮なく――」
「!!!」
オレの予想に反し、ケルカはオレを解放するどころか、逆にオレを激しく責め立て始めた。
「あっ! や、やめっ!」
今まで以上に揉みくちゃにされ、一種のパニック状態に陥ったオレは、今さっきまでの考えも無抵抗も撤回し、激しく暴れようともがいた。
無論、そんなことをしてもまるで意味はなく、それどころか逆にケルカの加虐心をあおることになるだけなのだが、それに気付くことなど、今のオレには不可能なことだった。
そして、ついに、
「小振りなお稲荷さんがへんし〜ん!」
面白そうにケルカが言う通り、オレのペニスはケルカの手の中で完全な勃起を果たしてしまっていた。
オレは恥ずかしくなり、顔を横にそむける。
しかし、ケルカの責めは止まらない。
「おお〜、歳の割にゃデケェな。
毎日欠かさずオナニーしてんのか?
っつーか、出んのか?」
「…………」
からかい気味の口調で聞いてくるケルカに、オレは何も答えず黙り込んだ。
それでもケルカは気にした様子もなく、行為を続ける。
「何も言わねぇところを見ると、ちゃんと毎日オナニーしてるみてぇだな。
で、皮はっと……お、剥けた。
おおぅ、キレェだな。
毎日剥いて洗ってる証拠だ」
嬉々として言うケルカ。
俎上の魚とはまさにこのこと。
オレはもう抵抗の意思を示すことなく、ケルカにいいように弄ばれていた。
すると、いつしかケルカはオレのペニスをただ弄ぶだけでなく、握り、上下に扱くという自慰行為を、オレに対してし始めた。
「やめっ……あっ!」
さすがに驚き声を上げるも、ケルカは一向に気にした様子もなく、それどころか首筋を甘噛みしながら行為を続けた。
噛まれた首筋に痛みはないものの、ケルカの鼻息が首筋をくすぐり、くすぐったいような、ゾクリとするような、奇妙な感覚に襲われる。
それにもまして、ケルカの手によって続けられる愛撫は、確実にオレを追い詰めていった。
ただ単に上下に扱くだけでなく、剥き出された鋭敏な亀頭を掌でこね回し、爪の先を裏筋やカリに引っ掛けて局所的な刺激を与えたり、垂れ下がった睾丸の入った袋を掌で包み、袋内で痛みを感じさせない程度の強さで擦り合わせるなど、およそ男の性感帯を知り尽くしているかのような手付きでオレを責め続けた。
その結果、初めて他人から受ける、しかも手慣れた愛撫によって、オレはあっけなく最後を迎えることになった。
「いぁ…で、出る……っ!!!」
無意識に射精の時を告げ、全身を強張らせ、ケルカの手の中でオレは射精を果たす。
数回に渡って放たれた精液は目の前の鏡にまで届き、鏡に映った自分の顔の位置にまで精液が付着したその様子は、あたかも自分の顔に精液を引っ掛けたかのような錯覚を覚えさせた。
「お〜、飛んだ飛んだ。
さすがに若いってすげぇな〜」
満足気に言って、ケルカは自分の手に付着したオレの精液を指先で弄んでいた。
普通なら怒り心頭に文句を言うところなのだが、今は射精直後の疲れと今日の疲れも相まって、ひたすら肩で息を切らせることしかできなかった。
と、そこへ、ケルカから思いもよらない一言が掛かった。
「……オメェ、昔、野盗団にいたんだって?」
「!!!」
その一言に、射精の余韻も、わずかに沸き起こってきた怒りも、そして疲れさえもが一気に吹き飛んだ。
慌てて鏡に映ったケルカに視線を向ける。
そのケルカの表情に今までのような笑みはない。
無表情、というよりもむしろ、わずかに怒りを滲ませているような、そんな表情を浮かべている。
そんなケルカを鏡越しに見ながら、オレは問う。
「だ、誰からそれを……?」
「クーアだ」
「!」
その答えは、オレにとってはショックなものだった。
クーアは、オレが野盗団であったことがオレにとっての心の傷であることを知っている。
だから、このことは極力誰にも、クーアにすら触れてほしくないことだった。
それをオレにとっては初対面であったケルカに話されたということは、心の傷に塩を塗られたような気がしてならなかった。
それどころか、裏切られたような気さえする。
「クーアが……」
愕然として呟くオレ。
そんなオレに、ケルカがささやくように尋ねてくる。
「……ひょっとして、裏切られたとか思ってねぇか?」
「!」
「図星だろ?」
その通り、図星だった。
どうやら顔に出てしまったらしい。
気まずくなって鏡の中のケルカから視線をそらすと、それに構わずケルカが続ける。
「ま、オメェに色々あるように、オレにも色々あってよ。
その辺の兼ね合いもあってクーアはオレに話してくれたっつーわけ」
含みのある言い方に、オレは再び鏡の中のケルカを見つめる。
ケルカはオレの視線を受け流し、シャワーを手に取り、オレの体を流し始め、そして語り始めた。
「オレは野盗の類が大っ嫌いでよ。
つーか、どっちかってーと憎いって感じかな。
っつーのも、昔、目の前で親友を野盗に嬲り殺しにされたのが原因でよ。
それ以来しばらく、野盗を見るだけで片っ端からぶっ殺していった時期があったんだよ。
どのくらい殺したかなんて憶えてねぇ。
それこそ、掃いて捨てるくらい殺してきた。
女子供年寄りも関係なく、野盗なら全員な」
オレの体を洗い流しながら淡々と語るケルカ。
そこにはいつものようなふざけた様子は微塵も感じられない。
というより、こんなに真顔のケルカを見るのは、会ってから初めてのことだ。
と、ケルカのオレの体を洗い流す手がオレのペニスに触れる。
しかし、その手にさきほどのようないやらしさはなく、純粋にオレのペニスを洗い流してくれているだけのようだった。
オレもさきほどとは異なり、ペニスに触れられても抵抗することなく、ケルカの洗うに任せていた。
抵抗しない理由はケルカの手付きの純粋さもあるが、それよりもその真面目な様子と話の内容による方が大きかった。
ケルカは続ける。
「クーア達と会って、それからしばらくして親友を殺した連中に復讐することができた。
それでオレの野盗に対する憎しみは結構薄らいだし、以前ほどは殺さなくなったんだけどよ、それでも全然なくなったってわけじゃねぇ。
だから、オレがオメェに変な先入観とか誤解とか持たねぇように、クーアの奴はオメェが野盗だったってことをオレに話してくれたってわけよ。
……っと、ホイっ、きれいになった。
湯船にでも浸かってろ」
語り終え、言ってケルカはオレを解放した。
言われるまま、オレは湯の張られた湯船に身を浸す。
今までオレが座ってた椅子に腰掛けて体を洗い始めたケルカの後ろ姿を見ながら、オレはケルカの言葉を反芻していた。
ケルカにそんな過去があったことなど初めて聞いた。
もちろん、昨日今日あったばかりのオレ達なのだから、そこまでお互いのことを深く知っているわけではないのは当然のことだ。
ケルカにしても、クーアが語らなければオレが野盗だったことなど知りもしなかっただろうし、オレにしてもわざわざケルカに教えようとはしなかっただろう。
それはオレの心の傷なのだから。
と、そこまで考えて、ふと気付いた。
ケルカにしてみれば、今オレに語ったことはケルカにとって大きな心の傷のはず。
それは話の内容、そして、普段のケルカの様子と今さっきのケルカの様子の違いを見れば明らかだ。
にもかかわらず、尋ねられてもいない自身の過去のことをオレに話してくれたということは、意に反して過去を知らされてしまったオレに対する、ケルカなりの思いやりなのだろうか。
(これでお相子ってこと……か?)
思い、ケルカの後ろ姿を見つめ続けるオレ。
それまでの様子とは異なり、ケルカは鼻歌混じりに体を洗っていた。
その姿は、いたって普段通りのケルカの姿だ。
とてもさきほど聞かされたケルカの姿とは重ならない。
(けど……)
断片的に語られたケルカの過去。
しかしそれでも、ケルカの歩んできた半生の凄惨さは充分に伝わってきた。
もし自分が目の前でジークやアーサーを殺されたとしたらどうなのだろう。
(……たぶん、ケルカと同じこと、するんだろうな)
そう思い、ジークやアーサーが殺された時のことを想像し、身震いするオレ。
実に嫌な想像をしてしまった自分を自己嫌悪しつつ頭を振る。
そして、その自己嫌悪がさらなる自己嫌悪を呼ぶ。
(クーアのこと、誤解しちゃったな……)
さきほど勝手にクーアに裏切られたと思った自分を心から恥じた。
ケルカの過去を知らなかったからとはいえ、一瞬でもクーアを疑った自分が嫌になる。
よくよく考えてみれば、クーアがおいそれと人にオレの過去を漏らすはずがないのだ。
いつもオレ達のことを思って行動をしてくれていたし、決してオレ達を傷付けるような言動はしなかった。
そこそこの時間を共に旅してきたオレはそのことをよく知っていたはずなのに、手前勝手な妄想に囚われて気付きもしなかった。
「はぁ〜……」
自己嫌悪のあまり、大きなため息が漏れ、自然と頭がうなだれる。
「でけぇため息ついてどうしたよ?」
声に頭を上げれば、体を洗い終えたケルカが湯船の縁に立っていた。
「……別に」
ぶっきらぼうに答えたオレに、ケルカは何かに気付いた風な表情を浮かべ、湯船に入ってくる。
オレの横に座ると、ケルカはオレの顔を覗き込み、
「さては、自己嫌悪か?
さっき、クーアに裏切られたって思っちまって」
「!」
見事に正解を言い当てられ、オレは驚いた表情でケルカを見る。
ケルカはニヤリと笑い、
「ま、気にすんな。
裏切られたって感じったっつーこたぁ、普段それだけクーアのことを信頼してたってことの裏返しだろ?
自己嫌悪する必要なんざねぇよ……っと」
と、フォローを入れつつ、やおらオレの体を抱え上げ、自らの膝の上にオレを座らせた。
「なっ――」
オレが抗議するよりも早く、ケルカはオレの左腕を持ち上げて物色するように眺め始め、ひとしきり眺め終わると呟くように言った。
「で、コイツが野盗団に入ってた証ってわけか」
「!」
ケルカが言った証。
それはオレの左腕に刻まれた、2本の剣が交差した形の刺青だった。
ケルカの言う通り、それは野盗団だったことの証であり、消すことのできない過去を思い起こさせるものでもある。
反射的に、隠すようにオレは左腕の刺青を右手で押さえた。
「消さねぇのか?」
ケルカの質問に、オレは下を向いて答える。
「そりゃ消してぇよ。
これ見ると、昔のこと思い出しちまうし……
でも、消せねぇんだ。
毛を剃り落としても、新しく生えてくる毛まで染まっちまってて……」
「そりゃ、呪が掛かってるからな」
オレの答えに、ケルカはさも当然のような口調で言う。
「……呪?」
ケルカを振り仰ぎ、オウム返しに聞き返すオレに、ケルカはうなずいて答えた。
「ああ。 ま、程度の低い、ただ刺青が消せねぇようにするだけの呪だけどよ、解呪しねぇとどんなことしてもソイツは消せねぇ。
逆に言やぁ、解呪さえしてやりゃ消すことも難しくねぇ。
刺青自体もちょっとした外科手術で消せるだろうしな。
つーか、そのこと、クーアから聞いてねぇのか?」
怪訝そうに問うケルカに、オレは首を横に振って応えた。
するとケルカは何かに気付いたかのように言う。
「あ〜、オメェ、その刺青消してぇってクーアにちゃんと伝えたか?」
オレは再び首を横に振って応えた。
「やっぱな〜。 アイツぁどうも個人意思を尊重することが多いからな。
あんま押し付けがましいこたぁしねぇんだ。
そのクセ、余計な時にゃお節介を焼きやがる。
その刺青も、オメェが消してぇって言やぁ消してくれただろうによ。
ホント、空気が読めねぇっつーか、お節介の焼き方がズレてるっつーか。
……ま、アイツの考えじゃ、そんなもんが入ってるからって、いつまでも過去ばっか気にしてねぇで、ソイツに負けねぇように乗り越えろってとこなんだろうがよ」
1人納得して、ケルカはオレの左腕から手を離した。
オレは解放された左腕の刺青を見ながら思っていた。
(ここに来た日にも、同じようなこと、クーアに言われたな……)
無意識に刺青の腕に右手を這わせる。
それを見止めたのか、ケルカが再び尋ねてきた。
「ソレ、消すか?
消すなら解呪もできる知り合いの医者に頼んでやんぞ?」
聞かれて、オレはしばし考える。
オレとしては消したい。
過去を想起させるものだから、それを思い出さないためにも消してしまいたい。
ここに来て、せっかく新たな一歩を踏み出せるというのに、いつまでも過去に囚われていたくはないからだ。
ただ、もし消してしまったら、それはクーアの望みに反することにはならないだろうか。
もちろん、ケルカのクーアが考えていることに対する予想が正しければの話だが、思い返してみれば、クーアが刺青のことについて触れたことはない。
オレがこの刺青に対して何を思っているのかに気付かないとは思えないのに、だ。
とすれば、おそらくケルカの予想は正しいだろうし、事実、ここに来た初日にも同じようなことを言われている。
その考えが頭の片隅にあり、容易には答えられなかった。
自分の望みとクーアの望みのどちらを尊重し、選ぶべきか。
そう何度も同じことを自問自答していると、ケルカが独り言のように言った。
「オレなら消すね」
その言葉に、オレはケルカを振り仰ぐ。
「ソイツがあるせいでいつまでもウジウジ考えちまうようなら、さっさと消しちまった方がいい。
オメェが考えてることなんざだいたい分かるけどよ、ソイツがあるせいで悩んじまうようなら、クーアのせいで消せねぇみてぇで、アイツにも悪ぃぜ?
クーアだって、悩みの種になっちまうようなら消せって言うだろうよ。
っつーわけで、オレなら消すねってこと」
ある意味、正論を説くケルカをしばし見つめる。
チャラけたいつもの表情と違って、いたって真面目な表情をしたケルカのその言葉には説得力があった。
そしてオレは、そのケルカの言葉に押され、決断を下した。
町から少し離れた森の入口付近に、その小屋はあった。
木造の簡素な造りながらも、住んでいる人間の性格が表れているように、家もその周囲も奇麗に手入れが行き届いている。
時刻は夕方。
もう陽もほとんど暮れ、森の入口付近とはいえ、灯りなしではいささか心許ない。
オレとケルカは、ケルカの手にした封魔晶に込められた『ドーン』の灯りを頼りに、小屋へと近付いていく。
玄関先の灯は消えているが、窓から漏れる灯を見る限り、中に人がいるのは間違いないようだ。
玄関扉の前に立つと、ケルカは荒々しく扉を叩いた。
「オイコラ、ヤブ医者!
客連れてきてやったぞ!
診察時間外でも開けろボッタクリ!」
とてもものを頼む態度とは思えない態度と言葉を発しながら、ケルカは扉を叩き続ける。
しばらくして、扉の向こうに気配が現れた。
そのことに同じく気付いたケルカが、扉を叩くのをやめる。
ケルカのノックが終わり、ややあって、扉が押し開かれた。
中から現れたのは、10代半ばと見られる蛇竜人の少年。
丸眼鏡をマズルの上に乗せ、明らかに不機嫌な顔をしてケルカを睨み付け、口を開いた。
「私はヤブではない。
名医と呼ばれて天狗になっているクズ共の万倍はいい腕を持っていると自負している。
それと患者を客と呼ぶのはやめたまえ、失礼な」
年齢に不相応な話し方をするその少年にいささか驚くオレ。
次いで、少年はそのままの表情でオレを見て、一言、
「この子は君の隠し子か何かかね?」
皮肉めいた口調でケルカに言うが、ケルカはその言葉をまったく無視し、
「この蛇野郎がオレが言ってた医者、名前はアスクだ。
性格外道の業突く張りのボッタクリのクソ野郎だけど、腕だけは確かだから信用していいぜ」
と、『だけ』の部分をやけに強調してオレに紹介した。
無視され、散々な言われようをしたアスクも、負けじとケルカをこき下ろす。
「で、今日は何の用で来たのかね?
ついのその出来の悪過ぎる頭を治しにきたのかね?
残念だが、君のその頭はもはや手遅れだ、手の施しようがない。
いかに私といえども治しきれんよ。
他を当たってくれたまえ」
「……それが客を連れてきた人間に言うセリフかよ」
「その言葉を引用して返そう。
それが診てもらいにきた人間の取る態度かね?
というか、客ではなく患者と言えと、つい今さっき言ったのだが?
ものの1分もたたない以前の言葉すら理解できないほどに頭が劣化してしまったのかね?」
「口の減らねぇ……」
「その言葉はそのまま返そう」
「…………」
「何かね?」
「……テメェ、いつか犯してやるからな」
「子供の前で言う台詞ではないな。
本当に思慮の足りない男だ、君は。
その頭には脳みその代わりに豆腐でも入っているのかね?
まったく、クーアの苦労がうかがえるよ」
「…………」
「さて、こうして罵り合っていても仕方がない。
話を先に進めようじゃないかね」
終わりの見えない口喧嘩を打ち切り、アスクが切り出す。
「この子はどこが悪いのかね?
見たところ、いたって健康そうに見えるが?」
「怪我とか病気じゃねぇんだ。
とりあえず、中入っていいか?」
ケルカが答える。
その平然とした様子と口調から察するに、どうやら今までのやり取りは、2人にとっては挨拶のようなものらしかった。
「ああ、構わんよ」
「んじゃ、こっちだ、入れよシーザー」
アスクの了承を得て、ケルカがオレをうながした。
話においてけぼりを食ったオレは、2人の会話のままに流されるまま、小屋の中に足を踏み入れた。
小屋の中は小奇麗に整理整頓がなされており、外観の奇麗さと相まってアスクの几帳面な性格がうかがえる。
入ってすぐの待合室には数脚の木製椅子が整然と並び、受付のカウンターには名前を記帳する名簿が置かれ、カウンターの隅には一輪ざしが飾られていた。
壁には風景画と共に、カレンダー、そして振り子の付いた時計が掛けられ、待合室の隅にマガジンラックに雑誌が整頓されて置かれており、それらがいかにも診療所の待合室の雰囲気を醸し出している。
「奥へ」
前に立つアスクが入口で靴をスリッパに履き替え、待合室奥の扉を開けた。
診察室だろうその扉の向こうに入っていったアスクのあとを追い、オレとケルカもスリッパに履き替えてあとに続く。
扉をくぐると、目隠しのための薄いカーテンが天井から下がっており、アスクはそれを開いて奥の机と対になった椅子に腰掛けた。
そして、机の引き出しからカルテを取り出すと、机の上に置き、
「名前、年齢、住所、過去の病歴、その他。
少し質問するから答えてくれたまえ」
言って、続けて次々と質問をしてきた。
オレはそれに答えていき、アスクはペンをカルテにはしらせながら質問を繰り返す。
そうして何度か問答をしているうちにカルテが完成したらしく、アスクがペンを置いた。
アスクはオレの方に向き直り、正面からオレを見据えて尋ねる。
「で、今日は何の用で来たのかね?
怪我や病気ではないのだろう?」
「まぁな。 今日の用件は……シーザー」
ケルカがオレの代わりに答え、オレをうながした。
意図を察したオレは、上着を脱ぎ、上半身を裸にして、左腕の刺青をアスクに見せる。
アスクはオレの刺青を見止めると、少し目を見開いて眼鏡の位置を軽く直し、顔を刺青に近付けた。
「……呪か」
「そういうこと。 今日の用件はコレ。
コイツを消してほしいってわけ。
解呪はオレでもできるけど、刺青消すのは無理だからよ」
「ふむ」
アスクはケルカの言葉を聞きながら、オレの刺青を観察し続ける。
やがて顔を上げると、オレを見据え、
「今すぐに施術するかね?
術式はそう難しいものでもないが?」
と尋ねてきた。
突然問われ、どう答えていいものかと答えあぐねていると、横からケルカが助け船を出してくれた。
「どのくらいで終わる?」
「解呪したあとに、墨の入った場所をえぐって、自己再生を促進させて整えるから、まぁ個人差はあるが1時間くらいで済むだろう」
「えぐるって、エグいな」
「……低能な発言は控えてくれたまえ」
「…………」
くだらないシャレを言ったケルカを制し、アスクが再びオレに尋ねてくる。
「そういうわけだが、どうするね?」
「……あの、えぐるって?」
えぐるという表現に、やや気後れしたオレが問い返すと、
「文字通り、肉をえぐる、という意味だ」
と、アスクはいたって当然のことのように答えた。
それを聞いてオレが困惑していると、そのことに気付いたアスクが補足する。
「本来、レーザーなどで焼くのが一般的なのだが、それでは痕が残るし、消せないものも少なからずある。
だから、墨の入った部分を除去して、自己再生によって元の形に戻すのが一番簡単で確実な方法なのだよ。
無論、普通に自己再生させてしまうと大きく痕が残ってしまうので、魔術によって整えるがね。
施術の際には局部麻酔をするので痛みはないが、自分の肉をえぐられるのを見たくなければ全身麻酔にしても構わんよ。
起きた時には終わっている」
丁寧な補足説明を受け、オレはしばし考える。
ケルカではないが、かなりエグい方法で刺青を取り去るようだ。
おそらく正視に堪えるものではないだろう。
今までマテリアのスプラッターな光景は結構に見てきたが、自分の体のこととなると話は別だ。
いっそのこと全身麻酔をして知らずのうちに済んでいる方が、精神衛生的には無難なような気がする。
などとオレが決められずに悩んでいると、ケルカが横やりを入れてきた。
「つーか、オメェ、腕をちょこっとえぐられるぐれぇでビビってたら、この先レンジャーなんてやってけねぇぞ?」
ややからかい気味の口調で入れられた横やりに、にわかに頭に血が昇る。
気後れしてしまったのは事実だが、こうもストレートに言われると頭にくる。
オレがイラッとしたのを見止め、ケルカがニヤニヤと笑みを浮かべる。
完全にからかっている表情だ。
そこへさらにケルカの野次がきた。
「根性なし〜」
からかっていることは分かっていたのだが、その一言でオレは完全に頭に血が昇ってしまった。
「なんだとこのっ!」
勢い勇んでケルカに跳び掛かるも、片手であっさりと頭から押さえ付けられてしまい、徒労に終わってしまう。
そんなオレとケルカのやり取りを見て、アスクが呆れ気味に呟く。
「似た者同士なのは結構だが、早く決めてくれたまえ。
こっちも暇ではないのでね」
「なんだ? オナニーでもすんのか?」
片手でオレの抵抗を抑えながら、今度はアスクをからかうケルカ。
それに対し、アスクは大きくため息をつくと、
「君の頭には生殖器でも詰まっているのかね?
正常な脳と入れ替えてやろうか?」
と、冷静にあしらった。
そして、続けて三度オレに尋ねる。
「さて、どうするか早く決めてくれたまえ」
オレはその質問に、ケルカへの怒りの勢いも相まって今度は即座に答えた。
「やる!」
「麻酔はどうするね? 局部? 全身?」
「なしだ!」
「……馬鹿者」
勢いついでに答えてしまったオレを一瞥し、アスクが呟いた。
「っつーわけで、コイツ、失敗してこ〜んな姿になっちまいやんの、ダッセー! ギャハハハ!!」
診察台の脇の椅子に腰掛けて、ケルカが大声で笑う。
コイツ、というのはアスクのことで、今のケルカの話は、過去にアスクが魔術によって若返りを試みたものの、それが失敗に終わったという、その失敗談だった。
話によると、20代半ばに若返ろうとしたはずが若返り過ぎてしまい、10代半ばにまで若返ってしまったのだとか。
実際のアスクの年齢は40代後半らしい。
そんな本人にとっては一大事だろうできごとを、なんのデリカシーもなくバカ笑いを交えながら、あまつさえ本人の目の前で語るのだから、ケルカの性格の悪さは筋金入りだと思わざるをえない。
しかし、一方で当のアスクは素知らぬふりをして、オレに施術を施し続けている。
今、オレは診察台の上に寝かされ、アスクの施術を受けていた。
施術は再生の段階にまできており、解呪、刺青の除去には成功していた。
結局、局部麻酔を打たれたこと、そして除去の際に自分の腕から目を逸らしたことでケルカのからかいを受けはしたが、怖いもの見たさで一瞬だけ除去の一部始終を見てしまったオレは、麻酔なしで施術されるならからかわれた方がマシ、この光景をずっと見ているならからかわれた方がマシ、とケルカのからかいにも充分に堪えることができた。
「さて。 この調子ならもう数分で施術も完了するだろう」
アスクがオレの腕を見ながら言う。
自己再生を促進させて整える魔術を受け、オレの左腕の患部は白く発光していた。
発光の為に患部がどうなっているのかは分からないが、おそらく光の中ではオレの体組織は自己再生を続けているはずだ。
「お、結構早かったな。
まだ1時間経ってねぇぞ。
単細胞だから再生も速ぇのか?」
「な――」
「単細胞は君だろう?
それより、少し黙っていてくれないかね?
さっきからベラベラとうるさい。
気が散ってしまって仕方がない」
ケルカのからかいにオレが文句を言うより早く、アスクがたしなめた。
たしなめられたケルカは肩をすくめ、立ち上がって診察室の物色を始める。
「あまりあれこれ触らないでくれたまえ」
「へ〜いへい」
何か問題を起こしそうなケルカをあらかじめ注意し、アスクが小さくため息をつく。
そして、ケルカの姿が遠退いたのを確認すると、小さな声でオレに話し掛けてきた。
「君はレンジャーを目指すのかね?」
施術が始まって、初めて話し掛けられたことに若干驚きつつ、オレは答える。
「あ、まぁ……」
「それがどういうことか、分かっているかね?」
(……どういうこと?)
含みのあるアスクの言い方に、オレは頭の中で呟く。
オレの認識では、レンジャーは何でも屋、という認識であり、さらにクーアを見る限りは半端ではなく強い者、という認識でしかない。
まだレンジャーというものを知ってから日が浅いためかもしれないが、オレの中での認識はそれぐらいだ。
アスクはそんなオレの認識を見抜いたのか、答えずにいたオレに忠告するように言った。
「死ぬ確率が高い。
怪我で済めばいい方だ。
事実、私は今まで何百、何千とレンジャーを診てきたが、レンジャーの死亡率は他の職業に比べて非常に高い。
なぜだか分かるかね?」
「……仕事で失敗、とか?」
「殺されるからだよ」
「…………」
脅しめいた言い方でアスクが言う。
その言葉に、少しだけ、背筋に悪寒が走った。
「レンジャーはコスモスの構成員。
コスモスには永い間、敵対し続けている組織がある」
「……カオス」
「そう」
オレの答えに、アスクがうなずく。
「カオスにも当然、構成員がいる。
それがハンター。
奴等は常にレンジャーを狙っている。
レンジャーには賞金が懸けられていてね。
それを目当てにハンターに狩られるレンジャーも多い。」
「……知ってる」
オレが答えると、アスクは『そうかな?』という表情を浮かべ、話を続ける。
「これはレンジャーである以上、避けては通れない道だ。
そして、それは上のクラス、つまりは強くなったとしても変わらない。
逆に、上のクラスになればなるほど狙われる危険性が増す。
なぜなら、クラスは強さを表すものでもあるが、同時に危険度でもあるからだ。
高クラスのレンジャーは、カオス側からしてみれば危険人物でもあるのだよ。
だからこそ、害が出ない為に、できるだけ害を抑える為に、カオスは率先して高クラスのレンジャーを狙う。
もちろん、高クラスのレンジャーを狩るのはカオス側からしてもリスクが高いわけだが、この世界は天井知らずだ、決して難し過ぎるわけでもない。
それ相応の力を持ったハンターは五万といるからね」
言って、アスクは話を切った。
レンジャーを狩るハンターがいることは、以前にクーアからざっと聞いて知っていたが、こうして丁寧な説明をされると、その危険が身近なもののような気がして身が引き締まる。
強さが天井知らずなのは、クーアのそばで数か月を過ごしてきたオレはよく知っているし、実際、死にそうな目にも合っている。
再び背筋に悪寒が走り、アスクに気付かれないように身震いするも、アスクにそれを見止められた。
「怖いのかね?」
「……別に」
努めて何でもない振りをするが、それが見え透いた強がりだということは自分が一番よく分かっていた。
オレはこれ以上弱みを見せない為、ごまかしついでに思い付いたことをアスクに尋ねてみる。
「ケルカにも賞金は懸かってんだろ?
どのくらい懸かってんだ」
オレは、部屋の隅の方で本棚から本を取り出してパラパラとめくっているケルカに目をやった。
アスクはオレの視線につられることなく、小さく笑みを浮かべて答える。
「懸けられてもいるし、懸けられてもいない」
「? どういうことだ?」
矛盾した答えに、聞き返すオレ。
アスクは笑みを浮かべたまま答える。
「彼がZクラス、つまりはレンジャーの最高位クラスだということは知ってるかね?」
アスクの問い掛けに、オレは首を横に振って答えるが、一言付け加える。
「……なんとなくそんな気はしてたけど」
「Zクラスのレンジャーには数字としての懸賞金は懸けられていない。
その代わりに、彼等を狩ることができた者には、可能な範囲で望むだけの恩賞が与えられることになっているそうだ。
湯水のように使っても使いきれない程の金だろうと、1国の王になることだろうと、ね。
コスモスでもZクラスのハンターを討った者には同様の恩賞が与えられたはずだ。
もっとも、そんなことはまず不可能だろうがね。
ケルカを含め、Zクラスのレンジャー達の強さは常軌を逸している。
強さという意味で、彼等は例外だよ」
ケルカのことを見もせずにアスクは言った。
オレはケルカを見たまま、アスクの言葉を受け止める。
当のケルカは、本棚から新たに出そうとした本を取り落として足の上に落下させてしまい悶絶していた。
とてもではないが、アスクの言葉を信じられそうにはない光景だ。
「ただ、Zクラスの中でも、ケルカや仲間のクーア達に関して言えば、正確には懸賞金自体が懸けられていない」
「?」
半ば呆れ気味にオレがケルカの姿を見ていると、アスクが話の続きを始めた。
オレはアスクに視線を戻し、耳を傾ける。
「どういうわけかまでは知らないがね、他のZクラスのレンジャー達と違って、公にその名前と顔が発表されていないのだよ。
だから、極一部の人間を除いて、彼等がZクラスのレンジャーであるということは知らないはずだ。
ゆえに、彼等には他のZクラスのレンジャー達とは違う意味、というよりも本当の意味で懸賞金が懸かっていない」
「それってどういう……」
「さて、それは分からないね。
本人達に聞いても答えてはくれなかったから」
「ふ〜ん……」
視線をケルカに移すと、まだ痛がっている。
そんな間抜けなケルカとは打って変わって、アスクは神妙な面持ちになると、続けた。
「それはさておき。
問題は、だ」
「?」
「問題は君だ」
「どういう……」
意味不明なアスクの言葉に、言葉を詰まらせながらも聞き返すオレ。
アスクはより神妙な面持ちで続ける。
「ケルカに関しては問題ない。
今話したように、彼はZクラスであるとはいえ、狙われる可能性はまずないからだ。
ただ、ハンターがレンジャーを狙う基準で重きを置いている事柄がもう1つある。
それは、伸びしろだ」
「伸びしろ?」
「そう、伸びしろ、別の言い方をすれば成長性、将来性とも言える。
伸びしろのあるレンジャー、それはつまり、カオスにとって将来的に害となる危険性が高いだろうレンジャーのことだ。
君のような、ね」
「オレ?」
言われて驚くオレ。
話の良い部分だけを抜粋すると、オレが強くなれるということのお墨付きをもらったような気がして良い気分なのだが、同時に狙われることを決定づけられたような気もして複雑な気分にもなった。
ただ、やはり強くなれることのお墨付きをもらったことの方が、オレの気分としては勝っていた。
もちろん、狙われる危険性に対する恐怖も頭にはあったのだが、オレの頭は都合良く悪い思考を押し退けて、自分が有頂天になれる思考だけを残してくれた。
しかし、そこへ、冷や水を浴びせるような言葉をアスクが投げ掛ける。
「あくまで素人考えだよ、これは。
私はハンターでもなければレンジャーでもないし、戦闘に関しては疎いからね。
私の言葉は君の伸びしろを約束するものではない」
今まで散々に不安な思いをして、ようやく良い気分になれたというのに、それを真っ向から否定するような言葉を投げ掛けられたことで、いささかムッとするオレ。
その気分を発散する為に、険のある口調でアスクに問う。
「じゃあ、なんでそんなことをオレに言ったんだよ?」
するとアスクは小さく肩をすくめ、
「ケルカの名と顔、そして強さは、カオスにおいても極一部とはいえ、知る人ぞ知るところだろう。
これはレンジャーにも言えることだが、ハンター達の情報収集力は非常に高い。
君がレンジャーになれば、そのことは瞬く間にカオスに伝わり、ハンター達の知るところとなる。
それこそ、君の年齢、性別、身長、体重、出身、そして後ろだてもね。
となれば、ケルカが君の後ろにいることも知られることになる。
ケルカのことを知るハンター達は、ケルカが君の後ろだてだと知ったらどう思う?
あのケルカが連れ歩いているんだ。
きっと後々に手に負えない厄介な存在になるに違いない。
ならばそうなる前の今のうちに始末しておこう。
と、こうなることは想像に難くないだろう?
だから――イタッ!?」
言葉の途中でアスクが悲鳴を上げた。
見れば、いつの間にか後ろに来ていたケルカが、持っていた本でアスクの頭をはたいていた。
「何するんだ、いきなり」
「何するじゃねぇよ、ボケ。
ガキ脅してどうすんだ」
「……ふむ、確かに少し脅しめいてしまったかな。
すまない、謝ろう」
言ってアスクがオレに頭を下げる。
それを見たケルカは、オレの方を向き、
「こんなヤブの言うことなんざ気にすることねぇぞ」
と、言い残し、ブツブツ言いながらまた部屋の物色をし始めた。
その姿を確認したアスクは再び小声でオレに話し掛ける。
「まあ、今はそんなに心配する必要もない。
君が充分に成長するまで、きっと彼が面倒を見てくれるだろうからね。
ああ見えて彼、かなり仲間思いだから」
言って、アスクはチラリとケルカを見やる。
褒め言葉をもらった当のケルカは、本を本棚に戻し、今度は薬品棚の中の薬品の入った瓶をしげしげと眺めているところだった。
「さて、これで終わりだ」
アスクの言った言葉に、オレは視線をケルカから自分の左腕に移す。
それまで光で包まれていたオレの左腕からは光が消え、同時にえぐられた傷跡も見事に消えていた。
それどころか、施術前に剃られていた体毛もすっかり生え揃っている。
まだ麻酔の痺れはあるものの、見た目の上ではまったくの健常な腕だった。
「麻酔が切れるまではまだしばらく掛かるが、切れても痛みはないはずだ。
刺青もすっかり消えて傷口も再生した。
成功だよ」
「お、終わったか?」
施術終了に気付き、ケルカがこちらによってくる。
そのケルカに、オレは左腕を差し出して見せる。
すっかり消えて治ったオレの左腕を見て、ケルカが嘆息し、言う。
「さっすが。 キレイさっぱり消えてんな。
ホント腕だけはいいな、アンタ。 腕だけは。
それ以外は色々と最悪だけどな。
外道でいじきたなくて年齢詐欺でボッタクリで」
余計な言葉を交え、ケルカがアスクを褒める。
しかしアスクは動じず、それどころかそうくることが分かっていたかのように涼しげな表情を浮かべていた。
そして、わずかに口の端を歪ませ、目を細めてケルカを横に見ながら、
「ああ、ちなみに、この施術費用の心配はいらない。
彼に請求するからね。
ついでに、私のことを性格外道の業突く張りのいじきたない年齢詐欺のボッタクリのクソ野郎だと罵った無礼賃も上乗せして請求してやろう。
何、仲間思いの彼だ、きっと支払ってくれるだろう」
言って、アスクはオレに向ってニヤリと笑い掛けた。
言われたケルカは鼻息を吐き出して軽くアスクを睨み付けている。
なるほど、ボッタクリというのは事実のようだ。
アスクの診療所から帰ってきたオレは、すぐさま風呂場へ向かった。
手早く衣服を脱ぎ捨てて風呂場へと出ると、鏡の前に屈みこんだ。
そして少しだけ体を斜にしてみる。
鏡には、すっかり刺青の消えた左腕が映っていた。
シャワーの栓をひねって湯を出し、左腕を湿してみても、刺青が入っていたという事実さえなかったかのように、左腕は生まれたままの状態を鏡に映していた。
しばらく左腕を眺めているうち、ふと思い立って、目の前にある剃刀を手に取り、湿らせた左腕に当てた。
刺青の入っていた場所に当てたその剃刀を少し動かし、体毛を剃る。
剃っては剃刀に付着した体毛を流し、剃ってはまた流す。
そんなことを繰り返すうちに、刺青の入っていた場所に円形の無毛地帯が生まれた。
皮膚に付着した剃った体毛をシャワーで流すと、そこには刺青などまったく入っていない皮膚が現れた。
(消えた……)
心の中で呟き、じっとその部分を見つめる。
消えることがないと思っていた刺青が消え、何か分からないが、心のどこかで踏ん切りがついた気がする。
過去の一部が消えたような、そんな気分だ。
もちろん、過去が消えるなどということはあり得ないが、それでもこの真新しいとさえ形容できる皮膚を見ていると、自然とそんな気分になってきた。
と同時に、これをクーアに見せたらどういう反応をするだろう、という不安めいた疑問も浮かんできた。
ケルカはああ言っていたが、実際にクーアにこれを見せたらどう思うのだろうか。
過去から逃げだしたとも取れるオレのこの行動に落胆するのではないだろうか。
それともケルカの言うように、オレのこの行動を認めてくれるのだろうか。
だがしかし、やはり落胆するのではないだろうか。
などと、何度も何度も同じようなことを考えているうちに、オレは1つの答えに至った。
(もう消しちまったんだから、後戻りはできねぇよ。
クーアに見せてどういう反応するかなんて、実際に見せてみねぇと分からねぇ。
今ここでアレコレ考えたって仕方ねぇ。
もしガッカリさせちまったら、そん時はそん時だ)
そう思うと、一気に肩の荷が下りたような気がした。
だいぶ楽になった気分のまま、改めて刺青が入っていた場所を見る。
刺青の入っていないその左腕は、自分の腕のはずなのに、まるで他人の腕のような錯覚さえ覚えさせる。
しかし、それはまぎれもないオレの腕であり、これから先も見続け、使い続けていく腕だ。
オレは生まれ変わった自らの左腕を、まるで欲しかった物を手に入れた子供のように動かし回し、その感触を確かめた。
左腕は今までと変わりなく、だが、今までとは確実に違い、オレの思う通りに動いてくれた。
その様子を映していた鏡を見ると、オレは自分が知らず知らずに笑みを浮かべていることに気付いた。
(なんだかんだと言ったとこで、結局消えたのが嬉しいんだな、オレ)
鏡の中の嬉しそうな自分を見て、オレは客観的にそう思った。
ふと上を見上げると、まるで過去との決別に成功したオレを祝福するかのように、夜空に星々が瞬いていた。