「あ……」
眠気の残る眼を擦りながらリビングのドアを開け、中を見渡した瞬間、ほんのわずかに嫌気を孕んだ驚きの声を上げてしまった。
暖房の効いたリビング。
テレビとソファ、それらに挟まれるように背の低いテーブル。
リビングの左手側はダイニングで、食事のとれる背の高いテーブルが1と椅子が8つ。
さらにその手前側にはキッチンカウンターがあり、カウンターに向いた3つの椅子がある。
リビング入り口のドアの対面にあるテラスに通じる窓ガラスからは午前の陽が射し、窓ガラスは部屋の内外の気温差で少しばかり結露している。
特段変わったところのない、いつもと同じリビングだ。
オレが声を上げたのはそこではない。
「……おはよう」
オレが声を上げた原因。
それはソファに座っていた人物だった。
新聞を広げていたその人物は、猛禽そのままの鋭い瞳をこちらに向け、朝の挨拶をしてきた。
「おはよう……」
釣られるようにオレはその人物、アルファスに挨拶を返す。
といっても、アルファスはすでに新聞に視線を戻していたので、オレの返事をちゃんと聞いたのかどうかは分からない。
聞いていないということもないとは思うが。
と、そう思い至って、リビングに入って思わず上げてしまった驚きの声を聞かれたかどうかが気になった。
(ひょっとして、聞かれちまったかな)
恐る恐る、オレは新聞を読んでいるアルファスの顔色をうかがうが、これがまったくの無表情で、その心情をうかがい知ることはできなかった。
(怒って……ねぇよな?)
驚きの声に含まれたわずかな嫌気を悟られていないか気が気でないオレは、さらにアルファスの表情をうかがうも、やはりそれは徒労に終わる。
仕方なしに詮索を諦め、アルファスの視界から逃げるようにリビング、ダイニングを横切り、キッチンに入る。
(何考えてるか分かんねぇんだよな〜、あの人)
思いながら、オレはポットに水を入れ、火にかけた。
正直なところ、オレはアルファスが苦手だった。
好きか嫌いかという感情を問われれば、それは好きと答える。
だが、対応に苦慮する相手という意味で、オレはアルファスが苦手だった。
ケルカやフレイクは、打てば響くではないが会話のキャッチボールがしやすい。
話していて楽しいし、会話も弾む。
時に口論めいたことも起きるが、それは愛嬌。
ミラやワッズも同様に話がしやすい。
こちらが何を言ってもちゃんと答えが返ってくるし、その答え方もどこか温かみ、優しさが感じられる。
母性的、という感じが、2人を表すのに適当な表現だろうか。
ワッズは男だが。
一方でアルファスは、4人とはまったく雰囲気が違う。
まず表情が少ない。
思い返してみれば、オレはアルファスが笑っているところや怒っているところ、その他、感情を表したところを見たことがない。
常に眼光鋭い無表情。
同じ猛禽でも、表情豊かなアーサーとは大違いだ。
そのうえ口数が少ない。
何か尋ねれば答えは返ってくるが、それも無駄を省いた短い返答の言葉だけ。
それでいて何かを話し掛けてくることもない。
せいぜいが今さっきのように挨拶程度。
あまつさえ、身に纏っている雰囲気が非常に厳しい。
怖いと言い換えてもいいくらいのその雰囲気は、こちらからおいそれと話し掛けることさえはばかられる。
それらを合わせた結果、オレはアルファスが苦手だった。
ジークはそうでもないらしく、アーサーにいたっては好いているようだが。
(う〜ん、上に行こうかな〜……でもな〜……)
シューシューと音を立て始めたポットを見ながら、オレは考える。
眠気を押して寝室からリビングに下りてきたのは見たいテレビ番組があったからなのだが、テレビを見るということは、とりもなおさず苦手なアルファスの横に座らなければならないということであり、それは状況的にかなりきついものがある。
テレビ番組に集中できるかどうかも怪しい。
せめて誰か1人いればワンクッションになるのだが、こういう時に限ってジークもアーサーもいない。
(う〜ん、うーん……)
湯気を噴き出し始めたポットを見ながら、オレは頭の中で唸る。
迷いのあまり、オレの頭からも湯気が噴き出しそうだった。
(……ま、仕方ないや、我慢しよ)
オレはアルファスの隣でテレビを見ることに決めた。
そこで少しでも気を楽にするために、少しばかりアルファスに気を使ってみる。
「……コーヒー飲む?」
リビングに届くように、少し大きな声でアルファスに問い掛ける。
一拍置いて、アルファスが新聞から顔を上げ、こちらを振り返り、
「ああ」
と、返事をした。
(だよね)
予想通りの短い返事に、オレはアルファスに気付かれないようにため息をつく。
オレは火を止め、棚から鳥人用と獣人用のカップを1つずつ取り出すと、鳥人用のカップにはインスタントのコーヒーを、獣人用のカップにはインスタントのポタージュを入れた。
『ブラックでいい?』と聞こうかと思ったが、つい今しがたコーヒーを飲むかどうかを聞いたばかりなので、すぐさま重ねて尋ねることに気後れしてしまう。
(ま、いっか。 たぶんブラックだろ。
何かブラック飲んでるイメージあるし)
勝手に決め付けて、用意したカップにポットから湯を注ぐ。
湯気を立てながらコポコポと、カップの中を湯が満たし、それぞれにコーヒーとポタージュを完成させた。
それらをトレイに乗せ、ポタージュ用の木製スプーンとコーヒースプーンを添える。
念の為にミルクとシュガーポットも乗せておくことにした。
こぼさないようにトレイを持ってリビングに向かい、新聞を読むことを再開したアルファスの前にコーヒーを置く。
「熱いかも」
と告げ、オレはアルファスの隣――1人分程離れて――に座った。
「ありがとう」
やはり短い感謝の言葉を述べると、アルファスは新聞を畳み、目の前のコーヒーカップを手に取って口に運んだ。
(やっぱブラックか)
テーブルに置いたトレイの上にあるミルクやシュガーポットには目もくれず、淀みなくコーヒーカップを口に運んだところから、それが察せられた。
アルファスは一口コーヒーを含むと、カップをソーサーの上に戻し、再び新聞を広げる。
(こういう時、ケルカとかフレイクとかだったら何か言うんだろうけどね。
熱いとかなんとか、さ)
別に何を期待していたわけではないが、何か物足りなさを感じ、オレは自分の前に置いたポタージュをひとすすり。
「――ゥアチッ!」
ポタージュの予想以上の熱さに、声を上げるオレ。
が、アルファスはチラリとこちらを目で見ただけで、それ以上の反応はなかった。
「っつー……」
舌先を火傷してしまったようで、ヒリヒリと痛む。
一気に眠気が飛んでしまった。
オレはポタージュの表面に息を吹きかけて冷ます一方で、チラチラとアルファスの様子をうかがう。
アルファスは、まるでオレの存在などないかのように新聞を読みふけっていた。
次いで、壁に掛かった時計を見る。
時間は午前の9時になろうかという頃。
もうそろそろ見たい番組の始まる時間だ。
テレビに目を向ける。
テレビ画面は真っ暗で、電源が落ちている。
当然、テレビを見るには電源を入れなければならない。
次にリモコンを探す。
普段はテーブルの上に置いてある。
(あ……)
普段通り、リモコンはテーブルの上にあった。
ただし、その場所はアルファスを挟んだ向こう側。
取る為にはアルファスの前を失礼しなければならなかった。
(これは難関……)
もしも隣に座っているのがアルファスでなく、ケルカやフレイクだったとしたら、オレは遠慮もなしにリモコンに手を伸ばすだろう。
そしてミラやワッズだったとしたら、取ってくれるように頼むだろう。
しかし、相手はアルファス。
そのどちらもできそうにない。
かといって、わざわざソファを回り込んでリモコンを手に入れるのも、どう考えても不自然すぎるし、目立つところにリモコンがあるのに本体の主電源を入れに行くのも妙だ。
(どうする?)
リモコンと時計を交互に見ながら悩むオレ。
番組開始まで、あと1分もない。
(〜〜〜〜ッええい、もういいや!)
意を決し、オレはアルファスに遠慮しながら自分で取ることにした。
「ちょっとゴメン」
断りを入れ、アルファスの前に身を乗り出す。
アルファスがこちらを見て、オレが何をしようとしているのかを察したのか、新聞を自分の方に引き寄せた。
オレは中腰のまま、テーブルに右手を着いてリモコンに手を伸ばす。
その時、テーブルに着いた右手の手首辺りに違和感。
(あッ!)
と、思うが早いか、違和感が灼熱感に変わった。
「アッチィ!!!」
オレは叫び、立ち上がる。
何が起きたのか、確認するまでもなかった。
テーブルに着いた右手に感じた違和感はコーヒーソーサーを押してしまった違和感。
結果、ソーサー上のカップが持ち上がり、倒れ、中のコーヒーが手の甲から掌に渡って掛かって灼熱感。
「ッツーーー!」
コーヒーの掛かった右手を抑え、オレはキッチンに駆け込む。
蛇口を捻り、流水に右手を晒すと、痛みが若干和らいだ。
(最悪ぅ……)
厄日かと思えるような出来事の連続に、オレは心身ともにため息をついた。
と、
「手を見せてみろ」
いつの間にかキッチンに来ていたアルファスが声を掛けてきた。
オレが不意に声を掛けられて驚いていると、アルファスは半ば強引に蛇口にかざしている右手を掴んで自らの方に引き寄せた。
直後、オレは自分の体がわずかに白く発光し、同時に痛みが引いていくのを感じた。
(魔法……?)
痛みを引いていくのを実感しながら、オレはアルファスを見上げる。
アルファスは、やはり眼光鋭く無表情で、掴んだオレの右手を見つめていた。
ほんのわずかの間で痛みは完全に消え、同時に全身の発光もやんだ。
火傷を負ったはずの右手は完全にそれ以前の状態に戻り、ただポタポタと水が滴っているだけだった。
「痛みはないか?」
手を放さないまま、アルファスはオレの目を見て聞いてくる。
オレがうなずいて答えると、アルファスは
「そうか」
とだけ言って、キッチンにあったタオルを手に、リビングへと戻っていってしまった。
オレはポカンとしてその後ろ姿を見つめる。
リビングへと戻ったアルファスは、テーブルの上にこぼれたコーヒーを持っていったタオルで拭き、オレの飲んでいたポタージュ以外の物をトレイに乗せてキッチンに戻ってきた。
そして、カップとソーサー、コーヒースプーンをシンクに入れると、ミルクとシュガーポットが乗っているままのトレイを置き、コーヒーを吸ったタオルを持ってリビングのドアから出ていってしまった。
オレは、アルファスの一連の行動をただ呆けるように見守りながら、治してもらった右手を握ったり開いたりしていた。
アルファスがリビングを出ていく段になって、ようやく我に返り、シンクの中に置かれたカップ等に目を向けた。
「…………洗うかな」
呟いて、オレは上の空でカップ等を洗い、すすぐ。
わずかな量の洗い物を終え、水切りラックの上に置く頃、アルファスがリビングに戻ってきた。
アルファスはこちらに目を向けぬままリビングを横切り、それまで座っていたソファに腰を下ろすと、何事もなかったかのように新聞を広げた。
(怒ってる……かな?)
無言での帰還に少々不安になるオレ。
アルファスはこういうところが分かりにくいので困る。
(とりあえず、コーヒー入れなおそっかな)
ご機嫌取りというわけではないが、オレは再びコーヒーを入れる準備を始めた。
カップ一式を新しい物に変えて用意し、少し湯の残っているポットに水を足して火にかける。
その最中、壁の時計を見れば、見たい番組の放送開始時刻はとっくに過ぎてしまっていた。
(……仕方ねぇか〜)
ガックリと肩を落としながら、沸いた湯をカップに入ったインスタントのコーヒーの上に注ぎ込む。
完成したコーヒーをトレイに乗せ、オレはアルファスのいるリビングへと向かった。
「はい」
一声掛けて、オレはアルファスの前にコーヒーを置いた。
声に反応し、新聞から顔を上げたアルファスからは、
「ありがとう」
の一言。
語気からは怒っている様子はうかがえない。
というよりも分からない。
なので、思い切って聞いてみることにした。
「あ〜のさ、ひょっとして怒ってる……?」
ソファに腰掛けぬまま、オレはアルファスに遠慮がちに問い掛けた。
「ん?」
アルファスが再度新聞から顔を上げてオレを見る。
長身のアルファスは、ソファに座っていても立った状態のオレと視線の高さはさほど変わらない。
アルファスの正面からの視線を交わし続けるのは、正直言ってかなり緊張する。
このままずっと見つめ合っていても仕方ないので、オレから口を開く。
「あの、コーヒー、こぼしちゃったから……」
言うと、アルファスはチラリと新しく入れたコーヒーに視線を移し、
「いや」
と、呟いて、コーヒーに手を伸ばした。
そして一口すすり、カップを戻すと、思い出したかのようにテーブル上のリモコンを手に取った。
「ほら」
アルファスは一言発すると、リモコンをオレに差し出す。
「え? …………あ、うん」
トレイをテーブルの上に置き、リモコンを受け取るオレ。
コーヒーをこぼす直前のオレの動作から、オレがリモコンを欲していたことを察してくれたらしい。
突然のアルファスの行動に、オレはそれに気付くのが遅れた。
相変わらず、言葉が少なすぎてよく分からない。
とはいえ、コーヒーをこぼしたことを怒っていないこと、そしてオレの意を汲んでくれたことは素直に嬉しい。
オレはリモコンを受け取ったものの、もうすでに番組放送開始時間を過ぎてしまっていたので、テレビの電源を入れることはしなかった。
(何かもういいや)
半ば投げやりになり、リモコンを手にしたまま、アルファスの隣に座る。
やはり1人分程距離を空けて。
リモコンをテーブルの上に置き、代わりにだいぶ冷めてしまったポタージュを手に取って一口すすると、突然アルファスが声を掛けてきた。
「テレビ、点けないのか?」
「へっ?」
急に降ってきた言葉に、オレは驚きの声を上げる。
見れば、アルファスは不思議そうにオレを見つめていた。
思い返してみると、授業以外の日常会話で、特に必要もない会話をアルファスの方から切り出してきたのは、これが初めてかもしれない。
オレが困惑しながら、
「あ〜……うん、もういいや」
と、答えると、アルファスは、
「遠慮することはないぞ?」
と、返してきた。
「ううん、遠慮とかじゃなくってさ、今から見ても中途半端だからさ、今日はもういいかなって」
「そうか」
オレの答えに納得したのか、アルファスはコーヒーをひとすすりすると、新聞を読むことを再開した。
(ビックリした……)
アルファスに必要以外で声を掛けられたのは、これが出会ってから初めてのことかもしれない。
それとも、これもアルファスにとっては必要なことだったのだろうか。
どちらにせよ、声を掛けられたことに多少なりとも驚いたオレは、今少し不思議な気分だった。
それは、何となくアルファスとの距離が身近に感じられる、そんな気分と言えなくもない。
何も映っていないテレビに向かい、オレはポタージュをすする。
隣からはアルファスが新聞をめくる音が聞こえてきた。
沈黙。
これまでなら間違いなく重苦しく感じたはずの沈黙が、今はほんの少し軽い。
そうしてぼんやりと暗いテレビを見つめながらポタージュをすすっていると、覚めたはずの眠気が段々と頭を持ち上げ始めた。
暖房の効いた暖かい部屋と、少し冷めてしまったがまだ温かさの残るポタージュ。
壁に掛けられた時計の規則的な秒針の音と、時折横から聞こえてくる新聞の紙擦れの音。
眠気を誘うには充分な環境だ。
ポタージュの入ったカップをテーブルに置く。
(……部屋で寝た方が…………)
ウトウトとし始めた頭の中でそんなことを考えているうち、次第にまぶたが重くなってきてしまった。
頭が前後にカクカクと揺れ、意識が覚醒と睡眠の間を行きつ戻りつする。
(……部屋で…………――――)
日差しを感じ、目覚める。
と同時に、頬に柔らかいような硬いような、それでいて温かい感触を覚えた。
明らかに枕やクッションとは違う感触だ。
徐々に鮮明になる視界には、横向きになったテレビが映る。
(…………あ、オレ、寝ちゃった?)
直前まで睡魔と戦っていた事実を思い出し、結局は睡魔に負けてしまったのだと気付いた。
少し身じろぎすると、上から声が降ってきた。
「起きたか?」
声に驚き顔を上げると、そこにはこちらを見下ろすアルファスの鋭い目があった。
「あっ!?」
思わず声を上げて、オレは体を起こした。
「あ〜、ゴメン、オレ……」
慌てて言い繕うとするが、何をどう言い繕っていいのか、起きたての頭では整理しきれず、上手く言葉が出てこなかった。
しかし、状況は理解できた。
睡魔に負けたオレは、アルファスの方に倒れたか何かをして、アルファスの腿を枕に眠ってしまったのだ。
時計を見れば10時を少し過ぎたところ。
1時間近く眠ってしまったようだ。
アルファスの腿を枕にして。
そこまで把握できたところで、オレは言い繕う言葉を繰り出すことができた。
「ゴメン、寝ちゃって。
その……枕にしちゃって」
視線をアルファスの腿に送り、謝る。
すると、今度は後ろから声が掛かった。
「よく寝てたね〜」
驚いて振り返ると、ダイニングの椅子に腰かけたワッズの姿があった。
人用のコーヒーカップを片手に、微笑みながらこちらを見ている。
「すごく珍しい光景が見られたよ」
「…………」
ワッズの言葉に、アルファスはチラリと彼をねめつけた。
「睨まないでよ。
だって、本当に珍しかったんだから」
笑い含みに言って、ワッズはコーヒーカップを口元へ運ぶ。
「アルファスが膝枕をしているところなんて、初めて見たよ。
ずいぶん、シーザーに懐かれたんだね」
口元をほころばせて言うワッズを一瞥し、アルファスは一瞬だけオレを見て、視線を逸らした。
その様子を見て、ワッズが笑う。
「照れなくたっていいじゃない」
(……これで照れてるのか?)
目の前のアルファスは、いつも通りの無表情だ。
とても照れているようには見えない。
「照れていない」
本人も、そう否定する。
そうして、まじまじとオレが見ていることに気付いたのか、アルファスがこちらを目だけで見て、また視線を逸らす。
(……あれ?)
視線を逸らしたのち、何となくアルファスを包む雰囲気が変わったように感じられた。
表情はないが、何となく居心地が悪そうにしているように見える。
(もしかして、ホントに照れてるのか?)
思い、改めて観察していると、
「シーザー」
と、ワッズから呼び掛けられた。
そちらを見れば、ワッズは悪戯っぽい笑みを浮かべて手招きしている。
招かれるまま、そちらに向かうと、ワッズはオレの耳元に口を近付け、小さな声で囁いた。
「あれはね、本当に照れてるんだよ。
だから最後の一押しをしてごらん。
そうすればきっと君のアルファスに対する苦手意識も薄まるし、アルファスも君に対して気安くなると思うよ」
「どうすりゃいいの?」
同じく小さな声で聞き返すと、ワッズは、さも面白そうに笑い、
「それはね……――――」
「……はぁ!?」
ワッズの指示に、オレは素っ頓狂な声を上げてしまった。
思わず上げてしまった大声に、慌てて口を塞いでアルファスの方を見るが、アルファスはこちらを振り向く素振りさえ見せない。
「ちょ、ちょっと待って、マジでやるの?」
小声でワッズに耳打ちすると、ワッズは笑顔でうなずく。
「それでシェイフはアルファスと打ち解けたよ。
前例があるから大丈夫、やってごらん」
自信たっぷりに囁き返すワッズに、釈然としないながらもオレはうなずいた。
そして、踵を返してアルファスの元に戻り、その横に立つ。
アルファスがこちらを見てくる。
それほど高さの変わらない位置での視線を交わし合うことしばし。
(……マジでやるのかよ)
思いながら、確認するようにワッズを見るが、彼はニコニコと笑って成り行きを見守っていた。
その間も、オレはアルファスの射るような視線を感じている。
(…………ああ、もう! どうにでもなれ!)
半ばやけくそになって、オレはワッズの指示通りの行動を起こした。
両手を広げ、目の前のアルファスに接近し、その胸に顔をうずめて、広げた両手を背に回す。
つまりは、アルファスに抱き付いたのだ。
「――っ!」
頭上で、明らかに驚きに息を飲む雰囲気を感じた。
それから数拍の間を置いて、
「ワッズ!」
アルファスが声を荒げてワッズの名を呼んだ。
ワッズがオレに耳打ちしたので、オレの行動がワッズの入れ知恵だと判断したのだろう。
初めて聞くアルファスの大きな声。
いつもの冷静な口調とは違って、感情のこもった声だった。
もっとも、込められている感情は怒気の様だったが。
その怒気を向けられたワッズは、声を上げて笑った。
「ほら、そんなに怒ったら、シーザーに怖がられるよ?」
「――くっ」
面白げに言うワッズに、アルファスはうめく
2人のやり取りの間も、オレはアルファスに抱き付いたままだ。
毛皮越しにアルファスの体温と心音が伝わってくる。
体温はオレのそれよりも温かく感じられ、心音も若干早いように思われた。
明らかに狼狽しているのが分かるが、何やらはばかられるものがあり、顔を上げてアルファスの表情をうかがうことができない。
ワッズからの指示は、『黙って抱き付け』だった。
以前、もう十数年も前のこと、オレの兄弟子にあたるシェイフも、オレと同じようにアルファスに対して苦手意識を抱いていたという話を耳にした。
ワッズの言葉を信じるなら、そのシェイフがアルファスに対する苦手意識を克服した際に取った行動が、『黙って抱き付く』だったようだ。
しかし、どう贔屓目に感じても、アルファスは怒っているように思われる。
抱き付いたオレに対してではなく、指示を出したワッズに対してだろうが、だとしてもアルファスのオレに対する好感度が上がるとは思えなかった。
「いいじゃない、抱き付かれるくらい。
保護者の立場としては、保護対象に抱き付かれるっていうのは名誉なことだと思うけど」
「突然、意味もなく抱き付かれることが名誉だと?」
「愛情表現としてのスキンシップの中でも最上級でしょ、抱き付くっていうのは」
「これは愛情表現ではなく、お前が無理矢理させているのだろうが」
「う〜ん、まぁそう言われればそうなんだけど。
あと、一応憶えてるとは思うけど、『いきなり抱き付く』作戦の発案者はケルカだよ。
十何年も前のことだけど、シェイフの時の、憶えてる?」
「……ああ」
「あの時は、そのあとに打ち解けてたでしょ?
シーザーだとできないわけ?」
「……そういう問題ではないだろう」
「じゃあ、どういう問題?」
「…………」
「ボクとしては、2人に打ち解けあってもらいたいと思ったから、成功例のある作戦をシーザーに教えたんだけど、それに問題があった?」
「…………」
2人のやり取りを、緊張しながら聞くことしばし。
アルファスが頭上で大きくため息をついた。
その際の、吸気に胸が膨らみ、呼気でしぼむのが、直に伝わってくる。
「だからといって、突然、子供を人に抱き付かせるのはどうかと思うが」
頭上から降る声音から怒気が消えたことに気付く。
声音の変化に気付いたオレが、見上げようと身じろいだ瞬間、オレの後頭部を優しく触れる物があった。
それがアルファスの掌だと気付くのに、わずかの時間も必要なかった。
少し迷い、見上げると、アルファスは胸の中のオレを見下ろしていた。
表情はいつものようにないが、どこか和らいだ印象を受ける。
「でも、ほら、上手くいったじゃない?」
笑い含みの声でワッズが指摘する。
そして、付け加えるように、
「まぁ、たしかにどうかとは、ボクも思わないでもないけどね。
けど、何しろ発案者がケルカだから」
そう言って、苦笑い。
ケルカの立てた作戦だと初めに聞いていれば、オレも実行したかどうかはあやしい。
何しろ、普段が普段だから。
と、頭上で『ふっ』と、噴き出すような音が。
咄嗟に見上げれば、
「たしかに、な」
硬い嘴の端を笑みの形に変えたアルファスが、呟くように言って、オレを見下ろしていた。
初めて見るアルファスの笑顔に、オレは目を見開く。
目の前の人物が、ほんの少し前まで苦手意識を持っていた人物とは思えない程、別人のように思われた。
(表情があるだけで、こんなに印象変わるんだ……)
視線を交わし合いながら、アルファスはオレの頭を撫でつけてくれる。
(いつもこうやって表情があれば、オレも苦手意識なんて持たなくても済んだのに……)
アルファスの笑顔を見ながら、心の中でぼやく。
しかし、これから先、たとえアルファスが無表情のままでも、再び苦手意識を持つことはないだろうと、今のオレにはそう思えた。
頭を撫でつけ続けてくれるアルファスに応えるよう、オレは、より強くアルファスに抱き付いた。
そんなオレ達を、ワッズは満面の笑みで見守っていた。