禁忌の間

〜来迎の間〜

 

急ぎ足で歩き始めて、もう数十里は越えてきたのだろうか。
今日でちょうど、二人が街を出て一週間が経つところだった。
どれ程歩いたか分からない。
どこまで離れたのか分からない。
ただ確実に分かるのは、逃げて三日経った頃から何者かに追われているという感覚。
一度も追ってきている者の姿を見たことは無かった。
しかし、気配だけは常に後ろを這いずるようにして二人に付きまとっていた。
戦いにおいて素人であるはずの夜慧でさえも、分かるほどに。
その気配は、ある一定の間隔以上から近づくことも、遠ざかることもない。
じっと、彼らの様子を見ているだけかのように、びったりと、その距離を維持している。
さすがにその生活が続いてるせいで、二人ともが身体的にも精神的にも疲弊し始めていた。

 

「ごめんね、夜慧…。
 こんな状況に追いやってしまって…。」

「ううん、大丈夫。
 よく分からないけど、向こうも危害を加えてきている訳ではないもの。
 勿論警戒はしなきゃいけないけれど、いつも臨戦態勢を維持する必要も無いと思うわ。」

「本当にごめん…。
 この辺に宿でもあれば良いんだけどね…。
 そうすれば、少しは楽なのに。
 食糧もそろそろ補給しないと。」

「一昨日通った街から歩いた距離を考えると、もう少し行けばあると思うわ。
 ただの勘だけどね。
 でもそろそろ街がなくなってくるかも…。
 私が地図で覚えている街は、多分次で最後だと思うから…。」

「そうか…。
 そこからが…問題だな…。
 清将さんの言うことを信じて、とにかく北を目指すか…。
 または、ここから進路を変えて違う国を目指すか…。」

「清将さんの言ったことを信じましょう。
 夕君だって、全くの無名ってわけじゃないのよ?
 巷じゃ高末の懐刀、なんて呼ばれたりもしてたんだから!」

「そ、そんなこと言われてたのか?!
 全然知らなかったんだけど…。」

「知らぬは本人ばかり、って感じね…。
 とにかく、少しでも人目につかないところへ行かなくちゃ。
 それに、約束、したでしょ?」

「そうだな…。
 まぁ今後の方針は、次の最後の街で考えよう。
 今は体力をあんまり消費しないで、街に着かないとな。」

「えぇ…。」

 

それきりで、会話は途絶えた。
既に体力も精神力もほぼ限界であり、それ以上は歩くことしかできなかった。
ただ二人、並んで歩くだけ。
気配だけがついてくる、謎の人物。
途方も無い道のり。
存在さえも疑わしい理想郷。
今は遠く離れた、もう一人の友人であり家族である人の状況。
全てが分からない。
ここには、何も無い。
あるのは、目の前に続く道だけである。
輝かしかった過去にはたくさん溢れていたのに、今はいろいろなものが無い。
それは、ある種の希望。
それは、ある種の団欒。
それは、平和そのもの。
何故、こんなことになってしまったのだろう…。
二人はそれを口にしないまでも、お互いがずっと胸に秘めていた疑問だった。
何故、あんなにも平和で楽しかった日々が、
こんなにも容易く崩れてしまったのだろう…。
歩きながら、それだけを胸中で反芻させていた。

二人が最後に会話して、既に半日は経過したであろうか。
今は夕刻、夕暮れも見え始めている頃だ。
休憩も無く、それでもゆっくりと足を進めてきたお蔭で、
ようやく夜慧の言っていた街に到着した。
ここまで来るとそんなに規模の大きな街で無いにしろ、
そこに街があることはとてもありがたかった。
街に着いてようやく安心したのか、自然と二人で目を合わせ笑いあった。
ただそれだけなのに、何だか二人はとても暖かい気分で満たされるのであった。

 

「ふぅ…、着いたな…。」

「うん…。」

「今日はもう、宿を探して休もう。
 ごめんね、夜慧はもう、無理できる体じゃないのに…。」

「そんなこと言ったってしょうがないじゃない。
 私だって歩かなくちゃいけないんだからさ。
 大丈夫、まだまだいけるわ。
 ほらっ、夕君がしっかりしてくれなきゃ、私だって参っちゃうでしょ?!」

「そっか…。
 ん…、頑張る。」

「ははは♪」

「???」

 

突然笑い出す夜慧に、夕は顔をしかめずにはいられない。
そんなしかめっ面を見て、さらにけたけたと笑い出す夜慧は、
一週間以上振りに見る姿だった。
夜慧がそんなだから、結局夕も笑いが堪え切れなくて、
二人して笑い出すという不思議な状況になってしまった。

 

「って、何で夜慧は笑うんだよっ!」

「だってー。
 夕君、やっぱり変わんないなぁって思って。」

「何が?
 僕はちょっとは偉くなったとは思うぞ。」

 

口先を尖らせて、何となく不機嫌そうにしている夕は、
夜慧から見てもう滑稽でしかなかったらしい。
また笑い出す夜慧を、夕には手がつけられなかった。

 

「な、何だよぉ!」

「んー?
 最終的にはやーっぱり、私が夕君のこと支えてるのかなーって思ってね〜。
 昔と同じだなーなんて思ったり。」

「べ、別にそんなすぐ変わったりするわけないだろー?!
 僕は僕なんだから。」

「夕君、さっきと言ってることが違うよ。
 ははは♪」

「う…。
 僕をからかって楽しむなんて、夜慧も相変わらずだな!
 こんな状況下で。」

「何かね、こういう場合だから笑えるって大事なんだと思うの。
 私たち、最近緊張しっぱなしで、心に余裕なんて無かったし。」

「そりゃまぁそういう状況だからそうなるわけで…。」

「でね!
 発想の転換で、こういう時だから笑ってる必要があるんだよ!
 だから私たち、いっぱい笑おう。
 いっぱい笑って、つらい気持ちは追い出しちゃえば良いんだよ。
 ね?」

「うーん、何か考え方が全く分からないけれど、
 確かに笑ってないと駄目っていうのもあるような…?」

「でしょっ!
 だから…」

 

徐々に明るくなってきた雰囲気の中で、二人は嫌な会話を耳にすることになった。
それは、何よりも聞き入れたくない、それでも聞かなければいけないことだった。
夕刻で、差し詰め今晩の買い出しでもしていたのであろう女性が二人。
それと野良仕事から帰ってきたのであろう男性が数名、話をしていた。
ただそれだけなら良かった。
今日はいっぱい働いた。
だから今日のご飯はたーんとおいしいものを作ってあげる!
そんな会話だったなら、どんなに幸せで、静かに聞き流せただろうか。
その単語さえ、出てこなければ、良かった。

 

「…南……高末……討………壊滅……。
 次は…北………しいよ。」

「「え?」」

 

二人して、同時に声を出す。
勿論、それは不自然すぎて、そこで話している数名の人たちは夕たちを見た。
二人はわなわなとしながらも、その話の詳細を聞かなければいけなかった。

 

「あ、あの、すみません…。
 話を少し聞いてしまったんですけど、一体何の話をしていたんですか?」

 

神妙な顔をした人たちの中の一人の女性が、少しだけ嫌そうな顔をしながら話す。

 

「いやね、遠い南にある高末ノ国が、周囲三国に攻め入られたって話よ。
 先日、遂に高末ノ国は落城。
 城主様は大衆の面前で処刑されてしまったそうで、今はその家臣を探しているらしいの。
 その家臣は現在この北方を目指しているらしく、討伐隊を結成中ってことなのよ。
 たった一人の家臣のために、そこまでするのもどうかと思うけどね〜ってね。
 たった一人、何を恐れて大隊を組んで、私らのところまで来る気なんだか…。
 私らに危害が加われなければ良いんだけど、良い迷惑よね〜。
 あ、あと、異種間の夫婦や恋人も、全員処刑にあったそうね。」

 

現実は、とても残酷な結果を二人に告げた。
清将は処刑され、現在は二人を、厳密には夕を追跡中という話なのだ。
それはとても信じがたく、受け入れたくもないことだった。

 

「嘘…、そんなのって…。」

「あんた達も夫婦?
 なら気をつけなよ?
 違う国が出身だからって、そいつらに見つかったら殺されかねないんだから。」

 

本当についさっき、笑っていようと。
元気を出していこうと。
そう誓おうとしていたところなのに…。
機会を計ったかのように訪れた、余りにも無残な悲劇。
あの街を出る時に、自分達は家族だと。
そしてまた再会することを交わした、そんな人が…。
もう、この世に、いないなんて。
そんな二人の心情を悟るはずも無く、人の群れは各々自分の家へと帰っていった。
取り残された二人は、絶句する以外何もできなかった。
夜慧は、言葉を紡ごうにも声が出せず、ただ嗚咽だけをはき続けていた。
それは本人にもどうもできないようで、抑えようとしてもそれしか出ないようだった。
そして頬を伝う、熱い涙。
夕もそれを我慢できず、ただ堪えるように涙を流していた。

 

「そんなのって…ないよ…。
 僕たち…約束したじゃないか…ぁ。」

「うっ…うぅ…ぁ…」


『私は、貴方達とは家族です。
 だからもう一度、必ず再会を果たしましょう。
 その後、また国を作る担い手の一人として、働いてくれますか?
 …お兄様に、お姉さま。』

 

最後に約束を交わした言葉が、清将の言葉が何度も胸に蘇ってくる。
蘇ってくるたび、涙は止め処なく流れ、地面にぽたぽたと落ちていく。
あの暖かかった声、歳不相応な態度、それでも歳より幼く見えた顔。
全てが泡沫の夢の如く、ただの幻となっていく。
手に残るものは、そこにあった感触だけ。
それさえも既に霞がかったような、おぼろげなものだった。

 

「何で……私たちだけ…。
 ただ、少し姿が違うだけじゃない…。」

 

それは、夜慧の独り言めいた訴えだった。

 

「私たちは…誰だって人を好きになる心を持ってるわ…。
 ただそれが、少し姿の違う人だっただけ…。
 種族って何?!
 そんなに大事なこと?!
 私たちが何かした?!
 もう、戦争なんてずっと昔のことじゃない!
 どうして、今も…禁忌とされなくちゃいけないのよ…!
 普通と少し違う能力?!
 そんなの、誰だって欲しくて最初から持ってるわけじゃないのよ?!
 清将さんだって…!
 ただ、一国の城主であっただけで?!」

「夜慧…落ち着こう。」

「何言ってるの?!
 清将さんが死んじゃったのよ?!
 それも、今はお兄ちゃんが狙われてる?!
 冗談じゃないわ!
 何で私たちがこんな目に遭わなくちゃいけないのよぉ!
 お兄ちゃんは悲しくないの?!腹が立たないの?!
 こんな理不尽なことにっ!」

「確かにそう思うけど、今はとにかくやるべきことがあるだろう?
 だったらそれを」

「やるべきこと?!
 何それ?!
 私たち、清将にもう二度と会えないのよ?!
 だったら何をすれば良いの?!」

「落ち着いて、夜慧。
 僕たちは、清将さんに言われた通り、とにかく進もう。
 戻れる場所なんてもう無いんだから。
 それに僕らが追われてることも分かったんだから、僕らがしっかり生きていかなくちゃ。
 そうでしょ?」

「だけど!」

「あのね、夜慧。
 昔、何か予期しないことが起きた時、取り乱しちゃいけないって教えてくれたのは君だろう?
 言った本人が取り乱してどうするのさ。
 それに、あの人たちは又聞きして情報を得ていたっぽいし、
 まだ全ての希望が断ち切られたってわけじゃないんじゃないかな。
 清将さんだって、そんなところで処刑されるような人じゃないことは、夜慧も知ってるでしょ?」

「……。」

「だったら、僕らがやれることはただ一つ。
 清将さんとの約束を守ろう。
 僕らだって約束したんだ。
 約束を果たす責任がある。
 僕らがこんなところでぐずついてたら、先に進めないってことは分かるよね?」

「お兄ちゃんは…悲しくないの…?」

「本当だったら悲しいよ。
 でも、本当じゃないかもしれない。
 本当だったら尚更、僕らは頑張って北を目指さなくちゃ。
 きっと清将さんは、夜慧には長生きして欲しいって思うはずだよ。
 幸せに、って条件付きでね。」

「…こんな時ばっかり、たくましいこと言っちゃって…。」

「え?」

 

夕には聞こえないくらい小声でぼそりと悪態をつくと、夜慧は大きく深呼吸をした。
肺の中の酸素を入れ替えるのと同時に、気持ちを入れ替えるように。
何度か深呼吸すると、いつもの夜慧の目に戻っていた。

 

「…そうね。
 まだ確証がないし、私が狙われてるかもしれないっていう可能性もわかったし…。
 そうなると、あの明らかな気配は追手と考えて間違いないのね。
 だったら私たち、かなり前からずっと居場所がばれてるわ。
 いつ襲われてもおかしくない状況だけど、ここに住む人たちの情報の速度から考えて、
 まだ近くまでは来ていないようね。
 追手はそういう討伐が目的ではないみたいだし、まだ安全ってことかしら。」

「そういうことになるね。
 うん、いつも通りの夜慧だな。」

「ありがとう、お兄ちゃん。
 それじゃやっぱり、明朝にはここを出る必要があるわね。
 この先は何も分からないから、荷物運びのための荷台を用意した方が良いと思うわ。
 日持ちする食料をかき集めて、何とか峠を越えられる分を確保しなくちゃ。」

「そうだな…。
 とりあえず今日は休むことを考えよう。
 確かに明朝には出たいけど、もう日の入りも終わってる。
 お店はやってないし、宿で体を休めるくらいしかできないよ。」

「うーん…そうね…。」

「今日は早めに寝よう。
 丑三つ時から僕が起きて警戒するから、突然襲われても大丈夫だと思う。」

「だけど、それじゃあ夕君が…。」

「大丈夫だってば〜。
 そのために訓練もいっぱいしたんだよー?」

「だ、大丈夫だって言うなら…。
 無理は駄目よ?」

「分かってる。
 さ、宿を取って休もう。」

 

ある時は昔のように、手間がかかるけど目が離せない兄であり。
そしてまたある時は、今のように頼れる旦那であり。
いつも守ってきた人は、既に自分より強くなっている。
兄としての夕との距離を感じる一方、連れ合いとしての夕を強く感じるのだった。
夕が守ってくれる。
なら自分はどうするか。
せめて、守られる必要がないよう、足を引っ張らないよう、立ち回るしかない。
それを悟られないよう強く胸に秘め、夕の背中を追う夜慧だった。

夕食後、少しまったりとした時間を過ごした二人だったが、
翌朝が早いこともあり、早々に就寝となった。
久々に床に就いただけだけあって、精神的な疲労も少しは和らいだ。
依然として付き纏う気配は、二人の誓いの前に少しだけ収まったかと思えた。
そのまま静かに時間は過ぎ、丑三つ時。
気が付いたかのようにはっと目を覚まし、夜慧を起こさないように布団を出、
夕は近くの見回りのため、外へと繰り出した。

宿の外は勿論のこと、しんと静まり返っている。
人通りもない。
普通の深夜時の街の様子であった。
異常はない。
しかし、その状況こそ異常だった。
何故なら…ここ何日かついてきていた、はっきりと分かる気配が、
微塵も感じることがなくなったからだ。
夜慧が気が付かないのはまだ分かる。
夕が気が付けないのは、自分のことながら異常過ぎた。
仮にも護奉陣の一陣長であったし、さらに巷でも清将の懐刀と呼ばれるような存在だ。
元々周囲の空気に敏感だったのであろう体質が才能として扱われ、
一年の月日という余りにも短い時間で長の座に上り詰めた者。
それが夕である。
勇灯という姓を与えられた、云わば最高の武士と言っても過言ではないはずなのだ。
その夕が、全く気配を感じ取れないということは、とても異質なことでしかない。
つまり、彼らの近く(少なくとも夕の感じ取れる広範囲の土地)には、
既に追手がいなくなっているということになる。
半日も経たずして、どうやって彼の察知能力を上回る隠密行動ができようか。
答えは単純にも、そこにしかいきつかない。
夕の能力を上回る相手が、自分達の敵にいるということに。

 

「まずいぞ…。」

 

いつもはあまり表情を崩さず、何となく気の抜けたような顔をしている夕だが、
この事態に顔を歪めずにはいられなかった。
この場から消えた理由は分からない。
もしかしたら、夕が気がつけない範囲の隠密かもしれない。
最早一刻の猶予さえ残されていないというのか…。
それでも、さすがにこの時間まで何もしないというのもおかしい。
そもそも、この時間に襲われることも可能性の一つとして浮上していたのだから。
人を襲う時は、相手が安心しきっている時が一番である。
丑三つ時といえば、大抵みな深い眠りについている頃だ。
ただそれは相手の力量によるところが大きいという欠点がある。
仮に武術の達人が自分の命を狙われていることが分かっていたなら、
襲われると想定される時間帯に自ら命をさらけ出すような真似はしないだろう。
ただ一瞬の隙ができるまで、ずっと相手との膠着状態が続くことになる。
相手を誘うか、相手に誘われるか。
まさに精神の勝負になってしまう。
その状況は、明らかに夕達の不利だったのだ。

 

「なら逆に、夜の間は大丈夫かな。
 来るとすれば…早朝、か。」

 

相手の逆の発想を突くことが、奇襲の鍵となる。
狙われていることが分かっている者は、夜寝ている時が一番危ないと思うだろうし、
また疲れきった夕方以降ということも考え得る。
その裏を返した考え方が、朝方である。
大抵は門出を襲われるなど、思ってもみない事だからだ。
だとしたら、出発の準備をしている暇は全く無い。
いや、夜慧を逃がすなら、ある程度の準備はする必要がどうしても出てくる。
二人の目的は『清将の言った通り、遥か北にあるであろう街を目指すこと』。
夕だけが狙われているのであれば、もしかしたら夜慧だけは襲われないという可能性だってある。
清将が願うように、夕もまた夜慧にだけは長く生きていて欲しいと思っているのだ。
ただ、夜慧の幸せを考える場合、そこに夕がいなくては話にならないわけだが…。

 

「うーん…。
 戻った方が無難かな…。」

 

今後のことを考えると、少しでも体力を残しておいた方が良いだろう。
そう考えた夕は、見回りを一通り終えるとすぐに宿へ戻っていった。
辺りは、月明かりが照らすだけ。
異常な気配は消え、それが更なる異常へと変貌した世界。
一日の始まり、今の終わり。
その時が…来る。

 

日の出と共に目を覚ました二人は、今の状況を整理しながら必要な買い物をした。
日持ちする食糧、身を隠すための傘、それらを運ぶための小さめの荷台。
食糧は一週間程度分しか用意できなかったが、それでも十分だった。
夜慧一人が、どこの街にでも逃げられる分の量だ。
最悪の場合を想定しての、十分な量なのである。

 

「よし、行こう。
 夜慧、さっき言ったみたいに、これからの時間は特に警戒する必要がある。
 だから、僕がもし刀を抜いたら、その時はすぐ離れるんだよ?」

「分かってるわ。
 私が近くにいたら、夕君がうまく動けないもんね。
 物陰に隠れるから大丈夫。」

「あ、いや、隠れるだけじゃなくて、ちゃんと逃げてね!
 多分広範囲にわたるだろうから。
 それで、夜慧も狙われるようなら僕の近くから絶対に離れないこと。
 分かった?」

「うん、足手まといにはならないつもりよ。
 大丈夫、少し動きにくいけれど、何とかするわ。」

「ごめんね…。
 …じゃあ、行こうか。」

 

全て準備はできた。
勿論、相手を打ち倒すための準備ではない。
これは逃げる準備。
多勢に無勢のこの状況で、活路を見出すためにはそれしかないのだ。
出来うる限り、自分達の障害になるものだけを倒しながら、
それでも前に進むことが最善策である。
しかし、最善策と言えど危険度は余りに高い。
絶望的な状況下にいることだけ、ずっと前から確かなのである。
二人して街を出、まだ一里も越えていない程の距離を歩いたところで、
ついにその時がやってきた。

最初は不自然、違和感だった。
夕の高い察知能力で、ふと気になる程度の何か。
勿論夜慧は気付くはずもない。
その次の瞬間に感じたのは、途轍もないほどの危機感。
禍々しいほどの殺気と、狙われているという根拠の無い確信が同時に訪れた。

 

「夜慧っ!
 隠れて!」

 

その一瞬の危機感から、咄嗟に声をあげた。
さらに亜音速で刀を引き抜き、
夜慧が今まで立っていた場所へ飛んできた何かをいくつか弾く。
それは、鋭利な手の平大の刃物だった。
飛んできた方向から考えると、追手は少しだけ離れた森にいるようだ。
が、それはおかしすぎる。
何故なら、確かに目に見える範囲に森はあれど、どう見ても遠いからだ。
夕達は、周囲を警戒するために、見晴らしの良い道を選んで歩いている。
だから目に見える範囲内では何が来ても、すぐ警戒態勢に入れるはずなのである。
ところがどうだ。
周囲に人はいるか。
勿論いない。
あんな遠くの森から、どう狙ったって人を貫く速さで刃物を投げられるわけがない。
ましてや当たるはずもない。
夕はある不安がよぎった。

 

「異系種族…。
 異系を忌み嫌う人たちが起こした騒乱じゃないのか?
 その逆…?
 でも周囲三国にそんな…。」

 

考え事ができるのもまさに束の間。
ほぼ本能に近い反射で、何者かの刃物を弾いた。
そこには…先程まで誰もいなかったはずなのに…。
一人の暗殺者がいた。
種族は分からない。
身体的な特徴から見れば、耳が垂れているということくらいだ。
その耳の大きさは、少し長いくらいだが兎の種より長くは無い。
それが異系である証拠なのかどうかは、今の夕に知る術はない。

 

「貴方は…何者ですか。」

 

何故今まで見落としていたのか分からないくらい、異質な黒い装束を身にまとい、
不自然なほど風にたなびく袴をはいた異系の兎が問う。
そんなことなど、とうの前から知り得ているはずなのに。

 

「さぁ…?
 僕らはしがない旅人ですよ。
 そんな旅人に刃を向けるなんて、そちらこそ何者ですか。」

「おや、これは失礼しました。
 私は闇裏(あんり)第一小隊隊長兼総司令の疾風と呼ばれているものです。
 無論名ではありませんが。」

「闇裏…?
 そんな組織は聞いたことがないな…。」

「それはそうでしょう。
 高末ノ国は組織に派兵していませんからね。
 尤も、高末ノ国など、既にこの世界に存在していませんが。」

「なるほど。
 では落城の話は本当だったわけですか。」

「えぇ、高末殿様には苦労いたしました。
 あの悟りの力には骨が折れましたよ。
 どれだけ気配を消そうが、姿を消そうが、心と言うものは常に誰もが持っているものです。
 生まれた頃から闇に生きるものでも、任務を達成すると思うのも心ですから。
 たったそれだけを察知する能力、されどそれを補うだけの技術。
 確かに、殿様には相応しいと思いましたね。
 だから…誠に残念でした。
 彼の首をはねねばらなかったのが。」

「貴方も人ならざる力がありますね…。
 気配を消すだけならまだしも、姿を消すなんて人には到底及ばぬ能力だ。
 表向きは禁忌種族の排除、しかしその裏は禁忌種族の繁栄と、
 それに服従しないものの排除ってのが本音だったりしますか?
 勿論、これは僕の物騒な考え方なのですが。」

 

緊張した空気の中、皮肉の飛ばしあいが続く。
両者笑っているが、瞳の奥に宿しているのは強い敵意。
まさに竜虎の睨み合いだった。

 

「ほっほっほ…。
 死にゆく人への冥土の土産も悪くはありませんが、
 これ以上長引くと私も怒られてしまうのでね。
 死んでもらいます。」

「やっぱりか…!
 夜慧、今すぐここから逃げろ!」

「で、でも」

「早く逃げろ!
 死にたいのか!」

 

今まで出したことのない、咆哮に似た叫びで夜慧を急がせる。
そんな夕の姿を見たことがない夜慧は、
この尋常ならざる状況を何とか理解し、とにかくこの場から逃げ出すことに従った。
それよりも早く、目の前の兎の手から何かが射出され、
標的の夜慧へと飛んでいく。
が、夕はそれに追いつき何とか弾き返す。

 

「ほぉ…。
 貴方、本当に何者ですか?
 普通の人が持たぬ、異常な身体能力。
 周囲の変化を敏感に読み取る能力。
 貴方も、異系種の血が混じってるんじゃないですかね?」

「それは分からないですね。
 僕は見た目も犬種族そのままですから。
 孤児だから、親の顔も知りませんし、ね!」

 

語尾の力を込め、その勢いで相手に向かっていく。
常人には防ぎきれない速さと力を込めた一閃は、
軽やかに受け止められ、周囲に乾いた金属の衝突音が響いた。

 

「なるほど。
 これが龍の陣の統率者の力ですか。
 確かに、選ばれるわけです。
 私たちの部隊にくれば、もっと素敵な活躍ができたのに…残念です。」

「へぇ。
 それはつまり、給与は今の倍くらいってことですかね!」

 

受け止められた刃を刃で押し返し、相手が少しだけ体勢を崩したところに、
更なる薙ぎ払いを繰り出す。
その動きは最早一瞬。
一度に動作を二回しているようにしか見えないような速さである。
なのに、暗殺者はひらりとかわし、未だ余裕ぶった表情をしていた。

 

「ふ…。
 実力主義の世界ですからね。
 報酬は様々な形でいただけますよ。
 たとえば、先の高末ノ国攻略の際に、私はあの国を丸ごと頂戴しました。
 まぁ、住民なんて今では殆どいないわけですけれども。」

「くっ…なんて酷い事を…!」

「貴方もどうですか?
 誘いに応じないのなら殺せって言われてるんですけどね、一応。
 応じていただけるのなら、あちらで倒れていらっしゃる夜慧さんも、
 そのお腹に宿っているお子さんも安泰ですよ。」

「っ?!
 夜慧!!!」

 

言われて見るまで気が付かなかった。
少しでも遠くに逃げるために走っているとばかり思っていた夜慧は、
荷台の影になる場所に倒れているではないか。
走り寄ろうとするが、すぐに暗殺者の刃に阻まれ、それ以上先に進めない。

 

「どけぇっ!
 貴様、夜慧に何をした!」

「大丈夫です。
 貴方の返答次第では、夜慧さんは必ず元気になりますよ。」

 

そう言って、懐から出したのは大き目の丸薬だった。

 

「まさか…毒…?」

「毒と言うほど危険なものではありませんよ。
 貴方の返答をもらう前に死なれても困りますしね。
 まぁ特殊な方法で精製された、仮死状態にする薬とでも言えば良いのでしょうか。
 これも異系種の方が作られたのですよ。
 やはり、これからは我々が支配していく時代だと思いませんか?!
 ただ虐げられる時代はもう終わった!
 それでも、未だ混在しているのに平和になるわけもない!
 だから排除する必要がある!
 それが私たちの役割であり、理想郷の実現なのですよ!
 この薬さえ飲ませれば、夜慧さんはまた蘇ります。
 ただ、長い仮死状態は危険ですよ…?
 お腹のお子さんにとってはね!」

「畜生め…っ!
 いつの間にそんな!」

「貴方が弾いた刃物に塗りつけられているわけですが、
 いくつかは目に見えないよう私なりの細工がしてあったわけですよ。
 貴方は周囲の変化は読めど、どれ程の数が飛んでくるかを把握しきれるわけではない。
 数が多ければ、それだけ偽者も見分けられないということです。」

「…っ。」

「さぁ、もう一度問いましょう。
 こちらに来るか、否かを。」

 

考えるまでも無い。
聞かれずとも、答えは自ずと出た。

 

「…その薬さえ奪えれば、僕は貴方なんて用無しだ。」

「それは、否、ということでよろしいのですか?」

「清将さんを殺したやつらなんかと…仲間になれるかっ!!」

「残念です。」

 

はっきりとした決別だった。
その刹那、激しい金属音が辺りを支配し、あちらこちらで火花が発生した。
常人の目では捉えられないような、攻撃と防御の応酬。
切りかかっては受け止められ、はねようとすればかわされ、
どちらも一歩も引かない状況の中、やはり不利なのは夕だった。
毎日訓練していたとはいえ、それは一週間も前の話である。
少しずつ衰えが見えてきてもおかしくないのだ。
剣撃のわずかな暇に、もう一度お互いがお互いとの距離を置く。

 

「はぁ…っ…はぁ…。
 んっ。」

「もうお疲れですか?
 龍の陣の陣長さんと言えど、やっぱり訓練の中止は痛いみたいですね。」

「う…っさいなぁ…。
 貴方こそ、いつの間にか被り物が取れちゃってますよ。
 その兎耳の犬の顔、珍しいですね。」

「あらあら、いつの間に取れちゃったんですかね。
 まぁ私たちの実力は、大体同じくらいということだけは分かりましたよ。
 ここまで楽しませてくれる貴方には、本当は公平にやりたいもんですが…。
 先程も言った通り、これ以上焦らすと上官に怒られてしまうのでね。
 私の特異な能力、使おうと思います。
 さようなら。
 まずは…」

「や、やめっ」

 

夕には分かった。
兎が何をしようとしているか、分かりたくもないのに分かってしまった。
少しの疲れのせいで反応がおくれ、手を伸ばそうともあと少し足りず…。
その結果、本当に目の前で、その惨劇を直視することしかできなかった。
追いついた時には、既に手遅れ。
ぞぶり、という生々しい音と共に、敵の凶刃が夜慧を貫いた。
うつ伏せに倒れていたはずの夜慧の体は、いつの間にか仰向けになっていて…。
自分の心臓を差し出すように、手まで体の上に重ねられていて。
まっすぐに、命を突き破られ、絶たれた。

 

「残念でした。
 これでこの薬に意味は無いです。」

「あ、あ…あ…」

 

言葉にならない。
刃を抜いていないため、血が吹き出るということはない。
それでも、夜慧の目は虚ろなまま開いていて…。
見えもしない虚空を見つめたまま、不思議と涙を流し、
口からは血が流れていく。
見て分かる。
既に、生きていない。
それは、絶命したということ。
仮の死だったのに、事実的な死に変わっていった。
失いたくなかった暖かさが、そこから消えていく。
血と一緒に、あの優しさが失われていく。
怒りと引き換えに、懐かしい記憶が淡くなっていく。

 

「うわあぁぁぁぁぁあぁあぁぁぁ!!!!!」

 

怒りで鈍った刃は、最早相手をかすることもなく、ただ空を切る。
それでも夕は、怒りに任せ刃を振り下ろす。

 

「何でだぁぁぁぁぁっ!!
 何で!
 夜慧が死ななきゃいけないんだあああっ!!!」

 

何度振っても、切ることすらできない兎。
怒りで自分の能力以上の速さで切りつける夕でも追いつけない、その速さ。
いや、速いわけではない。
気配が分からない。
目の前にいるのに、いるのか分からない。
その感覚にさらに混乱し、無闇やたらと刀を振っているだけだった。

 

「死んでしまえぇっ!
 許さない!許さない!
 許さないぞおぉっ!!!」

「懐刀と呼ばれれど、陣長と言えど、やはり貴方も人の子ということですか。
 それもまた、残念です。」

 

今の夕には見えない刃により一閃。
右肩辺りから左大腿付近までばっさりと切られる。
さらに次の刃で左の手の甲と、右の腕を、
幾度も無く凶刃が襲い、夕の体は切り傷で汚れ、
血で染められていく。
何も分からず、夕は最後の一突きを甘んじて受け入れるしかなかった。
深々と、自身のみぞおちを貫く刃。
それを見て、ようやく理解した。
自身もまた、この男に殺されたんだと。
体はもう立つこと維持できず、崩れ落ちるように力なく倒れていった。
見ている光景は、まるで他人事のようだった。
倒れこんでいく最中、その男は独りごちた。

 

「本当に残念です。
 清将殿は、もう少し頑張っていただけたのに…。
 目の前で爺を殺されても、平然とし私に冷徹な刃を向けてきたのですがね。」

「…や…え…ご…め…」

 

夕には、兎の言葉など何一つ届いていなかった。
血濡れになって倒れ、それでも愛する夜慧に近づこうと手を伸ばす。
目の前に倒れている夜慧の下へ、必死に寄り添おうと這いずっているだけだった。
大変悔しそうに、涙と血が混じった液体を流しながら。
何の慈悲のつもりか、兎は力強く夕の腕を引き夜慧の体と重ね…。
独り言を続けた。

 

「異種間同士が愛し合うが禁忌というのか、それとも…私のような存在が禁忌なのか…。
 恨むべきは、種族を分けたという根本の問題そのものですね。
 おやすみなさい、夕。
 これで、高末ノ国出身者は、全て排除しました。
 それでは、さようなら。」

 

 

兎が立ち去った後に残るのは、二人。
夕と夜慧。
夕は、最後の最後まで、完全に事切れるまで、ずっと夜慧の名前を呼び続けた。
勿論反応は無し。
夕も呼んでいると言っても、既に声は出ていない。
口も殆ど動いていない。
数瞬で、その命が尽きるだろう。
その数瞬で兎が発した、夕には届かなかったはずの言葉と同じ呪いを胸中に宿した。

「種族が違うだけでこうなるなら…。
 最初から、種族なんて要らなかった!
 種族なんて禁忌の間柄、作ってくれなくても良かった!」

不思議なことに、聞いたことのある声も聞こえてきた。

 

「私もそう思う…。
 こうなるくらいなら、私たちは同じでよかったと思う。
 何故違いがあったの?
 違いに何の意味があったの?!」

「でも、それを言ってしまうと、私や夜慧さんは夕と出会えなかったことになります。
 ほら、無いと困るでしょう?
 たまたま、私たちが禁忌とされただけの世界であって、
 何か一つ違えば純粋な種族同士の方が禁忌とされた世界であったかもしれません。
 それは誰にも予想できません。
 だったら、私たちは自分達の手で、用意された駒を使って、
 幸せになっていく必要があるのです。
 私たちがここにあったことだけは、とても幸せなことだったと思います。
 私はそう信じますよ。
 たとえ、禁忌と呼ばれても。」

「でも僕は…こんな結末は…。」

「うん、確かにその通りかもしれないわね。
 だってほら、私たちだって元は兄妹って言う禁忌だったのよ?」

「そうだけど…それは血の繋がりが無かったからうまくいったことだろう?」

「あっても、私は打ち破ってたと思うの。
 そんな気がする。」

「そんな馬鹿な…。」

「まぁ、次の世界では、私たちみーんな同じ種族だったら、一番幸せね。
 同じように会って、恋をして、幸せになりたい。」

「そうですね。
 私たちみんなが、次では同じになれると信じたいというのもあります。」

「だから、次の世界に行こう、お兄ちゃん。
 今度はきっと、こんな世界じゃないと信じてるから。」

「私も、今度はちゃんとお二人の兄妹に混じっていたいものです。
 次はいろいろ教えてくださいね、お兄様にお姉様。
 あ、でも今度は夕の恋敵ということでも良いですよ?」

「うーん、よく分からないけど、そういうことにしておこうか。
 じゃ、僕ら、来世に行こうか。」

「うん!」

「はい!」

 

禁忌の間を抜け出して、その先にある未来を目指して。
お互いが幸せでありますように。
横たえる二人の姿が、その人生の痛さや辛さを語っているようだった。

来世でしか幸せが描けない、そんな禁忌の間柄の物語。

 

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