禁忌の間

〜近接の間〜

 

ため息をつく暇も無く、ついに三日が経過した。
既に新居は院長の助力もあって、手配してある。
あとはここを発つのみとなった。
手荷物を持ち、二人で孤児院の前まで歩き、そしてもう一度…。
自分達が過ごした十四年間の実家を目の前に、思い出を巡らせていた。

 

「…そっか、もうここでの生活もおしまいか。
 十四年間、ありがとうございました!」

 

ぺこり、と上品に頭を下げる夜慧とは違い、夕はずっと孤児院を見つめ続けていた。

 

「…?
 夕君?
 どうしたの?」

「あ、いや、別に…。
 ただ、これからどうなるのかなー、と思って。」

「これから…か…。
 それは私にも分からないよ。
 だって、先が見える未来なんてつまらないじゃない?」

「ま、確かにその通りだなー。
 よーし、頑張っていくぞー!」

「うんうん。
 前向きの方が、夕君らしいよ♪」

「そ、そんなこと言われると…。
 何か照れちゃうじゃん…。」

「ははは!」

「あれあれ、随分元気なことじゃ、二人とも。」

「い、院長先生?!
 こ、こんにちは…!」

「はい、どうも。
 さっきからずっと後ろにいたんじゃが…。」

 

ずっと後ろにいた院長にも気が付かないほど、彼らは話に夢中だった。
やはり、これが仲の良さを物語っているのであろう。
常に彼らの間では、話が絶えることはなかった。
というわけで、後ろにいた院長にも気が付かないのである。
そういうことにしておこう、彼らのために。

 

「さて…。
 ここにいるということは、準備は調っている、ということかな?」

「はい、全て終えました。
 今は二人でここでの生活を振り返っていたところです。
 な?」

「えぇ。
 一度、しっかりと別れておかなくてはなりませんからね。」

「そこまで重く受け止めんでも良かろう…。
 そなたらはいつでもここに帰ってきて良いのだから。
 住むことはできなくても、のう?」

「しかし、ここで甘えを作ったらいけないと思いまして。
 私達は成人なのですから。」

「ほぉ…、良い心がけじゃ。
 …で、その手に持っておるのは何じゃ?」

「え?
 ここを出るので、手荷物を…。
 あ。」

 

ここに来て、ようやく夜慧はあることに気が付いた。
手に持っている風呂敷。
そこにはこまごまとした生活雑貨品や、二日分の着流しが入っていた。
はずだった。
が。

 

「どう見ても、その風呂敷には何か入っているようには見えんなぁ…。」

 

いつの間にか結び目が解け、中の物はどこかに消失してしまっていた。
それに気付かない夜慧も夜慧だが、夕も気が付くべきだった。
何故なら、夜慧の部屋の前を通る夕には見えたはずだからである。
夜慧の部屋の目の前に散乱した、持って行くはずの物が。

 

「と、取り直しに行ってきます…!」

 

恥ずかしそうに言うと、夜慧は光陰にも似た速さで、
予想だにしなかった部屋への帰還をした。

 

「はぁ…はぁ…。
 これで、大丈夫です…!」

「真に失礼だが、本当にそなたらは大丈夫なのか…?」

「た、多分…?」

「お、お兄ちゃん!
 だ、大丈夫です!
 私達、成人ですから!」

 

今の院長は、その言葉を聞いてもあまり信用できなかった。
いや、信用したいところなのである。
が、今のこの状況において、成人が聞いて呆れた。

 

「本当に、ほんとーーーーーに、大丈夫なんじゃな?」

 

力強く強調する院長。

 

「大丈夫です!
 私達のことは、院長先生もよくご存知じゃないですか!」

「た、確かに…。
 しかし今のこれは…。
 ま、問題無いじゃろう。
 よく考えれば、夜慧はそういう娘であった!」

「…。」

 

夜慧は、何故だか少し傷付いた。

 

「おっほん。
 さて、これから二人はここを出て世間の波に揉まれるわけじゃが…。
 社会の目は、最初はそなたらにはとても厳しいものであると思う。
 だが、そこで挫けてはならん。
 まずは交流し、親睦を深めていくことが大切じゃ。
 常に、周りは新人に警戒しておる。
 それをよく覚えておきなさい。
 大事なのは、相手を知ろうとする心。
 そして、深めていく心。
 分かったか?」

「はい、ありがとうございます。
 では行ってまいります。
 さ、行こう、夜慧。」

「うん、お兄ちゃん!
 ありがとうございました!
 院長先生も、お体の調子にはお気を付けて!」

 

二人で深々と一礼し、ついに孤児院を離れていく。
院長は、その二人の背中を見るのが嬉しいようで、妙に淋しい気持ちになった。
今までに何人も送り出してきたが、こんな気持ちになったのは初めてだった。
きっと、彼らが一番この孤児院に長くいたせいであろう。
気付かぬうちに、院長の目からは一粒の涙が零れ落ちていた。

 

「おぉ、あれあれ…。
 年を取るといかんな…。
 つい涙腺が緩んでしまう。」

 

丘の上にある孤児院から、二人の背中が見えなくなるまで院長は眺めていた。
新たに生まれた成人の姿を。
仲睦まじい兄弟の姿を。
そして、これから更に距離を縮めるであろう恋人達の姿を。

 

「強く生き、たくましくあれ。」

 

 

孤児院のある丘を下り、ついに繁華街へとやってくる。
二人の新居となるのは、繁華街から数分離れたところにある平屋で、
初めて自分の力で暮らすには十分すぎるほど最適な場所であった。
繁華街の主要通りを抜け、雑貨屋の前を左折し、
そこをまっすぐ歩き、袋小路に出たところの右手の中央の家。
そこが新居だ。

初めて孤児院以外で暮らすこと。
それに何より、初めて自分達が持つ家。
胸を弾ませて、ゆっくりと引き戸を開けた。
憧れた部屋の中には、あらかじめ手配されていた生活用品が並んでいた。
二人で住むだけあって、今まで使っていた個人の部屋とは違い、
中はすごく広く見えた。
そして実感する。
ここが、自分達が暮らす場所なのだと。

 

「ここかぁ…。」

「ここで、夕君と一緒に暮らしていくのね!
 …あ、そこにちょっと立ってて!」

「?」

 

自分の手荷物を適当なところに置くと、夜慧は家に上がり、
そして夕の目の前で正座をして深々と礼をした。

 

「不束な妹ですが、どうかよろしくお願いします。
 …なんてね♪」

「よろしくお願いされるぞっ♪
 はははっ、何か兄妹って言うより夫婦みたいだなー。」

「ちょ、ちょっと、お兄ちゃん…!
 って、あららぁ、ここ、埃だらけだわ…。
 とりあえずお掃除しなくちゃ。」

「じゃあ僕はそれを眺めてにやにやする係が良いなー。」

「な、何それ!
 お兄ちゃんもちゃんと手伝ってよ!
 ほら、持ってきたものを片付けるとか!」

「う…、仕方が無いなぁ…。」

「はいはいー、早速始めましょっ!」

 

パン、と手を叩いて催促する夜慧の姿は、
さながら姑のようでもあった。
と、夕は思ったのだが、何となくそれを言うのは止めておいた。
夕も夜慧も、孤児院での掃除当番で鍛えられているお蔭もあり、
見る見る間に、埃で白くなった世界が元の色を取り戻していく。
掃除から荷物の整理まで、合わせて1時間弱で片付いてしまった。
頑張って掃除しただけあって、二人とも額には汗がにじみ、
夕の方は完全に着流しのすそを開いていた。

 

「ふいー、意外に早く終わったな。
 ま、そこまで大きな部屋でも無いからな。」

「そうだねー。
 これで綺麗になったし、あとは保存できる食べ物でも置いておけばバッチリかな。
 …って夕君…。」

「ん?」

「下着が見えるまで着流しのすそを開かなくても…。」

「あー、別に良いんだよ!
 どうせここにいるのは僕と夜慧だけなんだし。
 夜慧もどうだー?
 涼しいぞ♪」

「お兄ちゃんったら、何言ってるんだか…。
 はい、お茶。」

「お、ありがと!」

 

ささっと冷たいお茶を用意して、さらに夕に渡す。
本当によく気配りのできる女の子。
この場面で、女の子という形容の仕方はいささか違和感を感じる。
女の子ではなく、既に女性、さらには妻としてそこに夜慧はあった。

 

「…なんか、本当に…。」

「ん?
 どうしたの、夕君?」

「僕の、お嫁さんみたいだよ、夜慧。」

「え…。」

 

突然、考えもしなかった言葉に、夜慧はただ顔を赤らめることしかできなかった。
それを言った当人も顔を真っ赤にしていた。
二人そろって赤く、そして初々しい。
ここまでの仲も、そうあったものでは無いだろう。
数分お互いが沈黙すると、思い出したかのように我に返り、
そして同時に

 

「あ、あの…」

 

と言って、さらに沈黙が続く。
ここまで来ると、傍から見ている方がイライラする程の初々しさだった。

 

「と、とにかく!
 近所周りをしてこよう!
 やっぱりこれから住むんだから、近隣の方とは仲良くしておいた方が良い!」

「そ、そうね!
 でもそれは、明日にしておこうよ!
 もう夕方だもの!」

「そ、そうだな!
 じゃあ今日はやめとこう、うん!」

 

恥ずかしいことが相まって、何だか落ち着かない二人が完成してしまった。
それを維持したまま夕飯の買出しに行き、八百屋の店主にはからかわれ、
そして魚屋に笑われる始末となった。

夕飯が済むと、二人は早々と布団の準備にかかった。
さすがに、一つの布団で二人が寝るのは色々と問題があるので、
今夜はちゃんと二式用意し、ようやく床に伏したのだった。
枕もとの灯火も消し、薄暗い闇が部屋に満たされる。
窓から零れる月明かりは、何となく儚さを感じる。
そして、孤独感も同時に感じさせた。

 

「孤高の月、ってか…。」

「ん?
 夕君、寝ないの?」

「いや、寝るよ?
 寝るけど…何か…寝付けなくて。」

「実は…私も…。」

「そっか。
 何で寝付けないんだろうな。
 時々こうして二人で寝ることだってあったのに。」

「やっぱり…住み慣れた家とは違うってことよね。
 院長先生も居ないし。」

「親元を離れると、こういう気持ちになるのかな?
 何だか暗くて、怖くて、それでも逃げ出したくなくて。
 ただ耐えてるだけしかできない。
 考えてると、余計に頭は綺麗に働いて、
 寝付く機会をどんどん失ってく。
 この悪循環、どうにかならないかな…。」

「最近、夕君って難しいこと考えるようになったね。
 去年までは本当に…どっちかって言うと私がお姉さん、って感じるくらい、
 それくらい夕君は男の子だった。
 でも今は…男の子って言うか、男の人って感じがする。」

「僕が大人びた、ってこと?」

「うーん、そうなんだけど、そうじゃない気もする。」

「どっちだよ、まったくー。」

「感覚的なものだからよく分からないの!
 落ち着いた…って感じかなぁ?」

「まぁ確かに、去年までイタズラとかしてたしなー。」

「それで院長先生に怒られる前に、いつも私の所に来てたっけ。
 『大変だ、夜慧!理由を聞かないで匿ってくれ!』って。
 そう言ってくるたびに、あ、何か悪いことしたんだな、って分かっちゃう。
 やってることも思ってることも、まだ男の子だったよね。」

「何か…さり気なく僕に単純って言ってないか?」

「でもその単純さは、夕君の長所でもあった。
 今も夕君はそれを持ってるけど、ただ単に形が変わっただけなの。
 だから私は…。」

「夜慧…。」

「…ははは…。
 自分で夕君には、言っちゃダメ、なんて言ってるのにね…。
 つい口が滑りそうになっちゃう。」

「夜慧…。
 そんなこと、気にする必要は…。」

「うん、分かってる。
 心配なんかしなくても良いってこと、分かってるの。
 でもね、私は今まで夕君と”兄妹”として過ごしてきたことも大事にしたい。
 うーん、何て言えば良いんだろう。
 本当に血の繋がりがある訳じゃないから、そう思うのかもしれない。
 自分の気持ちを知って、夕君のことも分かってて…。
 それでも変わらない関係を維持したいのは、一歩先に辿り着きたくないからじゃないの。
 私は…変に意識して、私の中で夕君の妹である私が消えることが怖いの。
 夕君の中で、妹の私が消えることが怖いの。
 これからの私を、きっと夕君は受け入れてくれる。
 分かってる、分かってる…。
 それでも、私は、今まで生きてきた、夕君と生きてきた十四年間が大切なの。
 妹として接してくれる夕君を、私は…。」

「夜慧は考えすぎだよ。
 僕、そんなに簡単に妹の夜慧を忘れる訳無いじゃんか。
 ついさっき、お前がいったばっかだぞー?
 僕は単純。
 だけど切り替えられない、複雑。
 要するにさ、妹ってのはずっと変わらないんだ。
 …ずっと先のことは分かんないけど…。
 そういう目で見始めたら、確かに僕は夜慧を女の子として意識すると思う。
 そこに妹、なんて考えは出なくなってくるかもしれない。
 だけど、今まで妹だったお前を、どうやって妹じゃない女の子だって思えば良いんだ?
 僕は分からないよ。
 妹としての夜慧は確かに好きだ。
 でもそれ以上に、僕は夜慧が好きなんだ。
 そんなに『兄妹』にこだわらなくても、きっとこれからもこの関係は変わらない。
 好きって、色んな意味があるからさ。」

 

ついに、一年の沈黙を破って放たれた言葉。
たった二文字の言葉。
「好き」。
それは、兄妹を分かつ、呪いの言葉だった。
それは、兄弟たらしめる、救いの言葉だった。
そしてそれは、兄妹を誘う、始まりの言葉だった。

 

「夕…君…。」

「分かった?
 夜慧は夜慧。
 ただそれだけじゃないか。
 いきなり夜慧が変わっちゃったら、それこそ僕が嫌だよ。
 僕は、今までの夜慧が好きなんだからさ。」

「そう…、だよね…。
 うん、そう言ってくれることも分かってた。
 でも怖かった。
 違うことを言われる可能性もあったから。
 自信がなかった。」

「何言ってんだかー。
 僕らの仲は、目に見えないようなただの言葉で終わっちゃうようなもんなのかー?
 それは違うでしょ。
 僕らは確実に、目には見えないけど確かにここにある、何かで繋がってるからさ。
 お互い、言わなくても分かる。
 今までずっとそうだったじゃないか。
 そうだろ?」

「うん…。」

「だからほら、大丈夫。
 こっちおいでよ♪」

 

薄い月明かり。
それによって、少しだけ体を起こした夕が見える。
そして、布団をめくって、そこをポンと叩く。
その姿を見た夜慧は、安らかに微笑み、すぐ隣に敷いてある布団から、
夕の布団へと潜り込む。
布団を被り、二人向き合った状態となって。

 

「んふふー、これでようやく夜慧の顔が見える♪
 月明かりがこっちに差し込んでるお蔭で、さっきまではよく見えなかったからねー。」

「別に、いつも見てるじゃない♪」

「今は顔見たいのー。
 ダメかぁ?」

「…前言撤回しようかなー。
 お兄ちゃん、まだ子供みたい。」

「えぇっ?!
 これが僕の素だったろー?!」

「…まぁね♪
 …ねぇ、お兄ちゃん。」

「ん?
 …って、この状況下でもまだ『お兄ちゃん』と呼ぶか…。」

「今はね。
 それでね、お兄ちゃん。
 私ね、お兄ちゃんのこと、好きよ。
 そして夕君、私は貴方が好き。
 こんな妹の女の子でも、良い?」

「当たり前だろ!
 死んでも離すもんかっ!」

「えへへ…、ありがとう、夕君…。
 私も、今まで通りでいるよ。
 でも今は…甘えさせて…?」

「そんなこと言ったら、僕も良くできた妹に甘える♪」

「もう…、お兄ちゃんのバカ…。」

 

離れていた距離を埋めるように、寄り添いあう二人。
お互いの体、心を暖めあうようにして、同時に寝息を立て始める。
今、二人が禁忌としていた関係が、解き放たれた。

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