水無月







 海。
 夏真っ盛りのちょうど最も暑い時期だからか、いつもは静かな砂浜も今は海水浴の客で溢れている。様々な種族が入り乱れる中、一人ぐったりとビニールシートに倒れ付す大柄な虎人がいた。名を、トラという。
 そしてそのトラに向かって走る犬人がいた。彼の両手にはそれぞれカキ氷があり、その尻尾はバタバタと忙しく左右に振られている。名を、イヌイという。




「とらー!」
 俺を呼ぶ声に顔を横に向けると、恥ずかしげもなくアロハシャツを着てこちらに走ってくる犬人の姿が見えた。生憎俺にはこんなに人がいる中で相手の名を大声で呼ぶなんてマネは出来ないので尻尾を軽く振って返事にした。
 イヌイは人の流れの中をまっすぐ突っ切ってくる。後ちょっとで着くだろう。奴に買出しに行かせたカキ氷のことを考えるとささくれだった精神も少しは落ち着いた。まずカキ氷を食べて元気を取り戻して、それからついでに着替えたばかりのこの水着で少しは泳ごう。それから……
「ひゃっ!」
 俺が幸せな人生計画に浸っている間にイヌイは砂に足を取られて転んだようだ。ざまあみろ、とちょっと愉快な気分だ。他人の不幸は蜜の味というが、それが日頃迷惑をかけられまくっている相手のものとなればまた格別らしい。
 頭から砂浜に突っ込みながらも、砂から突き出した両手はしっかりとカキ氷の器を一つだけ支えている。奴の食い意地のなせる業だろう。
……一つだけ。
 俺の頭がその事実からその結果起こるであろう結論を導き出す前に、天空から降り注ぐ氷の雨が俺の背中を直撃した。


「……おいコラ」
「ごめんなさい」
「事故だったのは認めよう。それはしょうがない。だがな、なんで自分のだけ保護してるんだよ」
シャクシャク。
「ごめんなさい」
「食べながら謝られても説得力ないんだよイヌイ。しかも普通自分で食わずに相手に渡すだろうが」
「だってトラ、イチゴ味以外食べられないじゃないかよぅ。ブルースカイ味おいしいよぅ」
 口の周りを得体の知れない着色料に染めながらイヌイは勝ち誇った顔で笑う。対する俺は胸辺りの白い毛皮が微妙にピンク色に染まり、なんとも恥ずかしい状態になっていた。罰として正座させているにも関わらず、砂の上では大して苦痛でもないらしい。笑顔でカキ氷を食べているコイツと対面していると自分がどんどん惨めに思えてくるから不思議だ。
「お前もう一回買ってこい」
「もうお金残ってないんだよぅ」
 イヌイがシャツの胸ポケットから取り出した財布からは何枚かの銅貨と砂が零れ落ちてきた。慌てて拾い集めるイヌイを横に、俺は今度こそビニールシートの上に突っ伏す。車内に自分の財布を残してきたのが悔やまれたが、今更取りに行く気にはなれなかった。
「トラ疲れてるね」
「……うるせぇ」
 あろうことか俺の背中にカップを置いて食い始めたイヌイを怒る気にもなれない。尻尾でカップをぶっ飛ばしてやろうとしたがすかさず押さえ込まれてしまった。
「トラの背中、筋肉ついてるから置きやすいんだよぅ」
「うるさい黙れ。俺がどうしてこんなに疲れてるのか聞かせてやろうか?」
「うん。食べながら聞いてる」
 要するに「聞く気ありません」と宣言しているも同然のイヌイ。そんなバカ犬のためにできるだけ分かりやすく咀嚼した上で俺は朝からの恨み言を全て吐き出した。
「まず朝起きたら既に車の中で『海行こうよぅ』なんて拒否権がない状態にされて、その後パーキングエリアに入った瞬間『フォームチェンジ!』とか叫ばれてピンクのアロハシャツに着替えさせられた挙句残りの距離を運転させられることになって、着いたら着いたで勝手に走って行って俺が全部荷物持たされて、その後買ってきてくれって頼んだカキ氷をぶっかけられたからだな」
「それは、大変だねぇ」
 本当に大変だ、といった感じでイヌイが相槌を打つ。俺はその能天気な顔に指を突きつけて凄んで見せた。
「全部お前のせいだろうが」
「人のせいにするのはよくないよぅ」
 自覚が無い方がもっとタチが悪い。意識してやってたとしたらそれを越えてタチが悪い。キーンてくるー、なんて幸せそうなイヌイの顔からはそのどちらなのかは判別しがたたい。とりあえず軽めに額をどついてもう一度砂にダイブさせてやった。




 カキ氷を食べ終わったところでイヌイもアロハシャツを脱いで水着姿になった。俺のアロハシャツはビニールシートの上で直射日光に晒されて俺以上に痛めつけられている。そもそも、何を着てもそれなりなイヌイはともかく何故俺がこんなものを着なければならないのか。しかもイヌイと同じモノ。ペアルック。恥ずかしいにも程がある。ピンク色のアロハシャツを着た虎人の若い雄なんてこの広いビーチですら目立っていた。
「トラ、泳ご!」
 出掛けにコンビニで買ってきたらしいイヌイの水着は妙に短くて下から見ると色々見えてはいけないものが見える。たちまち息子が起き上がりそうになったが、親の疲労に負けてぐったりと動かなくなってしまった。俺の水着は余裕があるタイプのため、息子が多少元気になっても誤魔化せる、かもしれない。  いつまでも起き上がる気配を見せない俺に痺れを切らしたのか、イヌイは俺の背中に足を乗せた。ぐりぐりと踏まれても所詮は犬人、虎人の俺にとっては痛くも痒くもない。
「とーらー」
「うるさい。踏むな」
「……いいよ。やる気にさせてあげる」
 そう言うとイヌイは足にかける力を少し緩め、触れるか触れないかのところでゆっくりと背中を滑らせていく。最初は肩辺りにあったそれも背骨の上を辿ってじわり、じわりと下半身に近づいていく。こうされると息子が遂に親に反逆して立ち上がろうと頑張り始めるが、俺はそれをじっと耐える。やがて足先は尻尾のあたりに到達する。くすぐったさに逃げる尻尾をあえて追わず、足先は尻尾の付け根に向かった。
「……っく……」
 そこをコリコリと擦られる度に普段とはまた違った刺激が走る。いまや鎖から解き放たれた我が愚息殿は水着の中で突っ張ってその存在を主張していた。
 しばらくして、急に足がなくなる。見上げると妖艶な笑みを浮かべたイヌイと目が合った。
「元気になった?」
「……うるさい」
「踏まれて元気になるなんて、トラって意外とアブノーマルなんだ」
「……」
 クスリと笑うイヌイに反論できない。とりあえず勃起しているのを隠すためにずっとうつ伏せになっていると、イヌイが不意に笑みをいつもの無邪気なそれに戻した。
「続きは海でだよぅ」
 続いて海に走っていく音。俺は一刻も早く勃起が収まるように頭の中で4ケタの掛け算を開始した。




 イヌイはなぜか近寄ってきた俺を見て棒立ちになった。目を擦ったところで海水が目に染みたのかキャンキャン鳴く。
「バカだな、お前は」
「と、トラこそ……何、それ」
 俺の手にあるのはまごうかたなき浮き輪だ。先程膨らませたそれは十分俺が乗るのに耐えるサイズになっている。もちろんこれを使うのは、俺だ。
「泳げなかった……っけ?」
「違う。海でだけ泳げないんだ」
 お前と一緒にプールも川も行っただろう、というとイヌイは納得した顔だった。そうなると今度はどうして、と聞いてくる。無視して海に足をつけると、火照った足に冷たさが染みた。横で俺をじっと見ているだけのイヌイの頭の上には当然ながら?マークが浮かんでいる。
「笑わないなら教えてやる」
「聞くまでわからないじゃないかよぅ」
「……」
「笑わない……かも」
 どうせ笑うんだろう。俺は諦めを溜息に変えて、ジャボジャボと海の中に進む。 「怖いんだよ」
「怖い?」
「川だとどこかに流されてもすぐ分かるだろ。プールはまず流されもしないしな」
「うんうん」
 俺と歩調をあわせて頷くイヌイ。
「海だと、流されたら終わりって気がしないか?もう戻ってこれない、とか」
「ふーん……」
 イヌイは鼻に皺を寄せてよく分からないという顔をしている。本人にだってよく分からないものを他人に理解してもらおうだなんて、所詮無理な話だ。
「いつからかは忘れたんだが、そういうわけでどうしても海が怖くてな。浮き輪なしだとちょっとダメだ」
 さぁ泳ぐぞ、と俺がざばりと浮き輪で泳ぎ出してもイヌイはついてこない。俺が振り返ってやっと動き出す。
「流されたら楽になれるのにね」
 耳に届いた言葉は酷く冷たかった。




「泳いだー!」
「お前だけな。泳ぎすぎだお前」
 満足したのかイヌイは嬉しそうに叫ぶ。長時間俺と海難を共にした浮き輪は空気を抜かれてアロハシャツと一緒にされている。途中で止まった俺の周りをこいつはとにかく泳いで泳いで泳いで泳ぎまくった。正確な距離は分からないが少なくとも三キロは下らないだろう。それをずっと見ていた俺も俺だが。
「シャワー行こうよぅ」
「おう」
 いつのまにかあれだけいた人もほとんどいなくなってしまっていた。人影もまばらな砂浜に俺とイヌイの肉球の跡が記されていく。日光をたっぷり浴びた砂はまだ温かい。
 シャワー小屋には誰もいなかった。俺はとりあえず入り口に一番近い場所を選ぶ。
……だが、そこでイヌイに腕を引かれて一番奥の部屋に連れ込まれた。ぽたぽたと水が垂れるシャワーを蹴り飛ばし、イヌイは俺にしなだれかかってくる。
「お、おい……」
「言ったでしょ?続きは海でって」
「……」
 ちょっと体が昂ぶっていなかったといったら嘘になる。嘘になるが、まさかこんなところでなんて。 俺の躊躇いを他所に、股間の息子はちょっと撫でられただけで臨戦状態に突入してしまった。つっぱって少し痛い水着を脱ごうとする俺の手を濡れた手が押し留める。
「このまま、しよ?」
「このままってお前、」
 俺が言うより先にイヌイは股間を押し付けてくる。海水をたっぷり吸った水着は表面こそ冷たいものの、中身はしっかり熱くなっていた。
 やがてどちらともなく腰を動かし出す。互いの熱を擦り合わせる。しばらく擦っているとギュリギュリと水着の生地が擦れる音に混じってくちゃくちゃという粘性の音が混じり始めた。やがて粘液が表面にまで染み出してきたところでイヌイが俺の胸に舌を這わせる。生暖かい軟体動物はしばらく筋肉の谷間を這いまわった後、胸の蕾にその温もりをもって迫る。片方だけを執拗にいじられ、俺は早くも込み上げるものを感じた。
 このままではマズいと、こちらも胸を責める作戦にでる。焦らすなんてこともせずダイレクトに指の腹で押しつぶしてやるとイヌイは腰を引いて逃げようとした。
 自分が優位に立ったと確信した俺はその腰を抱き寄せ、より一層腰の動きを激しくする。こうなったからには絶対に逃がさない。
「やぁ、とらぁ……」
 すっかりこちらへの攻撃を諦めたイヌイが俺の胸に顔を埋める。征服感が俺の射精を煽る。
「っく……!」
「あぅ……んんっ……」
 それが「来た」のはほぼ同時だった。お互いの腰をぐっと抱き、背筋を駆け上がる何かに耐える。限界まで堪えたそれが、解き放たれて――
「オオオオオオッ!」
「ゥウウウゥゥ!」
 びじゅびじゅと自分の水着の中でアツイ液体が溢れかえるのが分かる。触れ合っている部分からはもう一つの熱が伝わってきて、そちらも俺と同じような状態になっているのが感じられた。
 出し切るためにしばらく腰を振った後、俺たちはようやく一息つく。俺もイヌイも、しばらく壁にもたれて息を整えていた。




 帰り道の道路は時間を外したせいかかなり空いていた。周りに木しかない道路をイヌイが運転する車はすいすいと走っていく。
「やっちゃったねー」
 楽しそうなイヌイ。俺もなんとなく楽しくなる。
「水着、どろどろになっちゃったね」
「洗っただろ」
「またする?」
「……する」
 トラのスケベ、とイヌイが笑う。お前もだろ、と俺も笑う。






「いい雰囲気をぶち壊すようであれなんだけど、実は言わなくっちゃいけないことがあるんだよぅ」
「何だ?」
「実はこれ、無免許運転なんだよぅ」
 一拍置いてからぎゃあぁぁ、とかみぎゃあぁぁ、とか自分でもよく分からない俺の悲鳴が響き渡った、そんな平和な夏の夜。


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