第九話 熱

 トイレに駆け込んだアオイは、洗面台に手を着いて、息を弾ませていた。
 屋上から一番近いトイレのある最上階は選択授業で使うような特別の教室しかない。
 そのせいもあってか、トイレには誰もいなかった。
 アオイは水道の蛇口をひねると、勢いよく顔を洗った。何度も、何度も。
 この土地特有の冷たい水が、顔にしみる。
 それでも、火照りは一向に収まらなかった。
「なんなんだ…ちくしょう」
 いや、半分分かっている。だが半分分からない。
 この胸の中に、なにかがあるのは分かる。
 だが、それが何なのか分からない。
 アオイは、洗面台にもたれかかる様にしてその場に座り込んだ。
 こんな場所で腰を下ろすなんて、我ながら情けない。
 だが、体に力が入らない。
 確か、今朝もこんな感じだったと、アオイは思い出す。
 土手を走っていて、そしてこんな倦怠感に襲われた。そのまま足をもつらせて、脇の草はらに転がったのだ。
 そして…そのあと。
 アオイは思い出して再び顔が熱くなるのを感じた。
 ユキの膝の温もり、心配そうな瞳、額に置かれていた冷たい手。
 そして…
「そういや、まだ謝ってねぇなぁ…」
 授業中も、休み時間もずっと、頃合いを見計らっていたのだが、なんとなくきっかけが掴めなかった。
 情けない。そう思う。
 だがまだ先に延ばしたい、とも思う。
 謝ってしまったら、再びあの出来事を思い出させたら、ユキとの関係が、簡単に崩れてしまいそうな気がした。
 今朝のことに関して、ユキは何も言ってこなかった。
 忘れている? 気を使っている?
 何にせよ、このままいけばユキとの関係は、現状維持できる可能性が高い。
 だが、それで本当にいいのだろうか。
 普段緊張など全くしない自分が、こんなに行動を起こすのを躊躇うとは思ってもみなかった。
 ユキにだけ。そう、ユキにだけ躊躇っている。
「なんで…」
 タイル張りになった床を見つめながら、アオイはぼそりと呟いた。
 自分の中に、分からないものがある感覚が、心地悪くて仕方ない。
 だがそれが、決して心地悪さだけでないことにアオイは気付けていなかった。


 アオイは昼休みが終わっても帰って来なかった。
 大丈夫だろうか。
 ユキは慌ててトイレに駆けていったアオイが、いささか心配になっていた。
「大丈夫かなぁ…」
 始業のチャイムが鳴ったので、アオイの荷物も持って教室へ戻ることにした。
 自分が屋上にいなければ、アオイも教室に来るだろう。
 そう思ったのだが。
 授業が始まっても、一向にアオイが来る気配はない。
 後で休み時間になったら、トイレを覗いてみようか。
 中で倒れていたりしたら大変だから。

 ユキは、屋上のドアに手を掛けた。
 先にトイレに行ってみたが、そこにアオイの姿は無かった。なら、また屋上に来ているのではと思った。
 ユキのその予想は、的中した。
「あ…!」
 先ほどと同じベンチに、アオイは寝そべっていた。
 ドアのところから声をかけてみるが、反応は無い。
「オオガミ君?」
 寝ているのだろうか。
 授業をサボって昼寝というのは、彼らしいといえば彼らしいが。
 しかしユキは、微かな違和感を覚えた。
 近づいてみると、アオイの荒い息遣いが聞こえる。
 顔も赤い。
「…凄い熱だ」
 そっとアオイの額に手を置いて、ユキは呟いた。
 思い返してみれば、朝も様子が変だったのだ。あのことを除いても。
 土手に寝そべって、調子が悪そうだったではないか。
 なぜ、忘れていた。
 こんな大事なことを。
「…シラネ?」
「あ、オオガミ君、大丈夫!?」
 どこかでしたことのあるやり取り。
 ああ、今朝もこんな風に声をかけたんだと気が付いた。
 そして、きっとアオイがこんな状態でなければ、声をかける勇気が無かったであろう事も。
「大丈夫?水でも買ってこようか?」
 そう言って、実際に買ってこようと思い、踵を反す。
 その瞬間に、腕を掴まれた。
「シ…ラネ…」
 荒い気の間から、アオイが言葉を紡ぐ。
 苦しげに聞こえるそれを、聞き漏らすまいと、ユキは膝をついた。
「何?どうしたの?」
「………ご、めん…」
「…え?」
 アオイが放ったそれは、ユキの予想外のものだった。
 僕は彼になにかされただろうか。
 彼は、なにか謝るようなことをしただろうか。
「今朝の…あれ…。ずっと…謝ろうと…思って、たんだけど…よ…」
 そこで思い当たる。
 アオイは気にしていたのだ。今朝のあのことを。
 あれは事故だった。よろけたアオイと、避けそこなったユキの唇が、偶然重なった。
 だから、さほど気にはしていなかった。
 いや、気にしてはいた。
 気にしていなかったのは、アオイに非があるということ。
 ユキは、全くそう思っていなかった。アオイが悪いと、思ったことは無い。
 それなのに、この狼は、謝ってくる。
「ごめんな…嫌だった…ろ…?」
「……」
 どうだったのだろうか。
 アオイが謝るその姿は、悪い体調のせいもあるのか、とても弱弱しく見えて。
 まるで、しかられている子どものようで。
 ユキはそっと指先で自分の唇に触れた。
 ここに、衝撃が来たのだ。
 倒れ掛かってきたアオイの下敷きになり、そして、口が口で塞がれた。
 倒れた痛みも、頭を打った痛みもあったけれど、全てがわからなくなるくらいの衝撃。
 物理的にも、精神的にも、かなりの衝撃だったのは間違いない。
 でも…
「嫌じゃあ…なかった…かな?」
「え…?」
 ユキは笑った。
 アオイが、これ以上悲しそうな顔をしないように。
 少しでも、笑ってくれるように。
「色々思ったのは確かだけど、嫌じゃ無かったと…思う」
 本心だ。
 驚いたし、混乱したし、困惑もした。
 けれど、嫌悪は感じなかった。
 むしろ、逃げていったアオイが、自分を拒絶するんじゃないかと、不安になったくらいだった。
「怒ってないか?」
「怒ってないよ」
 子どもをあやす様に、ユキはアオイの言葉を反復する。
 アオイの瞳が、安心したように細められた。
 アオイの手が、寝そべったまま伸ばされて、ユキの頬を撫でる。
「よかった、ユキ」
 名を、呼ばれた。
 アオイの、高い体温が伝わってくる。
 衝撃が身体を駆け抜ける。
 そして、アオイはそのまま目を瞑り、崩れた。
 頬に置かれていた手が、するりと力を失った。
「え? ちょっと…オオガミ君!?」
 再び意識を手放したアオイは、荒い呼吸を繰り返すばかり。
 一人残されたユキは、ただ呆然とするしかなかった。
「えっと…どういうことで、どうしたらいいんだろう…」
 やはり、呆然とするしかなかった。とりあえずは、保健室に連れて行くべきだろうか。
 だが自分一人では、アオイを運べないだろうことは、簡単に想像がつく。
 ユキは崩れかけている狼の体を、そっとベンチに戻すと、その額を優しく撫でた。
 こんなになりながら、謝罪をしてくれたアオイ。
 アオイの安心した優しげな瞳。
 そっと、撫でてくれた手の温もり。
「ありがとう」
 昼休みにも言った言葉を、ユキは口にする。
 そのときとは、また違った感謝を込めて。


 目が覚めると、何故かベッドに横になっていた。
 白い天井に、白いカーテン。病院を連想する、消毒液のにおい。
 それに混じって漂う、何かの香り。でも化学品臭くは無いから、芳香剤ではないかもしれない。
 身体を起こすと、だるさが身体を支配する。頭がふらついた。
 窓からは、校庭が見えた。
 校舎のすぐ脇にあるグラウンドを、見慣れたジャージを来た集団が走っている。陸上部だ。
 その集団に少し送れて、同じジャージを来たレッサーパンダがとてとてと追っていく。
 ころころしたその姿はなんとも愛らしいが、あの走りの遅さは陸上部としては致命的だ。
 それでも楽しそうに走るレッサーパンダを、アオイは微笑ましく眺めていた。
「相変わらず…楽しそうに走るなあいつ」
 身長の割に、ころりと膨らんだ腹を抱えて走るその顔は、笑みを浮かべるでも、苦しげでもない。
 キラキラと輝くようなその表情は、ただ先を見つめていた。
 すると、こちらが見ていたことに気付いたのか、立ち止まって手を振り始めた。
 よくもまぁ、これだけ離れた窓から見ている自分に気づくと感心してしまう。
 だがいくら今日は上級生がいないといっても、そんなことしてれば怒られる。
 アオイは苦笑しながら、しっしっと早く行くように示した。
 すると案の定お呼びがかかったのか、レッサーパンダは体をびくっとさせると、こちらに深く一礼して、また走りだした。
「あの馬鹿…」
 相変わらずな後輩の行動に、呆れと嬉しさが混じりアオイは頭を掻いた。
 ランニングに戻りながら、振り返って微笑んでくる後輩に手を振って応じながら、アオイは苦笑する。
「あら、起きたのかしら?」
 ベッドを囲うようにしたカーテンが開いた。
 そこから顔を覗かせたのは、白衣を着た羊の獣人だ。
 服が盛り上がっているのは、胸が豊満なのか、それとも体毛が持ち上げているだけなのか。
「気分はどう?」
「…悪いっすけど」
「そう。まぁ無理ないわね、39度の熱があったんだから」
 ため息交じりに、そう言ったこの羊の女性は、保険医の日辻藻子(ひつじ もこ)。
 女子にも男子にも安定した人気をみせ、東中のお母さん的ポジションにいる。
 アオイの記憶では、確か赤木と同年代だ。けっこう若い。
 だが羊という種族のせいもあるのか、あまりそうは見えず落ち着いた年配の雰囲気を漂わせていた。
「さんじゅう…くど…?」
「そうよ?よくそんな体で学校来たわねオオガミ君」
「いや…それは…」
 やらなければいけない事があったから。
 言わなければいけないことがあったから。
 だから体調が悪いのを無視して出てきた。
 いや、自分の体調に頭が回らないくらいに、そのことばかり考えていたのかもしれない。
「すんません。迷惑かけました」
「お礼なら私じゃなくて、言うべき人がいるわよ」
「へ?」
 日辻の返答に、アオイは素っ頓狂な声を上げた。
「あなたが大変だ…って言って駆け込んできた子がいたのよ。あの子がいなかったらもっと大変だったわ」
「あの子って…」
「ええと…何ていったかしら。白い猫の子でね…」
 そこまで日辻が言うと、保健室の扉が二回叩かれた。
「どうぞー」
「失礼します」
 聞き覚えのある声。ここからでは姿が見えないが、おそらく予想通りの姿がそこにいる。
 カーテンの隙間から、日辻と入れ替わるように顔を見せたのは、やはりユキだった。
「…大丈夫?」
「お、おおおお…おう。一応は大丈夫だ」
 ユキの突然の登場に、アオイの口がしどろもどろになる。
「そっか。よかった」
 ユキが自分の耳を撫でつける。
 ほう、と息を吐いた白猫の瞳は、それでも心配そうにアオイを見つめていた。
 ベッド脇にユキが移動すると、日辻はカーテンを閉めた。
 どうやら二人きりにしてくれるらしい。
「もう、こういう無茶は止めてほしいな。心配で身がもたないよ」
「悪い。でも実際さっきまでは何ともなかったんだけどな」
「朝は違ったでしょ」
「朝は…いや、その…」
 アオイは再びあの場面を思い出し、赤面する。
 そんな狼にユキは苦笑を返し、ベッドに腰かけた。
「さっきちゃんと謝ってもらったし、怒ってないって言ったでしょ」
「いや、そうだけどよ…それとは別に…なんというかだなぁ…!」
 恥ずかしい。
 だがそれを口にするのは、もっと恥ずかしいのだ。
「体調は本当に平気なの?」
「ああ、まだ頭は痛いし体もだるいけどな。熱自体は下がったみてぇだよ」
「どれどれ」
 ユキの手が伸びて、アオイのおでこに触れる。
 それと同時に、ユキは身を乗り出してアオイの正面に回った。
「うーん…確かにちょっと下がったかな」
「だだだだっだだだだっ、だろ?」
 アオイの胸の鼓動が、また速くなる。呂律が回らない。
 ユキの顔が近くにある。自分の顔を覗き込んでいる。それを意識したらなぜだか胸の高まりが抑えられなかった。
「オオオガミ君ってさ…」
「ん?」
 ユキはくすりと笑いながら、座りなおす。
 相貌の紅い瞳は、優しげに、そしておかしげに細められていた。
「意外と、恥ずかしがり屋でしょ」
「俺が?」
「うん」
 アオイは、自分が恥ずかしがり屋だという自覚などない。むしろ、シャイという言葉が似合わない方だと思っている。
 それにも関らず、ユキは自分を恥ずかしがり屋だと言った。
 確かに、今自分は恥ずかしいと思っているわけだが…
「普段はそんなことねぇんだけどな…」
「そうなの?」
「ああ。なんでかお前に対しては…その…」
 そこまで言うと、ユキが手を重ねてきた。小さな白い手は、遠慮がちにアオイの手の上に乗っている。
 アオイがピクリと反応してからユキの顔を見ると、白猫は首をかしげながら笑った。
「じゃあ、僕は特別なのかな?」
「……そうかも、な」
 アオイも笑いかえす。
 今度は変に高ぶることなく、胸の中にはふわりとした温かな感覚があるだけだった。


「ねぇ、本当に大丈夫?」
「平気だって。ちゃんと鍛えてんだし」
「あんまり関係ないでしょ」
「そうでもないだろ。多分。鍛えてないより、鍛えてる方が良いに決まってら」
「それはそうかもしれないけどさ…」
 学校からの帰り道、ユキはアオイを送っていた。
 よろけながら歩く狼の横を歩くだけだが。
 荷物を持つと言ってもアオイは聞かず、のっそのっそと歩を進めていた。
「でも、ちゃんと明日は休んでてよね」
「あーあーわかったわかった」
「来る気?」
「だってなんか…風邪なんかで学校休むのも癪だろ」
「もう…。変なところでプライド待たないでよ…」
 ユキはため息をつくと、アオイの顔を見上げる。
 大分身長差がある二人では、ユキはアオイの顔を見上げ、アオイはユキの顔を見下ろす形にしないと視線が合わない。
 アオイの表情は、平静を装ってはいるが、倦怠感は隠し切れておらず視線も中をさまよってる感じがした。
「頼むから、明日は家で休んでてよ。心配でしかたないじゃない」
「お前が心配する必要ないだろう…」
 その言葉に、ユキの体が固まった。
 アオイが何気なく言った言葉が、胸に刺さったように頭に響く。
「そう…だよね。僕なんかに…心配されたくないよね…」
 アオイの耳に届くか届かないかの声で呟いたユキは、泣きそうになっている自分に気づいた。
「わかったよ」
 アオイの手がぼすりとユキの頭に乗る。
 そのままガリガリとかき回しながら、黒狼はだるそうに、だが優しげに言った。
「明日はちゃんと休む」
「本当?」
「ああ」
 アオイに頭をなでられながら、ユキは良かったと呟いていた。
 道を吹きすさぶ風はまだ冷たく、アオイの手の暖かさが際立つ。
「それと、言い方が悪かった。「お前が心配する必要ない」ってのは…そのだな…お前が気に病むことないっていうか、気にしないでくれっていうか、責任は俺の方にあるって言うかだな…」
 ああそうか。
 ユキは自分が恥ずかしくなった。アオイの、自分に対するいたわりの言葉を、間違った受け取り方をした。
 そんなことにも気付けていなかったくせに、勝手に傷つくなんて。
 自分はどれほど身勝手なんだろうか。
「だから…その、お前に心配されるのは、素直にうれしいからさ…」
「……ん。ありがとう」
 思いがけないアオイの言葉に、嬉しさを噛みしめて頷く。
 嬉しいと言ってくれることが嬉しい。なんだか言葉遊びみたいで面白い。