第七話 お昼休み
ユキは何が起きたのか解からなかった。
何かで口が塞がれた。柔らかい。
目の前にはアオイの顔。
それが朝のこと。今は授業中。
あの後アオイは猛ダッシュで帰っていった。
そして今は、机に突っ伏して眠っている。
いや、本当は寝ていないことがユキにはわかっている。
ユキの席は、アオイの斜め二つ後ろだ。
授業中はアオイの姿が良く見える。
普段の居眠りとは違う、不自然なうつぶせ方。
やっぱり、朝のことを気にしてるんだろうか。
ユキ自身、授業の内容があまり頭に入ってはこなかった。
ふとすると、アオイがこちらを見てきていた。
突っ伏したまま、チラッと見てくる感じ。
そしてユキがそれに気付いて視線がかち合うと、慌てて元に戻った。
それが、今日はずっと続いている。
朝、学校にアオイが来た時、ユキを見つけてハッとしたと思うと顔を背けた。
休み時間、自分のことを見ていたことに気付いてそちらを向くと、偶然に目が合った。
そうしたら、アオイは慌てて向こうを向いた。
そして授業中、今の通りにチラチラとこちらを見てくるものの、視線が合うと直ぐにそれを外してしまう。
避けられている、と思った。
でも、それが違うかもしれないと思ったのは、昼休みになってからだった。
授業が終わり、昼休みになった。そのとたん、アオイが自分の目の前に立って一緒に昼食を食べないかと誘ってきたのだ。
別に構わないと応えると、アオイは嬉しそうに笑った。笑顔がいつもと変わらないことに気付いたユキは、心からホッとしていた。
自分に向けられる反応が変わってしまうことの、悲しさも、寂しさも、知っていた。笑顔が歪になったり、表面だけの仮面になったり、笑顔を見せようとしなかったり。きっかけは様々だ。ユキが経験した今までのものは、ある程度同じ理由だったけれど。
しかしアオイは違った。笑顔が、幸せそうに笑ってくれる笑顔が、嬉しい。
そんなことに気をとられていたユキは、誘われたときにやけに周囲が静かだったことに気付いていなかったわけだが。
「お前…それ一個だけか?」
購買で昼に食べるパンなどを物色していたときに、アオイが呆れたような声でたずねた。
ユキが手にしていたのは、生地をねじってリボンのようにし、その上に粉砂糖をかけた定番の砂糖パン。
ただ、それだけで会計に行こうとしていた。
「うん、そうだよ?」
平均男子中学生に比べ明らかに少ない量だ。
だが、普段からこれくらいしか食べないユキは、アオイがなぜ訝しげな表情をしているのかがわからない。
「足りるのか…?」
「足りるよ?」
「…いや、足りない」
「はい?」
聞いてきたにもかかわらず、今度は断言してきた。
「そんなんだからでかくならねぇんだよ、これも食っとけ」
「ええ?いつもこんな感じなんだけど…」
「じゃあ今日は特別。もしくは今日から変えろ」
「そんな理不尽な!」
「じゃあ…」
アオイは自分の持っているパンの山から、焼きそばパンをひとつユキに押し付ける。
「これ、俺の一番のお勧め。なのでお試しあれ」
「……?」
なにが「じゃあ」なのかがわからない。今ので、何かが解決しただろうか。
「ん? こういう理由ならって思ったんだけど…やっぱ嫌か?」
ああ、そういうことか。理不尽だと言った自分に対し、理不尽じゃなくなる理由を作った。
僕が食べるパンを増やす、妥当な理由を作ってくれた訳か。
優しい。というか発想が凄い。押し付けるでも、強制でもない。こちらが自然と行動しやすい環境を作ってくれる。
簡単じゃないことを、簡単に、そして自然にやってのける。
その度量の深さに感心する。
「それじゃあ、これも食べてみようかな?」
「お、本当か?」
アオイが笑う。
この狼は、笑うときは本当に嬉しそうに笑う。
いや、嬉しいときにしか笑わないからそう思うのだろうか。
「うん。オオガミ君のお勧めだもん。食べなきゃ損でしょ!」
この笑顔を見ると、こっちまで自然と笑顔になる。
二つになった手の中のパンを少し掲げて見せながら笑うと、アオイは頭を掻きながら視線を外してしまった。
せっかく目を合わせてくれたのに、と思いちょっと寂しく感じる。
アオイはユキの持っているものの何倍かの数のパンやオニギリをさっさと買っていた。
慌ててユキも会計を済まし、アオイの後に続く。
追いついて隣に並ぶと、アオイの尻尾がふさっと揺れた。
だがそれが、直ぐに収まる。それでも、何故か少し震えていた。まるで振りたいのを無理やり抑えているように。
「んじゃ、屋上に行きますか」
「うん」
頷きながら、廊下を歩いていてユキは思う。
隣に居る狼と、自分はかなり体格…主に背が違う。
それはつまり歩幅も違うと言うことで、歩く早さも違うはずだった。
だが、今自分は少し早く歩こうとしてはいるものの、大していつもと変わらない。
それなのに隣にいるアオイとペースが同じなのはどういうことだろうか。
答えは簡単だ。
アオイがユキに合わせている、それだけのことに過ぎない。
こういうことを何気なくできるんだから、ホントに凄いよなぁ…。
ユキは狼の黒い顔を見上げながら、そう内心で呟いて苦笑する。
アオイの優しさは、実はわかりにくい。
思い出してみると、アオイが誰かに礼を言われているところを、あまり見たことが無かった。
普段は割と無口で、一人でいることが多いらしく、雑談する人間も一定の限られた範囲のようだった。
そんなアオイを、周囲は怖がり、いわゆる不良というレッテルを貼り付けている。
だが、それは間違いだ。
アオイは優しい。きっと、ユキの知る誰よりも。
本当に優しいから、見返りを求めない。礼を求めない。ねぎらいの言葉すら。
アオイは今朝言っていた。自分が助けたいから助けるのだと。
それが、本当だったのだと、ユキは実感する。
その優しさを、ひけらかすことなく、さり気なく行動できることの凄さに、驚く。
そして、無性に泣きたくなる。
どうしてこの優しさが、認められないのか。その無常さに。
なぜ、それでいいと思えるのか。その心の強さと、翳る事のない本当の優しさに。
「ありがと、オオガミ君っ!」
「は? 何がだ?」
思わず、見上げていたアオイの向かってそう言っていた。
自分は分かっているんだと、伝えたくなって。
その優しさに感謝しているんだと、わかってもらいたくて。
突然に感謝の言葉を言われただけでは、何もわからないかもしれない。
それでも、構わない。
自分が、伝えたいと思ったから伝えるのだ。
アオイにこの感情を理解してもらうのが目的ではなかった。
本来は伝達という行為を行うときは、それが目的だと思う。自分の思いを、意思を相手にわかって欲しいから伝えようとする。
でも、今のユキはそうではない。
アオイの理解ではなく、伝えるという行為そのもの、「ありがとう」という言葉そのものが大切だった。
ただ、「ありがとう」と言いたかった。自己満足で構わない。きっと、アオイの言っていた今朝の言葉は、こういうことを指しているんだと、ユキは少し思った。
「なぁ、なんなんだよ、いきなり『ありがとう』って」
「えへへ、なんでもない!でも、ありがとうっ!」
「だから、わけわかんねぇって」
本当になんでもないのだ。なんでもないことが、嬉しいのだから。
なんでもないことに、ありがとう。
そんな気持ち、いままで持ったことがあっただろうか。