第六話 理由なき理由

 アオイは走るのが好きだ。
 あの感覚が心地良くて、快感で、浸透していく高揚感がたまらなかった。
 走る、その行為のみに集中する。余計なものはいらない。
 他のもの全てが乖離していく感覚。不安も、喧噪も、過去も、未来も、全てが剥がれていく。そこにあるのは、自分と、流れていく景色だけ。その景色さえ、だんだんと薄くなっていき、なくなる。
 走る。走る。走る。
 足を出し、地面を踏み締め、蹴る。腕を振り、浅く呼吸を繰り返し、鼻腔から空気の流れを感じる。
 何もない。自分だけの世界。それが好きだった。
 何にもとらわれず、全てが乖離していくあの感覚を求めた。

 だが、今日はそれがない。
 日課となっている朝のランニング。トレーニングとは違う、自分の好きなように走る。走りたいから、走る。そんな気ままなランニング。いつもはそんな走りで、あの感覚が呼び起こされたのに。走ることに快感を覚えていたのに。
 剥がれない。
 一歩進むたびに剥がれていった喧騒。それなのに、何かが頭の中をチラついて、纏わりついてくる。
 白い、何かが。
 雪だと、最初は思った。
 春になりつつある季節を無視して、朝から降っていた雪。
 それが自分を邪魔しているんだと。
 だが、邪魔というほど嫌な訳でもない。
 分からなかった。
 いつもと違う感覚は、アオイの走りを崩した。
 ペースが上がっていることに気付かない。
 公園の中を駆け抜けたとき、なにかが目に映った気がした。
 白いものが。
 気にはなったが、足は止めない。
 一度止まってしまうと、再び走りだすのが難しい。なるべくなら立ち止まりたくはなかった。
 それが、いけなかったのかもしれない。しばらくそのまま駆けて、土手にまで来た。そして、走っている最中に足がもつれた。崩れ落ちるように、脇の芝生に滑って転がる。
 土の匂いと、青い草の匂いが鼻をくすぐった。身を守るために突き出してすりむいた手のひらが痛い。
 どうにか仰向けになり、曇天を見上げた。
「………かっこわりぃ…」
 転んだことが、走れないことが、何だか無性に情けない。
 ちょっと立てないな。
 体が重い。いつもは走っていると軽くなるのが良かったのに。不思議なものが、頭から離れない。
 アオイはそっと目を閉じた。
 空からは、雪がまだ降っている。火照っていた体全身で冷たい空気を感じた。
 冷たい。
 まだ、寒くはない。



「オオガミ君!?」
 どれほどそうしていただろう。
 頭の上から声が降ってきた。聞き覚えのある、優しい音色。
「シラネ…か?」
 声の主の顔を思い出しながら、状態を起こそうとする。
 だが、頭が重い。体に力が入っていかない。
 あれ?どうしたんだ…おれ…。
 ふらりと、揺れた。
「危ない…!」
 ユキがアオイに手を伸ばした。
 そっと、柔らかいものに全身を包まれた気がした。
「オオガミ君!?大丈夫…!?」
「へーきへーき、ちょっと調子に乗っちまっただけ…」
 そこから言葉が続かない。
 アオイはそのまま意識を手放した。





 ふわり、そんな感覚だ。
 風が体を撫でていって、体の下に大地の鼓動を感じる。
 頭の下には、柔らかい感触があった。
 いや、アオイがそれに頭を乗せている。
「あ、気が付いた?…よかった」
 アオイは、ユキに膝枕されていた。
 それに気付いたら、なんだか顔が熱い。
 そして恥ずかしい。
「ああっ駄目だよ動いたら!もうしばらく休んでて」
 この恥ずかしい体勢をどうにかしようとしたアオイを、ユキが抑えた。
 体がだるく力が入らないので、簡単に静止させられる。
「でも…お前、これ…」
「大丈夫。そんなに重くないもん。頭は高くしといた方がいいかなって思って」
「いや、そうじゃなくて…」
「なに?」
「…なんでもない」
 アオイは思い直してユキの太ももに身を任せた。
 筋肉も脂肪も、特に付いていないユキの足。
 それなのに、とても心地よい。
「じゃあ、もう少しこのままで頼む…」
「うん」
 アオイが目を瞑って体の力を抜くと、ユキが安心したように笑った。
 ふっ、とアオイの胸の奥で何かが跳ねる。
 締め付けられるようで、でも不快じゃない苦しさ。
 アオイは薄く目を開けてみる。
 ユキの顔が、直ぐ近くにあった。
 心の蔵の拍動が、いっそう激しくなったのがわかった。
 手近にあった草をちぎってみる。
 あっけなく千切れたそれを、風に流す。
 ひらひらと舞って、遠くへと運ばれていった。
「ねぇ、オオガミ君?」
「ん?」
 ユキが、唐突に口を開いた。
 見上げたアオイと視線を合わせないようにしているのか、その顔は川のほうに向けられている。
「どうして、僕を助けてくれたの?」
 一瞬、なにを聞かれたのかわからなかった。
「この前のことか?」
「うん…まぁ…」
 ユキは曖昧に頷いた。
 アオイは思い出す。
 最近二度、アオイはユキを助けた。そのときのことを。
 自分は、何故この白猫に手を貸したのだろうか。
「なんで、僕なんかのために…」
 ぼそりと、ユキが続ける。
「お前の為じゃねぇよ」
 アオイは、はっきりと言い切った。
 それは、最初に礼を言われたときに言ったのと、ほぼ同じ内容。
「別に、お前の為ってわけじゃなかった」
「でもそれは…」
「俺は、俺のためにやっただけだ」
 ユキの言葉を、アオイは遮った。
「誰かのため…なんて嘘くさいと俺は思ってる。俺は、俺が助けたかったから、助けたんだ。結果として、誰かに得をさせることになっても、損をさせることになっても、俺は後悔は、したくない。誰かの為とか、誰かに言われたから、とかじゃなくて…何て言うかな…俺が自分で感じて、決めたことを行動にしただけなんだ」
 アオイは、言葉を選ぶように区切りながらゆっくりと、でもはっきりとした口調で語った。
 誰かのため、それはきっと偽善だ。
 行動は美しいだろう。相手は喜んでくれるかもしれない。でも、違う。
 それは、いい訳だ。自分の行動に、理由が欲しいだけ。誰もが納得する理由をつけて、自分の行動を正当化しようとする。
 責任は自分にないと、言いたい。
 こうだったから仕方ない、人の為になったんだから仕方ない。
 そういう風に失敗したときの保険をかけているだけ。
 それは相手にでも、周囲にでもない。
 自分に。
 自分を責めないでいられるように、仕方ないさと割り切れるように。保険をかけている。
 俺は、そういうことはしない。
 違う。違うんだ。自分に嘘をつきたくない。
 行動したいと思った。だから行動する。
 やりたいから、やる。
 その前に、「誰かのために」とか、「助けたい」とかの理由が入ることがあっても、行動するしないを決めるのは自分だ。
 そんな格好のいい、ヒーローのような理由で自分は動けない。いや、動かないだろう。
「俺は…シラネが絡まれてるのを見て、助けなきゃって思った。助けたいって思った。だから助けた。それだけだ」
 アオイは再び目を瞑って、大きく息を吐いた。
 こんな風に、自分の胸中を語るなんて自分らしくない。
 慣れないことをしたら、なんだか疲れた。
「よく…わかんないよ…」
 ぽそりと、言葉が振ってくる。
 わからないか。無理も無いだろう。
 語ってはみたが、アオイ自身でも端的に言い表せるほどはっきりしたものではない。
 ただ、伝わったなとは思った。
 気持ちは伝わった。ユキはそれを必死に租借しようとしている。理解しようとしている。
 気持ちの端は、ちゃんと捕らえてくれている。
 それが、なんだか嬉しかった。
 アオイは腕を持ち上げて、自分の顔の上にあるユキの頭に、そっと乗せた。
「お前はさ…なんで俺についててくれたんだ?」
「え?」
 必死に理解しようと、眉間にしわをよせていたユキの頭を、アオイはそっと撫でる。
 柔らかな毛の感触が、口元を自然と綻ばせる。
「俺なんかほっとけば良かっただろ?なんでだ?」
「なんでって…」
「この前のお返しのつもりだったか?恩を着せようと思ったか?いい人ぶりたかったのか?」
「そんなこと!」
「ない、だろ? それなんだよ、きっと」
「…?」
 撫でていた手を滑らせて、ユキの頬に手をそえた。
「理由なんて、ないんだよ。人を助けたいとか、力になりたいとか思うのに」
「そうかな…」
「助けたいなって、思っただけなんだ。そこに、たいそうな理由なんて無い、つーか、いらねぇんだ…きっと」
 黒い手をそえられた、白い顔は、納得したようで、わからないというような、そんな顔をしていた。
 ユキの手が、頬をなでるアオイの手をそっと掴む。
「そうなのかもしれないね…僕は、オオガミ君の力になりたかった。そばに居たかった、だからここにいるんだ」
 それでも、とユキは続ける。
 アオイの手を握る白い手に、すこし震えた力が入った。
「わからないんだ…なんで僕なんかを助けてくれたのか。助けたいと思ってくれたのか。僕なんかを…」
 なぜこの猫は、こんなにも自分を卑下してしまうのか。
 こんな風に、自分を低く見ているのだろうか。
 これ以上、そんな言葉をつむがせないために、アオイは無理やり口を開く。
「あえて、言うならな…」
 アオイは、あえての部分を強調して言った。
「お前が、諦めなかったからかな」
「僕が?」
「実を言うと、最初は見捨てるつもりだった」
「ええ!?」
 アオイは苦笑しながら言った。
「お前何もしなくて、どうにでもなれって感じだったからさ。そういう奴助けても仕方ないかなって思ってたんだよ」
「うん…」
「でも、本を奪われたときに必死になって抵抗したろ?必死になってる奴って手助けしたくなるんだよ、なんか」
「そうなんだ…」
「二回目も、お前の台詞がさ、負けないぞっていう気迫っつーか、そういうのがあってさ。ま、あれはそういうの関係なしにお前がやられてるって思ったら、声出してたんだけど…」
「僕だったから?」
「い…!? いや…まぁ、その……そうなん、だけど…まぁ…!」
 聞き返されてしまうと、ユキだったから、というその考えが酷く恥ずかしいものに感じられた。
 ばっと体を起こし、ユキから離れる。
 そうしないと、どうにかなってしまいそうだった。
「オオガミ君?」
「なんでもねぇ!なんでもねぇからっ!」
 本当になんでもない。ただ恥ずかしいだけだ。恥ずかしいと言うか、体のなにかが異常に反応してしまっている。
 自分の鼓動がいやに耳に響く。
 訝しげに首を傾げるユキの瞳が、やけに眩しい。
 まぶし…い…
 ふらりと、また頭が揺れた。
 さっきまでのとは違う、身体が訴える不調。
「うわっ…!」
「ふぎゅっ!」
 重なる悲鳴。
 重なる体。
 ユキがアオイの下に敷きつぶされる。
 予想だにしていなかったのか、避けることも出来ずにぐしゃりと二人はつぶれた。
「ん…?」
「んんー!?」
 重なったのは、それだけではなく…もうひとつ。
 それは、二人の唇。