第五話 痛み




 やめて…

 やめてやめてやめて。

 腹に、痛みが走る。
 腕に、痛みが走る。
 足に、痛みが走る。
 自分ではどうしようもない、痛み。苦痛。
 逃げ出したい。でも、それもできない。逃げても、生きていけない。
 ここにいるしか、僕の生きる道はない。弱くて、非力な存在だということを実感する。
 嫌だと、反抗することさえしない。
 助けてと、言うことも忘れた。








 ズアッ、っという効果音が相応しい目覚めだった。
 まどろみの世界から、急に現実へと引き戻された。そんな感じだ。
 周囲の音が、耳を通り頭の中にストレートに入ってき始める。
 でも煩くはない。空気の揺れる音。小鳥のさえずり。
 そして、体の疼き。
「…っ!」
 ユキは自分の腕を見やる。
 新たにできた痣が、カーテンの隙間から差し込む朝日で青々と光る。
 その腕で腹をさすると、鈍い痛みが走った。
 ぐっと力を入れて立ち上がる。ユキはベットのわきで崩れるようにして眠っていたのだった。
「もう…五時だ…。早くしないと…」
 ユキは痛む体を気にしないようにして、手早く学生服に着替えた。
 鞄を拾い、その中に赤い表紙の本が入っていることを確認する。
 そしてなるべく音を立てないように家を出た。
「雪…」
 空からはらはらと舞い降りる白い粉雪。
 震えるような寒さが頬を撫でた。


 少し歩いて、ユキは河原の公園へ行く。土手のわきに作られた、緑の多い緑地公園だ。
 ユキの毎朝の日課だった。いつものベンチに腰掛けて、ふうと息をつく。
 公園の広場から林一つ隔てたこのベンチは、ほとんど人が来ない。
 まだ学校まで時間があるので、ユキはここで時間をつぶす。
「寒い…」
 朝の冷たい風が容赦なく吹き付ける。
 それでも、もう少しすれば春の日差しが空気を暖め出してくれる。
 ユキは、そっと、あの赤い表紙を開いた。白い粒が、ひらりとその上に舞い降りる。
 もう何度も読み返した、児童向けのファンタジー小説。
 だがユキにとって内容はさして重要じゃなかった。
 この赤い表紙が、勇気をくれた。
 だいぶ前のことだ。この本と出会ったのは。
 あの子は、いったいどうしているだろうか。
 ページを捲っていると、あっという間に時間は過ぎた。
 ふと公園の備え付けの時計に目をやる。
 だいぶ時間がたった。そろそろだなぁ…と呟く。
 足音が聞こえた。
 来た、と思う。
 一定のリズムで刻まれる、地面を蹴る音。
 かすかに聞こえる、風を切る音。
 毎朝この場所で、この音を聞く。気配を感じる。
「今日も時間通り。きっと楽しそうに走ってるんだろうな…オオガミ君」
 ユキは、足音の主の名をそっと呟いた。
 背後で小気味よく走っているのは、アオイだ。
 陸上部としての鍛錬…そうではないと、ユキは思っている。
 アオイは、走るのが好きだ。勝手な想像だけれど、ユキの中には確信があった。
 陸上部の人間ならみんな好きだろうと言うかもしれない。でも、アオイはそれとは違う。異質なのだ。
 走ることに取付かれたように、ただ走ることを求めている。
 もっと早くとか、タイムを縮めたいとか、そんなことはきっと微塵も考えていない。
 アオイが走ることに求めているもの、それはあえて言うなら快楽だろうと思った。
 だから、アオイは走っている。
 ユキはそれを美しいとすら感じていた。
 自分の求めるものを、自らの手で手繰ろうとしている姿に、憧れる。
 自分には無い力を持っていることを、妬ましく思う。
 自分にも、あんな風に前に走りだす力があれば。
 振り向いて、林の向こうに目を凝らす。木々の間から、黒い影が垣間見えた。
 その黒い影から、白い息が漏れだす。
 ああ、綺麗に走るなと思った。
 本当に、綺麗に走る。走るために走っている、それが綺麗だと感じる。
 何も感じない、目的を感じさせない走りが、左から右へ過ぎゆくのを、毎朝見て思う。
 足音が遠ざかって、ユキは再び赤い表紙に視線を落とした。
 自分の瞳と、似た色の表紙だ。
 その表紙を、そっと撫でてから、ユキは立ち上がった。
 学校行かなくちゃ。
 今からゆっくり歩けば、ちょうど学校の開く時間につくだろう。
 授業が始まるにはだいぶ早いが、図書室も開くし、教室にいて自習をしていてもいい。
 誰と話すわけでもない、独りでいる学校は確かに苦痛だけれど、それでも家にいるよりはマシだった。


「あれ…?」
 学校へ向かう途中、それほど公園から離れていない土手で、ユキは足を止めた。
 土手の傾斜に、見覚えのある姿が寝ていたからだ。
 いや、倒れている…?
 はっとしたユキは、その傾斜を駆け降りた。
「オオガミ君!?」
 近づいてみると、予想通りにそれはアオイだった。
「ちょっと…!大丈夫オオガミ君!!」
「ん…?シラネか?」
 アオイがゆっくりと上体を起こす。
 が、バランスを失って再び倒れた。
「危ない…!」
 ユキは支えようと手を伸ばしたが、自分もバランスを崩した。
 せめてアオイが頭から落ちるのを防ごうと、ユキは体を捻った。
 アオイの下に、ユキが組み敷かれる形で、二人とも倒れる。
「ぐふっ………いっ!!」
 ユキの口から空気が漏れ、次いで小さく悲鳴が上がる。
 アオイの身体がユキの腹部に当たった。
 息が詰まったのはそのため。
 次いで走る激痛。
 息が詰まったのとはまた違う原因による痛み。
 悲鳴はこちらのせい。
 腹部を中真に激痛が広がる。
「……!!」
 ユキはどうにか痛みを堪え、アオイに目をやる。
 苦しげな表情に、荒い呼吸。高い体温。
 …走っていたから?
 明らかにそれだけではない異常さを、ユキは感じた。
「オオガミ君!大丈夫!?ねぇ、オオガミ君!?」
「へーきへーき…ちょっと調子に乗っちまった…だ…け……」
「え…オオガミ君!?」
 アオイはユキに抱きとめられたまま、気を失った。