第三話 再び

 図書室の一角で、ユキは首をめぐらせる。
 この学校の自慢の一つらしい、蔵書の多い大図書室は、ユキにとっても嬉しいものだった。
 春休み中にも図書室は開放されているので、必要のあるものは休みの期間中でも利用できる。
 休み期間中はほぼ毎日ここに来ていた。
 休みが終わっても、放課後はここでギリギリまで時間を過ごす。
 学校は今週スタートした。億劫ではあるが、それでも学校は嫌いではない。
 なかでも図書室は好きだ。自分がいても良い空間のような気がするから。
 ここでずっと本を読んでいたいと、何度も思った。
 本はもともと好きだったし、なにより家にいなくて済むから。
 ここは、ユキにとって自分がいてもいい数少ない場所だった。
 この図書室にある本のほとんどは、読書好きの資産化が母校であったこの学校に大量に寄付したものらしい。更には、本を入れるために図書室の改築の費用も負担したとか何とか。
 そうして出来た、教室四つ分ほどもある大図書室は、学校の中でちょっとした異彩を放ってもいた。
 ユキは、読み終えた本を返して、何気なく棚の間を歩き面白そうな本が無いか探す。
 すると、ある本のタイトルが、ふと目に留まった。
 そのタイトルを読んで、ユキは何ともいえない笑みを浮かべる。
「『呪われた咎人』か…」
 その隣は、『降りかかる災い』、『背負いし運命』、そして『数え切れぬ後悔』。
 一連のシリーズらしいその背表紙の文字は、只のゴシック体であるにも関わらず、ユキの胸に刺さった。

 この間助けられたとき、アオイの頬には、乱闘で出来たのであろう痣が出来ていた。
 謝ろうと思ったのだが、アオイに止められて結局ちゃんとは言えなかった。
 本人は何ともないと言っていたが、痣というのはかなり痛い。
 ただ痛いのではない。一定のリズムで「ここに傷があるんだぞ」と訴えているように疼く。
 ユキはそれを良く知っていた。
 そして、あの傷の原因は自分だと思っている。
 自分のせいで、アオイに傷を作らせたのだと思うと、胸が痛んだ。
 これから、アオイとの距離は縮まっていくのだろうか。
 いや、多分昨日も気付いていなかったから、今までどおりでいれば大丈夫だろう。
 今朝だって、きっと気付いてはいないだろう。
 それは、悲しく寂しいことでもあるが、ユキにとってはそちらの方が良い。
 自分のことを知られるのは怖かった。
「もう帰ろう…」
 家に帰ることは億劫だったが、棚に並んだ本たちの中で、異様に目立つように見えるあの背表紙に一刻も早く背を向けたかった。
 踵を反して、扉に向かおうとする。
 そこで、肩が何かに引っかかった。
 誰かがちゃんと入れずに、中途半端に飛び出していた本だ。それが棚から滑り落ちる。
 ユキはとっさに手を出したが、捕まえることは出来なかった。
 本は、重力に従って落ちる。そしてユキの腕に当たった。
「痛っ…!」
 ユキは体を巡った痛みに、顔を歪ませる。
 本は薄い無線綴じだった。重さも、硬さもたいしたことはない。
 ただ当たった場所が悪かった。
 ユキは呻きながら、冬服で隠れた腕を見下ろす。
 服の下で疼いている痛みが、鎮まるのには時間がかかりそうだ。
 ユキは本を拾って、きちんと奥まで入れると、自分の鞄を担いだ。
 中には、あの赤い表紙の本が入っている。
 ユキは足早に図書室を出た。


 商店街の目の前まで来たところで気付いた。
 アーケードの入り口の脇に、見覚えのある集団がたむろしていた。
 道路の向こうに見えるその姿は、明らかに昨日の猪たち。
(気付かれる前に、違う道で行こう)
 そう思い、足早に別の道へ入る。
 だが、そう上手くはいかなかった。
「よう。昨日はどうも、白猫さんよ」
 少しはなれた路地に入ったところで、ユキは呼び止められた。
 気楽な風体を装って、猪が話しかけてくる。
 気付かれていた。ユキを見つけた猪たちは、その後を追ってきたのだ。
 そして、人気の無くなったところで捕らえた。
 その後ろの人数は、昨日よりかなり多い。
 ユキは震える足を叱咤して、なるべくしっかりと立った。
 痛みは…慣れている。問題ない。
 一瞬、アオイの顔が浮かんだが、頭を振って忘れた。
「学校に行く前に会えるとわな…!オオガミの野郎はいないみたいだが…まぁいいか」
「そう言うけど、実はホッとしてるんでしょ?」
「なに?」
 ユキは力をこめて、ぐっと手を握った。
 爪が手の平に食い込む痛みで、自分を律する。
 虚勢を張るのには、力が要った。
「オオガミ君が居なくて、ホッとしてるんでしょ?またやられなくて済むもんね」
「てめぇ…!」
 猪の手がユキに伸びる。
 胸倉を掴むのか、突き飛ばすのか。
 どちらでもいいか。
 そう思った瞬間だった。
「おー、こりゃまたいいタイミングだな」
 聞いたことのある声が耳に届いて、心が躍った。
「よう白いの。さっき振り」
「“白いの”って何さ…」
「いや、まだちゃんと自己紹介しあってねぇしな。いやー今朝は驚いた。完璧に年下だと思ってたし、同じ学校だとも知らなかった…」
 今日は始業式だった。春休みが終わり、中学三年生になり、新しいクラスが発表される日だ。
 そこで、ユキとアオイは同じクラスになったのだ。
「朝の時点で気付いてたんだけどな…話しかける前にお前さっさと帰っちまうし。でもまだ学ランってことは帰ってなかったのか?」
「う、うん。図書室にいたんだ…」
「あぁ、なるほど」
 そういうアオイは既に学生服ではなく、私服だった。
 アオイが自分に気付いていたのが、ユキは意外だった。
 目立たないようにしていたのに。この前、自分のことを覚えていなかったのに。同じ学校だともわからなかったのに。
「で、まだ何もされてねぇな?」
「う、うん」
「よし、セーフか。我ながらナイスだな」
「てめぇらこっち無視して何勝手に話してんだこらぁ!」
 猪がいきり立ったように鼻を鳴らした。
 アオイはジャンバーを脱ぐと、ユキに渡す。
「これ持って下がってろ、白いの。直ぐ終わらせてやる…!」
「だから“白いの“って…!」
「じゃあ後でちゃんと名前教えろよなっ!」
 そう言うと、アオイは先頭の猪に突っ込んでいった。