第二話 白舞う中

 息が上がっていた。
 普段は思い切り走ったりなんてしないから、胸が苦しいし、足が酷くだるい。
 ユキは口元を拭った。
 切れた唇から流れた血を拭おうと思ったのだが、傷口に触れてしまい痛みが走る。
 殴られたのは、この一発だけだ。後は、何か悪口を言われただけ。
 どうでもよかった。
 自分に向けられている視線が、棘のあるものだと気付いたら、どうでも良くなった。
 気にしたってしかたがない。自分はそういう存在なのだ。
「血か…?」
「うん…。でも大丈夫」
 横を歩いていた狼が、ユキの顔を覗き込んで顔をしかめる。
 そう言う狼の頬にも小さな痣が出来ていた。乱闘のさなか、かわしきれなかった攻撃で出来たものだろう。
 白猫の顔を見た狼は、痛そうに顔をしかめた。しかもおそらく、自らの痛みではなく白猫の顔に出来た傷が痛そうだから。
 ユキの白い体毛だと、血の赤はきっと目立つだろう。
 その瞳の色と同じように。
 いわゆる不良からユキはアオイに助け出された。
 自分では何も出来なかったあの場面で、救世主のごとく登場したのがこの狼だった。
いつかのことを思い出して、ユキは胸が暖かくなる。
「その…助けてくれて、ありがと」
 言葉が上手く出てこない。
 言葉を発することは、ユキにとって結構な恐怖だった。
 一つの言葉が、それだけで人を傷つける力を持っているのを知っている。
 傷つけられたくない。同時に、傷つけることもしたくない。
 でも、感謝の気持ちをキチンと伝えたかった。
 ありがとう、と、たった一言で伝わるものではないかもしれないが、それでも、言葉にしなければ伝わらないのも事実だ。
「別に。俺は何もしてねぇよ。結果的にこうなっただけだ」
 アオイの言葉にユキはキョトンとしてしまった。
 自分を助けようとしてくれたのは明らかだ。
 これは…照れ隠しというやつだろうか。自分に恩を着せないようにしてくれているんだろうか。
 なんとも素直じゃない。そして、優しい心。
「でも僕は助かったんだよ?本も…無事だったし」
 ユキは持っていた鞄をキュッと抱きしめた。
 この中には、さっきまで絶対絶命だった、あの赤い表紙の本が入っている。
「そんなに大事なのか?」
「うん。これがあったから、僕は生きてこれた」
「…ちょっと大袈裟じゃねぇか?」
「そうかも。でも、君みたいに素直じゃないより、マシだと思うな」
「…フン」
 そう言うと、狼は頬を描いて鼻を鳴らした。
 照れているのだろうか。
「自覚はあるんだね」
「余計なお世話だ…」
「ありがとう」
「…」
「ありがとう」
「…」
「どうもありがとうございました」
「……どういたしまして」
 諦めたように返事をすると、アオイは心底可笑しそうに笑った。
 ユキも自然と笑みが零れた。
 なぜだか小気味良く言葉が出てきた。自分でも意外なくらいに。
 そして、久しくこんな風に笑っていなかったことに気付いた。
「ったく、変な奴だな。さっきは、ビビッて何もしない奴だと思ってたら急に飛び掛っていくし。俺のこと怖がらねぇし」
 それにビビッてたわけじゃなかった。いつものことだと思っただけ。
 急に飛び掛かったのは、本が危ないと思ったら体が反射的に動いただけだ。
「だって君を怖がる理由がないじゃない」
「そう言ってもらえると、この顔にも自信が出るかな」
「あ、顔は怖いよ?」
「このっ」
 ぱしんとアオイに頭を叩かれる。
 こんな風にさらりと冗談が言えたのも久しぶりだ。

 少し遅れた3月の雪の中を
 小さな白い影と、背の高い黒い影が、並んで歩いていく。