第十八話 「成果と結果と」

「と、いうわけだ」
「あはは、アヤセさんらしいや」
 ユキに朝のやり取りのあらましを説明し、アオイは「笑い事じゃねぇよ」と苦笑いで答える。
「許さないって言われても、ホントになるようにしかならないってのに…」
「そうだねえ。で、なるようになった?」
「…自分じゃわからん。でも解答用紙をここまで埋められたのは初めてだな」
 テストは滞りなく終了した。
 全教科の試験を終えて、今は放課後。
 例の一件があるので、アオイの分だけは先に採点することになっており、今はその採点待ちの時間となってい
る。
 教室で待っているのも目立つので、アオイはユキと共に図書室の端の席で小さな声で話をしていた。
 その暇な時間を使って、アオイは今朝あった桃兎とのやりとりを話していたのだ。自分のせいではあるものの、
いささか理不尽な怒られ方をした愚痴でもあった。
「僕はアヤセさんほど心配してないんだけどなあ」
「ん?なんでだ?」
 ユキはにこりと笑って蒼い瞳を覗き込む。
「だって、オオガミ君ちゃんとやってたもん。僕はそれを見てる。この一週間の努力の結果は、絶対に出るよ」
 白猫は尻尾をくねらせながら、穏やかな顔でそう言った。
 そして、アオイは理解する。
 背もたれにぐっともたれ掛かりながら、アオイは頭をかいた。その口からは小さな笑い声が漏れる。
「ははは…!ホント、お前に頼んでよかったわ」
 アカギが目で脅して、もとい問いかけてきたときに笑って返せた理由が、わかった。
 テストを前にして、なるようになれと、自分の全力をぶつけることが出来た理由も。
 この笑顔で、わかったからだ。ユキが自分のことを信じてくれていることに。努力を認めてくれていることに。
 認めてくれる人がいるというのは、こんなにも心強いのだ。
「あれ、僕なにかしたっけ?」
「一週間も勉強見てくれといて何言ってんだよ」
 さりげない返答をしながら、アオイは自分の中の白猫の存在がより大きくなっているのを感じていた。
 支えられている。
 相手は無意識だろうが、白猫が自分の心の支えとして胸の中にいる。
 それを実感して、笑みがこぼれた。

――『三年生の大神碧さん。三年生の大神碧さん。先生がお呼びです。生徒指導室まで来てください。繰り返し
ます。三年生の…』――

 校内放送のスピーカーから流れる女性の声。おそらくは放送委員の女子生徒だろう。
「結果が出たみたいだね」
「そうみたいだな。さて、どう転ぶか…」
 二人は荷物をまとめ、放送で言われた通りに、生徒指導室へと向かった。
 生徒指導室のドアを開けると、そこではアカギと教頭が待ち構えていた。どうやらアカギも結果を知らないら
しく、どこか落ち着かない様子だ。
 それに反し、教頭のほうは何故か気味の悪い笑みを浮かべている。
 そのことが、アオイ側の面々にはひどく不吉に思える。
 教頭は同行してきたユキに一瞬訝しげな表所を浮かべた。ユキが停学理由である暴行事件の関係者だと言うこ
とを思い出したのか、すぐに笑みに戻った。
 ユキは教頭の笑みはあまり好きではない。いやらしい打算的なものを感じるからだ。だが、部屋に入れるのな
らそれもよしとした。
「さてオオガミ君。テストの採点が終わりました」
「はあ」
 それ以外に何があって呼び出したというのだろうか。
 教頭のもったいぶった言い方に呆れながらも、アオイは一応返事をする。
「では答案を返しましょう」
 そう言いながら教頭は数枚の用紙をアオイへと手渡した。
 アオイは一枚一枚と答案をめくり、点数を確認していく。その顔がだんだんと険しいものへと変わっていった。
「うそだろ…なんだこの点数…」
 呻くように零したその言葉に、ユキとアカギが固まる。
 二人はそっとアオイの脇から答案を覗き込んだ。
 理科72点。
 社会76点。
 英語80点。
 数学88点。
 そして国語にいたっては92点という高得点であった。
 ユキは結果が自分の予想とそう変わらないことを確認して安堵する。アオイは暗記物が苦手なのだが、読解力
に関してはなかなかの能力を持っている。また、数学のように論理だって計算することも得意なようだった。
 理系、文系と分けにくいが、学力そのものは低くないと見積もっていたのだ。
「自分で信じらんねぇや…」
「ええ。私にも信じられません」
 自分でもとったことのない点数に驚愕するアオイ。
 驚くアオイを見ながら、教頭は顎を撫でながら、舐めるような声で同意した。だが、小さくため息をつくと、
その眼を光らせてこう言った。
「残念ですよ、君がカンニングに手を染めるとは」
「「「なっ…!」」」
 驚いた三人の声が重なった。
 教頭からの思いがけない台詞に、目が険しくなる。
「それとも事前に問題を入手でもしていたのかな?」
「そんなこと…!」
 するわけがない、とアオイが声を荒げる前に教頭は手の平を向けてそれを制す。
「今迄の成績からして、君がこの点数を取るのは信じられないんだよ。誠に遺憾ながら、君がカンニングをした
と言わざるを得ない。それに、テスト中に君が変なところに視線を置いていたり、キョロキョロしていたと教え
てくれた子もいてね」
 三人とも再び言葉に詰まった。
 ユキは見ていた。アオイが一心不乱に問題用紙に向き合っていた様子を。
 時折、頭をガリガリとかきながら、必死に問いを解き、真面目にテストを受けていたことを。
 にもかかわらず、アオイがカンニングした姿を見たという人物がいる。それはユキからしてみれば、有り得な
い。
 だが、ひとつ。心当たりが浮かんでしまった。
(もしかして…)
 自分のその考えに、ユキは首を振る。あまり好ましくない考えだ。
 それよりも。
(今、この誤解をどう解くかが先決だよね…)
 ユキは頭をフル稼働させて、アオイの誤解を解く方法を探す。
 教頭のいやらしい笑みと、蛍光灯の明かりでテカる頭が、ひどく癪にさわった。
 普段ユキは、あまり人に対して嫌悪の感情は抱かない。
 だがそれは、本人も気づいていないが、自分に対して何かをしてきた相手には、である。
 自分に対する悪意も害もさして気にはならない。だが、目の前で、大切な友人を弄ぶ人間に対し、珍しく嫌悪
している。
 アオイの向上心も、努力も、認めようとしていない今の相手に、嫌悪している。
「待ってくれよ!俺はカンニングなんてしてねぇ!」
「まあカンニングをしていても同じことを言うだろうね」
 教頭が笑いながらため息をついた。アオイの主張はまったく相手にされない。
 教頭にしてみれば、アオイは自分の学校の問題児であり、それを擁護するアカギもあまり好いていない。
 アカギの顔に泥を塗り、問題児を大会という表舞台に出さずにすむ。
 彼にしてみれば一石二鳥であり、アオイの主張など端から聞く気がない。
「証拠はあるのでしょうか」
 普段より幾分低い声で、だが感情を押し殺した抑揚のない声で、アカギが問う。
「それは…物的証拠はありませんね」
「だったら…!」
 以外にも証拠がないことを認めた教頭に、アカギが食いかかろうとする。だが彼の笑みはまだ、消えていない。
「ですが、過去の成績からのあまりにも不自然な上昇という状況証拠と、なにより不振な行動の目撃者がいます。
本人の希望で名前は明かせませんがね。疑わしきは罰せよ、とまでは言いませんが、今回の場合そう判断せざる
を得ない材料が多いですから」
 にやり、と笑う。さもアオイとアカギの両者を苦しめるのが楽しいといわんばかりの笑みだ。
 そして彼の思惑通り、二人は良い切り返しが出てこず、毒水でも飲んだような顔をしている。
(珍しくあんだけ頑張って、シラネにも迷惑かけて、せっかく結果が出せたと思ったのに、結局これかよ…!!)
 憤りが隠せず、アオイの眉間には深いしわが刻まれている。
 上履きの中では力を入れすぎて足の指が赤くなっていた。
 自分に冤罪が着せられていることよりも、アオイは、手伝ってくれたユキや、手間をかけたアカギ、大会に出
場できないことで迷惑をかけることになる陸上部のメンバーへの、申し訳なさから顔をしかめる。
 こんなことなら初めからテストを頑張っておけばよかった。普段から勉強をしておけばよかった。今回に限っ
て大会への出場にテストの点が絡んでくるとは思わなかった。
 今更たらればの話をしても仕方がないが、アオイの中にはそんな後悔の念が渦巻いていた。
「ちょっと待ってください」
 腕を組んで怖い顔をしていたアカギの隣から、白猫が発言する。
 誰も予想してなかったのだろう。目を丸くした皆の視線がユキに集まった。
「オオガミ君、鞄、貸してくれない?」
「あ、あぁ…」
 ユキはアオイから学生鞄を受け取ると、蓋を開けて逆さにし、中身を机の上に広げて見せた。
 鞄から出てきたのは、数冊の問題集だった。全科目分がある。すべて淵が多少なりともよれていて、使用済み
であることがわかる。
 実際にユキが一冊を取って広げてみせると、中の問題はすべて書き込みがしてある。赤ペンでされた丸付けと、
回答と解説から間違えた問題をやり直したあとが伺える。パラパラとめくって見せると、それはほとんどのペー
ジに行われていた。
「これは、この一週間でオオガミ君が解いた問題集です。すべての冊子の殆どをやり終えています」
 ユキは手に取った一冊を教頭に渡す。ページを捲る教頭の顔つきが、少しだけ変わった。
「最後の方にある模擬試験のページを見てもらえば、オオガミ君の実力がわかるはずです。彼は努力の結果、カ
ンニングする必要のない学力を身につけました」
 教頭がページを捲ると、確かに模擬試験のページも存在しており、その解答は殆どが丸の印がついていた。
「そんな彼が、果たしてカンニングなんて行為をするでしょうか。この一週間の自宅謹慎中、彼はこのテストに
備えてきました。その努力をドブに捨てるような真似を、どうしてするんでしょう」
「だがね、この問題集を彼が解いたとい証拠はないじゃないかシラネ君。回答を見ながら書き込みをしたかもし
れんし、彼をかばうために君が解いた可能性だってある。現に鞄に問題集が入っていることを君は知っていたし
ね」
 ユキの淡々とした反撃にも、教頭は屈しない。それらしい反論だし、一応筋は通っている。
「わかりました。オオガミ君がちゃんと実力でこの点数が取れることを証明すれば、カンニングしてしていない
と信じて貰えますか?」
「まあ…もし実力があるのなら、ね」
「わかりました」
 ユキは生徒指導質と職員室を直接つないでいるドアを開け、職員室へ入る。
「あ、すいません犬伏(いぬぶし)先生!ちょっといいですか?」
 ユキは開いたドアの脇にあるコーヒーメーカーへ飲み物を取りに来ていた小柄な柴犬へ声をかけた。
「おやシラネ。どうしたんだいそんなとこから」
 小柄な黒い柴犬は、注ぎかけのコーヒーを手にきょとんと聞き返す。
「ちょっと手伝ってほしいことが…」
「かまわないよ。今ちょうど休憩しようとしてたところだしね」
 イヌブシはユキに連れられて生徒指導室へと入っていく。中にいた面子にちょっと驚いていた。
「先生、なにか問題を出して貰ってもいいですか?出来れば今回のテストの範囲内のやつを」
 ユキにそう頼まれた柴犬は、状況が掴めないながらも「かまわないよ」と言って部屋に備え付けてある黒板に
図と問題文を書き込んだ。この柴犬は犬伏楽(いぬぶしらく)。アオイたちの通う東中学校の数学主任である。小
柄な体格と温和な人柄で、本人の知らぬところで、一部の女子生徒から人気を得ている。可愛いと。
「できたよ」
 問題を書き終えると、柴犬はユキに問いかける。状況が掴めていない彼には、これからどうなるのかわからな
い。
「ありがとうございます。じゃあ、オオガミ君解いてみて?」
 ポカンと成り行きを見ていた黒狼ににこりと笑いかけると、ユキは黒板の問題を指し示した。
「い…今かよっ!」
「今。naw。as fast as possible。大丈夫、解けるから。……見せ付けてやって」
「わ、わかった…」
 ユキは最後の一言をアオイにしか聞こえない大きさで呟いた。見せ付けてやればいい。君の努力の成果を。
 誰にも侮辱することなど許さない。彼の努力は本物だ。
 ユキの心の中には、静かに炎が揺らめいていた。
 促されたアオイは、黒板に書かれた問題の前に立ち、大きく息を吐いてからチョークを持つ。
「おいおい、オオガミが解くのかい?シラネが解くもんだと思って結構難しい問題を出しちゃったんだけどな」
 柴犬の台詞にアカギの肩がぴくりと反応する。柴犬を一瞬睨み付けたが、彼に罪はないと思い出したのか、問
題を解くアオイに視線を戻した。対する教頭は、無い髪を頭に撫で付けながら相変わらず笑みを浮かべている。
 ユキは殆ど無表情で、アオイの背中を見ていた。
(えーと…ここの式がこっちに代入されっから、これがこうなって…)
 思ったよりも平常心で問題に取り掛かれている。それがアオイ自身、不思議だった。
 だいぶわかり難い問題だったが、筋道はすぐに見えた。ユキが覚えさせてくれた公式が、頭に浮かんでくる。
「…できた」
 式を書き終わり、答えを導いたアオイは自然とそう呟いた。
 その言葉に、イヌブシを除いた三人がアオイを見つめる。
「イヌブシ先生、答えのほうはどうですか」
「あ、はい」
 教頭の言葉に、アオイは体をどけて先生に黒板を見えるようにする。
 下線を引かれて強調された回答を見て、イヌブシは「ほぅ…」と声をもらす。
「合ってます。正解ですよ」
 アカギが「おお…!」と小さく歓声を上げ、教頭は肩眉を吊り上げた。
「本当ですか?」
「ええ。解き方も途中式もちゃんとしてますし、それにここの式を省略して当てはめてるのなんか、公式を理解
してなくちゃ出来ませんよ。はー、知らなかったな。オオガミがこんなに数学得意だったなんて」
 素直にアオイが問題を解いたことに感心し、賞賛するイヌブシ。
 アカギが、もっと言え!もっと言え!と心で叫んでいるのが表情でわかる。
 眉を片側だけ吊り上げたまま、苦い顔になっている教頭に、ユキは向き直った。
「ご覧の通り。オオガミ君は先生が難しいと言った問題も、解けるだけの実力を持っています。以前の成績と違
うのは、その間に彼が頑張って勉強したからです。カンニングなんて、する必要ないんです」
 ユキの言葉に本題を思い出したのか、アカギは小さく咳払いをしてから口を開いた。
「教頭。彼の努力を認めてあげていただけないでしょうか。部活動でもそうですが、生徒の努力を認めてあげる
ことも教師の重要な役割でしょう。教頭ほどの方ならそれはお分かりのはずです」
「ふむ…」
 教頭は困ったように頭を撫で付ける。そして小さく息を吐くと、あるかなしかの笑みを浮かべた。先ほどまで
とは違う、諦めたような笑みだった。
「オオガミ君。確かに君が努力してきたことは認めよう。素晴らしい成長振りだ。だが…」
 教頭はアオイから白猫に視線を移す。
「これがカンニングをしていないという証拠にはならない」
 やはりそうきたか。ユキは教頭の言葉にうなずく。
「でも、カンニングをしたという証拠も、不振な行動を見たという証言があるだけですよね。つまり見間違いの
可能性もある。そして、たった今カンニングしなくても、彼がこの点数を取れることがわかりました」
「その通りだね」
 再びアオイに視線を戻し、教頭は困ったような顔で続ける。
「さて、現状では不確定なことが多すぎて判断が下しにくいようだ。どうしたものか」
「教頭先生」
 アオイは居住まいを正し、教頭に向き直った。
「俺…今まで勉強なんてしてこなかった。それは先生たちにしてみれば、頭の痛いことだったんだと思う。でも、
陸上には本気になれた。陸上のためだから、苦手なものも頑張れた。仲間も出来た。その結果として、去年は大
会にも出ることが出来ました」
 そこで一度区切り、黒狼は深く頭を下げる。
「再テストでもなんでもします。だから…頼みます…!俺から陸上を取り上げないでくれ…!世話になった色ん
な人のためにも、俺、大会に出て走りたい…!」
 いつも強気な黒狼の謙虚な姿勢、そして慎ましやかな願い。胸のうちを吐露したアオイに、その場にいる全員
が胸で何かが動くのを感じていた。
 黒狼の姿勢に、教頭が何か言おうとしたときだった。
 生徒指導室のドアがノックされる。
「すいませーん」
「悪いが今取り込み中だ。職員室に言づてしてあとで…」
「あ、アカギ先生だ。やっぱりここみたいね」
「取り込み中申し訳ありませんが、失礼します」
 音を立てて開いたドアの外には、おかしなことに黒い壁が。
 いや、壁ではなく、黒い学ランに身を包んだ大熊が。
 その脇から、ひょこっと兎が顔を出す。
「クマイ…アヤセ…お前らなんで」
 ドアを開いたのは、陸上部の部長とマネージャーであった。
「ちょっと、援護しにね。ほら、入んなさいよ」
 アヤセに促され、大熊の影から出てきたのは、黒髪の人間の少年だった。
「ミドリカワ君…」
 部屋に押し出された人間の少年と、押し出した二人の顔を見て、ユキは先ほど振り払った自分の考えが正しか
ったことを確信した。
「どうしたというんだい、いったい…」
 教頭が不思議そうな顔でミドリカワを見つめている。
「私たち、聞いたんです」
 兎がミドリカワを指差しながら、棘のある口調で言った。
「こいつが、オオガミがカンニングしたってチクッたことを」
「そして、それが嘘だってことも」
 大熊が兎の続きを補って答えた。
 指差された本人は、チッと大きく舌打ちをして、床を見ている。
 教師たちと黒狼が目を丸くしている中で、白猫は問題が解決していく流れが見えたことで、ほっと胸をなでお
ろした。


「ぐっはー!問題解決!やっと一息つける!」
 校門を出たところで、アオイは大きく伸びをした。
 その後ろには、大熊と桃兎と白猫という、先ほど指導室にいた面々が続いている。
「お疲れ様。これでやっと部活が出来るね」
「おうよ!」
 白猫からの明るい未来の話に、アオイは元気よく返事をする。
「そもそもオオガミが赤点量産してなければこんなことになっらなかったんだけどね」
「それを言うな」
 だが、大熊のさりげない突っ込みに、ぎくりと顔をしかめる。
「っていうか周りに迷惑かけすぎなのよあんたは」
「め、面目ない…」
 そして桃兎にとどめをさされる形で、普段の行動から指摘されてしまった。
 三人から、いや主に陸上部の二人から苦言を呈され二の句が告げない狼である。さっきまで開放感から左右に
大きく揺れていた長い尾は、いまや力なく垂れている。
「…っていうかさ!お前らホントにいいタイミングで現われたよな!」
 半ば強引に話をすりかえる狼。これ以上小言を言われたのではたまらない。
 アオイが言ったことはユキも疑問に思っていたのか、一緒に振り返る。救世主のごとく、ミドリカワを伴って
やってきた二人を見つめる。
 大熊と桃兎は、互いに目を合わせ、お互いに方をすくめた。
 無理やり話題を変えられたことには頓着せずに、何があったのかを説明してくれるようだ。
「それがね?たまたま二人で歩いてるときにね、空き教室から会話が聞こえてきたのよ」
「たまたまって言うか、アヤセからオオガミのテストの話を聞いて、気になって待ってたんだけどね。おっと…」
 兎から「余計なことを言うな!」とでも言わんばかりの眼光をもらい、クマイは口に手を当てて、目線を泳が
せる。
 目は口ほどに物を言うというが、この兎はそれを体現しているようだ。
「それで、聞こえてきた内容が『オオガミの奴をはめてやった』とか、『ざまあみろ』みたいなことだったわけ
よ」
 声が聞こえたときにはもう、兎はその教室のドアに手をかけていたという。
「オレは止めようとしたんだけどね…。まあ勢いよくドアを開けたわけさ」
 クマイはそこで説明を止めたが、アヤセはそのときの光景を思い出す。
 自分が勇んで踏み込んだのは本当だ。
 だが、ここでのやりとりには続きがある。
 教室の中にいたのは、ミドリカワ一人。そして手に持っていたのは黒い携帯電話。
 開いたドアから入ってきた兎を見るなり、ミドリカワは目を丸くし、ぎょっとした表情になった。
 それだけで、アヤセは確信した。
 後から教室に入ったクマイの表情も、厳しいものに変わる。
「わりぃ、問題発生だわ。またかけなおす」
 そう断ってミドリカワは携帯を閉じた。肩をすくて、諦めたような表情を二人に向けた。
「あーらら。ゲームオーバーってやつかね」
 おちょくる様な口調にアヤセが一歩足を踏み出すが、クマイの手が肩にかかり動きを止めた。
「悪いけど、一緒に生徒指導室まで来て貰うよ?」
 静かに、だがハッキリと、クマイはミドリカワに同行願う旨を告げる。
「なんで俺がお前の言うこと聞かなきゃなんねーんだよ」
 決まり文句ではあるが、当然ミドリカワはそれを拒否した。
「そうだね」
 大きな熊はその巨体を滑らせるように移動し、机に腰掛けていたミドリカワの傍らに立つ。
 机に座っているとはいえ、元から身長差があるのでクマイが見下ろす形になった。
「大事な友達がなにかされてるってわかったからね。なにがなんでも来てもらう」
「はっ!喧嘩もしたことねぇ図体だけのデカブツが、どうしようってんだ!」
 机に腰掛けたまま、ミドリカワは足を器用に使いイスを蹴りあげた。イスは勢いをつけクマイの顔に迫る。
「そうだね」
 威勢よく声を荒げたミドリカワに対し、クマイは静かな口調は崩さないまま、左手でキャッチボールの球でも
受け取る様にイスを掴み止めた。
 大柄な熊が見せた機敏で繊細な動きに、ミドリカワの目が見開かれる。
 直ぐ脇に立ち、自分を見下ろしてくる熊の印象が、普段と違うことに彼は気づけていない。
 苛立ったように目線をぶつけながら、ミドリカワは強気な姿勢を崩さない。
「なにする気だよ、クソデブ」
「こっちの台詞だ。オオガミに何するつもりだい」
 はらんだ怒気は隠せていない、唸る様に響く声に、ミドリカワの体が震えた。
「説明してもらおうか。しかるべきところで」
 有無を言わせない口調と目線。
「だからなんで俺がいかなきゃいけねーんだよ」
「オオガミのいわれのない罪を払拭するためさ」
「いわれのなぃ〜?」
 可笑しそうに歯を見せながら、ミドリカワは笑った。
「ホントにそうかよ?だったらなんでみんなして俺の言ったこと信じるんだよ。あいつが本当に悪いやつじゃな
いなら、カンニングの罪なんてそもそもかぶんねぇだろ?」
 クマイは左手をパッと開き、掴んでいた椅子を離した。重力にしたがって落ちた椅子は、床とぶつかって大き
な音を立てる。その音にミドリカワがビクリとすくんだ。
「自分、ええかげんにせぇよ?」
 ドスの効いた低い声。
 先ほどまでとは違う、普段の落ち着いたクマイからは想像出来ない表情。
 
 憤怒。

 温和なこの大きな熊は、今その薄皮を剥いたように怒りの表情を露わにした。
「あいつは確かに素行はよくあらへん。サボるわ、イタズラするわ、しめーにゃ喧嘩もするんは確かや」
 ミドリカワの胸ぐらをぐいと掴み、片腕で持ち上げる。
 体格差こそあるものの、人ひとりを片腕で持ち上げてしまう中学生がいるだろうか。砲丸投げで鍛えられた腕
の筋肉が締り、自分の目線まで相手を持ち上げる。ついにミドリカワの足が浮いた。
「せやけど、あのアホはズルだけはせーへんのや…よう覚えとき」
 鋭い目線と共に、突き刺すように言葉を投げる。
 襟元を締められたミドリカワは、苦しそうにヒューヒューと息を漏らす。
「クマイ!」
 横からの声に反応し、弾かれたように熊は手を離す。
 支えを失って、ミドリカワは床に文字通り尻餅をついた。
 声をかけたのはアヤセである。成り行きを見守っていたアヤセは、クマイが手を出したことで歯止めをかけた。
しかし、実際にこの熊が手を出すとは思ってなかったので、反応が遅れたのである。
「悪い、マネージャー。助かった」
 語気も抑えられ、先程までの迫力はどこへ行ったのか。苦笑いを浮かべた熊は、もう陸上部部長の温和な熊で
あった。しかし、改めてミドリカワに向けられた視線は冷たい。
「文句は言わせない。一緒に来てもらう」
 有無を言わさぬその言葉に、ミドリカワは従わざるを得なかった。
 二人は、一人を伴って生徒指導室へ向かう。アオイがいるのが生徒指導室なのは、先ほどの呼び出しでわかっ
ていたので場所は迷わずに済んだ。
 そして部屋に入るなり、ミドリカワを大熊の鋭い視線が促し、彼は白状したのだ。アオイのカンニングは自分
の勘違いだったかも知れないと。
 アヤセはその説明では納得しなかったが、それ以上つついても、ミドリカワは喋らなかった。自らの否を認め
ることはしなかった。しかし、少なくともアオイの罪については見直される。ひとまずは、それで十分だとクマ
イは判断した。
(あの雰囲気のクマイ、久々に見たなぁ…)
 夕日に照らされた大きな影を見つめながら、アヤセは思う。
 今となっては落ち着いたこの巨大な熊だが、数年前まではそうでもなかった。
 小学校の頃の出会いが、クマイを変えたのだとアヤセは思っている。
 並んで話している熊と狼を見ながら、アヤセは小さく息を吐いた。あの頃から、この2つの背中をよく見てい
た気がする。二つとも今より幾分小さかったが。
 出会ったあの頃とは変わった。皆も。そして自分も。体も。心も。成長し、そして変化していく。時間という
のはそういうものだ。
「なんにせよ、オオガミがあんな点数取れるとは思ってなかったよ」
「ひでーなおい。俺だって本気出せばこんなもんよ」
「だったらいつも本気で取り組んでもらいたいわね。陸上部の赤点王さん」
 会話に混じりつつ、アヤセは二人の間にひょいと体を割り込ませた。
 今考えることではない。この楽しいひと時をもっと楽しく過ごすことを考えた方が、効率的だと思って。
「なーんで今回に限って頑張れたのかしらねぇ」
 意味深げな笑みを浮かべて、アヤセはアオイの向こうへ目をやる。
「そりゃあ、影の功労者がいたからじゃないかなぁ」
 同調しながら、クマイも自分からは一番離れた位置にいる人物を見やる。
 アオイも釣られて振り向く。アオイだけ若干顔が赤い。
 全員の視線を集めた白猫は「え、ぼく?」と言いたげにきょとんとしていた。
「確かに僕も手伝ったけど、頑張ったのはオオガミ君だよ」
 手を顔の前で左右に振りながら、ユキは謙遜して苦笑いを浮かべた。
 しかし…
「ちょっとやそっとの手伝いでこいつが勉強頑張れるわけないじゃない」
「ちょっとやそっとの手伝いでこいつが勉強頑張れるわけないだろう」
 間髪いれずに二人に反論されてしまい、苦笑いをより歪めてしまうのだった。
「よく頑張ったねシラネ君。本当にお疲れ様」
「本当よね!並大抵の努力じゃなかったでしょ。お疲れ様!」
「え、いや…あ、ありがとう…?」
 言葉の相手が違う気がする。頑張ったのはたしかに頑張ったのだが、何が目的だったかを考えると賛辞の言葉
は多分自分に向けられるんじゃなくてテストを受けた本人に言ってあげるべきじゃないのか、とユキは思ったも
ののとりあえず相槌を打つ。
「…うおいっ!」
 自分の目の前を素通りしていく言葉と視線に、遂にアオイが食いついた。
 しばらく黙って見ていたのだが、流石にないがしろにされすぎな気がした。
「いやあ本当に、どうやって教えたんだい?なんか餌とかぶら下げてたの?」
「それとも脅し?アカギ先生より効果的な脅しがあるとは考えにくいんだけど…」
 無視である。完全な無視である。
 熊と兎はれぞれに勝手なことを言いながら、ユキに笑いかける。
「……ひでぇ」
 渾身の突っ込みすらもスルーされて、思わず消沈するアオイ。その背でバチンと乾いた音が鳴った。
「いってぇ!!」
「しょぼくれるのが早い!なによちょっと遊ばれたくらいで!」
「いてぇよ!手加減しろよ!あと普通にスルーされたら傷つくだろ普通っ!」
「なに甘っちょろいこと言ってるのよ!っていうか、あんたが頑張るのは当たり前なんだからね!」
「確かに。元を正せば誰かさんが停学にならなきゃよかったんだからね」
 押し黙るアオイ。なにせ停学の事実は事実なので言い返せない。
 だがその一言に反応したのは、どちらかと言えばユキの方だった。尻尾をピクリと動かし、一瞬体が固まる。
アオイが停学になった理由、つまり乱闘騒ぎの原因を考えて。
「…あの」
「あーはいはい!悪うございました!!頑張って当然でございました!自分のケツってのは自分で拭くもので
した!」
 発言しようとしたユキに被る形で、アオイが叫んだ。
「わかればよろしい!でも、ケツって…あんた下品よ」
「突っ込みどころそこかよ」
 一同は笑いに包まれる。だが笑みを作ってはいても心からユキは笑えなかった。
 夕焼けが眩しい。四人から伸びた影が、道に長く長く延びていた。
 分かれ道に差し掛かるまで、一行は話をしながら歩く。
 片や停学も、テストに向けた重圧も消えた、解放感を感じながら。
 片や友人が無事に試練を突破して、何事もなく済んだことに安心しながら。
 片や安心しながらも、表情には出さぬように胸にもやを抱えながら。
 夕日も沈み、町に街灯が灯りはじめた。
 アヤセとクマイの二人はここで帰路が別れる。立ち止まり、挨拶を交わした後に手をあげて別れた。
 手をあげて見送るアオイを、道を少し行った所でアヤセが振り返る。
「別に、努力を認めてないわけじゃないからねー!」
 驚いているアオイを面白そうに、アヤセは歯を見せて笑った。
「オオガミー!ちゃんと一緒に大会出れそうで良かったよ!また部活でな!」
 アヤセにならって、振り返りながら声を張るクマイ。
 二人はそのまま街灯の明りの届かぬ所へと離れていった。
「ったく、あいつら初めからそう言ってくれてりゃいいものを」
「あの二人なりの励ましだったんじゃない?」
「そーだとしてもよー」
 歩き出したアオイに、ユキはトトトッと駆けよる。
 街灯に照らされた黒い狼は、不貞腐れながらも、少し機嫌が良いように見えた。
 ユキは肩にかけていた学生鞄をギュッと抱きしめながら、そっと口を開く。
「あの…オオガミ君。ごめんね?」
「あん?なにが……ああいや別にお前が頑張ってくれたのは本当だから、さっきのあいつらの言ったことなら気
にしてねぇよ?半分くらいギャグだったし。半分くらいはマジだったけどな絶対」
 ニシシッと笑うアオイに、ユキは笑いながらも「ううん、そうじゃなくて」と言いづらそうに続ける。
「なんか今更だけど、改めてね…。僕のせいで停学になったようなものだったから…」
「またそれか?」
 ガリガリと頭を掻きながら、アオイは口の中だけで「めんどくせぇ奴だなぁホント」と零した。
「言っただろ?あれは俺が喧嘩したかったからしただけだって。お前が責任感じる必要ないんだって」
「そうだけど…でも…」
 本当に面倒な奴だ。こちらがいいと言っているのだから、それで納得してしまえば良いのに。それをしないの
だ。この白猫は。
 一つひとつをないがしろにせず、自分のなかで考える。消化する。出来ないものは、貯め込む。
 その面倒なプロセスを律儀に踏んでいるから、ちょっとしたことで悩む。負い目を感じる。
 しかし、「面倒だ」という言葉とは裏腹に、アオイはユキのこういった面を好ましくも感じていた。
 悩むことが、大切なことなのは分かっているつもりだ。それを愚直に行っているこの白猫は、純粋で、優しく
て、思慮深く、他人思いなのだと感じる。
 しかしそのせいで自分を責め、辛そうな顔をする。そこだけがいただけない。見たくない。
 そしてなによりも、他人行儀に気を使われている気になる。落ち着かない。
 面倒だ。
 その気遣いという名の壁が邪魔だと思う。
 自分との間にそんなもの作らないで欲しいと思う。
 世話になった。それだけじゃない。自分の中でこの白猫の存在は、壁の向こうにいてほしいものではなくなっ
ているのだ。
 初めからかもしれない。そんな遠い所にいてほしくない。
 もっと近くに。隣に。
 居てほしい。
 ああやっぱりなあ。と、アオイは再び自覚する。
「だから、オオガミ君ってば…」
「アオイだ」
「え?」
 前を向いたまま、アオイは意を決して告げる。前々から考えてはいた台詞を。
「いつまでも他人行儀はやめ!名前で呼べよ」
「え…いやいきなり…」
「いきなりでもないだろ?俺も名前で呼ぶからよ、ユキ」
 アオイは自分でも照れているのが解った。顔が火照っている。
 空をいく赤く染まった雲が、すごい速さで流れていく気がした。
「ボク、あんまり人を下の名前で読んだことないんだけど…」
「…んで?」
 それが名前で呼んでくれない理由にはならないぞ、という顔でアオイがユキを覗き込む。ユキは目をぱちくり
とさせて、その青い瞳を見つめた。
「だから、慣れてないというか、恥ずかしいというか…」
「じゃあ慣れればいい。それに恥ずかしいのは俺もだ」
 フンと鼻を鳴らして言い切る黒狼。譲る気は一切ないらしい。
「とりあえず一回呼んでみ?ほれ!……それとも俺の名前忘れちまったか?」
 耳を倒して問う狼に、ユキは「覚えてるけど…」と零す。それを耳にした狼は歯を見せて笑った。
「そしたらほれ、言ってみ?」
 勢いに押されるまま、ユキは口を開く。
「…アオイ…君」
「君付けなし!」
「あ、アオイ…!」
 言い直して少し大きくなった声にユキは自分で驚いた。人の名前をこんなハッキリと叫んだことがあっただろ
うか。
 しかし名前を呼ばれた本人はユキから目線を外して、動かなかった。目は地面を見つめている。
 何事かと自分も目線を地面にやったユキは、そのとがった耳になにかの物音を捕らえた。ふぁさ、ふぁさ、と
いうように、箒状のものが揺れているような音だった。
 音の出所を探して顔を上げると、アオイの後ろで、黒いものが揺れていた。それはもう、はちきれんばかりに。
そのうちに左右に揺れているのが、一蹴してぶんぶん円を描きそうなほどに。
(あれって……尻尾?)
 ユキがその正体に気づくと、アオイはハッとして自分の後ろに手を回して尻尾を押さえにかかる。だがアオイ
の意思とは裏腹に、尻尾は手で押さえられてもなお、その勢いを失わなかった。
「こ、これは、あのそのこのいやその別にだな…!」
 ユキを正面に見て尻尾を隠そうとするアオイ。だがそうするとユキの視線をしっかりと正面で受け止めてしま
い、尻尾の暴れ具合に拍車がかかる。
(くそ…名前を呼ばれただけでこんな…!!)
 想像以上の破壊力。そして爆発力。
 さらに言うなら、想像以上の自分の防御力のなさ、耐久力のなさにアオイは舌を巻く。
 さっきよりさらに顔が赤くなってるのが自分でもわかる。自分の意志と関係なしに揺れる尻尾をどうしたらい
いかわからない。必死に両の手で押さえてはいるものの、根元を押えれば先が揺れ、先を押えれば根元が揺れる。
両手で先と根元の両方を抑えようとすると、尻尾が攣りそうになる。
(でも、案外簡単に呼んでくれたな…)
 若干強引に提案はしてみたものの、実際のところ名前で呼んでくれるかどうか自信はなかった。
 今回は駄目でも、自分が名前で呼び続けることで、そのうち呼んでくれるようになるだろう、くらいのつもり
に思っていた。
(自分で吹っかけといて、若干の不意打ちだぜちくしょう)
 アオイは小さく深呼吸をして息を整える。
「あの…オオガミ君、大丈夫?」
「だいっ大丈夫!あと名字禁止!」
 心配してくれるのは嬉しいが、それでせっかくかなった名前呼びが無になってしまうのはいただけない。
 この黒狼、そのあたりはしっかりしている。
 そーっと両手を尻尾から離し、どうにか落ち着いたことを確認すると「よし、ほら帰るぞ!」とアオイは歩を
進める。
「あ、ちょっと待ってオ……アオイ!」
 途中で気づき呼び方を直すと、アオイは歯を見せて笑った。
 わかれ道に差し掛かり、黒狼は軽く手を振りながら「またな、ユキ」と笑う。わざわざ名前を呼んでいるよう
な気がして、ユキは少し微笑む。
「うん。バイバイ、アオイ」
 別れの言葉に名前をつけて返す。アオイは眉尻を下げて目を細めた。
 角を曲がるまでアオイは何度か振り返りながら手を振った。
 嬉しそうに、そして名残惜しそうに何度も振り返る姿に苦笑しながら、ユキも何度も手を振った。
 アオイの姿が見えなくなってから、ユキは上げていた手をそっと胸に当てる。
(困ったなぁ…)
 どうして、こうなったのだろう。
 後悔はしていない。でも、困ってはいる。
 胸にあてた手の、腕の内側を逆の手で押し込む。鈍い痛みが広がった。
 思い出せ。
 そうやって痛みで、喜びに隠された自分の覚悟を呼び起こす。
 より近付けた喜び。近づいてしまった焦り。
 本当は、もっと遠くから眺めているつもりだった。こうして名前で呼び合うことなどなかったはずだった。
 どこを境にか、いつしかこうして笑い合っていた。
 あの狼の笑顔につられて、こちらにも笑みが浮かぶ。そんな状況が、心地よくてしかたない。
 甘えたい。そのまどろみに掴まっていたい。
 強引に引っ張られていく感覚がこそばゆくて、ずっと浸っていたくなる。
 だが反対に、それではいけないと自傷する感情が頭をたたく。
 自分に、そんな価値はないのだと。
(でも、これくらい…いいよね)
 ユキは天を仰ぐ。何かに言い訳するようなセリフを胸中で呟きながら。
 夕焼けに染まっていた空は、いつの間にか赤みが薄れ、紫がかった色で雲を飾っている。
 雲の切れ間にはちらほらと星が見え始めていた。
 ユキは昔のことを思い出す。
 あのときは雪が降っていたけれど、帰り道の空はこうして星が見えていた。

(ああ…どうしてこうも…)
 ユキと別れた後、アオイは電柱にもたれかかりながら目を閉じていた。
 耳に残る白猫の声がまた胸をくすぐっている。
 電灯の明かりが届かないところが段々と見えなくなっていく。逆に電灯のオレンジ色の光が、眼に痛い。
(自覚はしてたつもりだった。でも覚悟がなかったんだ)
 認めたくなかった。
 自分は異端児だ。喧嘩もするし、成績も悪いし、敬語も苦手だし、獣人であり、数の少ない狼だ。
 それでも、いずれ本で読んだような、テレビで見るような、世間一般でいう普通の当たり障りのない人生を送
って行くんだろうと思っていた。
 鞄を胸に抱き直し、アオイはずるずると電柱の下に座り込んだ。
 その大きな体に似合わない、こじんまりとした体育座りで。
 見上げると、電灯越しに暗い空が広がっていた。星がちらつき始めている。
 冬は過ぎ去り、春になって気温は上がったものの、まだまだ肌寒い。首筋をなでる風が、身を縮ませる。
 アオイは小さく息を吐いて、抱いた鞄に顔をうずめた。
「ユキ…」
 先ほど呼んだ名前を、もう一度小さく呼ぶ。
 この名前が呪のように胸をつかむのだ。もう自分の中で避けられない大きさになってしまった。
 だがこれを認めたら、今まで描いていたなんとなくの人生ではなくなるだろう。それはどことなく怖いことで
あったが、決して嫌だとは思わなかった。
 ああもう、駄目だ。
 諦めようと、思った。