第十七話 

 教室のドアを開けるのが、ちょっと久しぶりでなんとなく戸惑う。
 ドアの向こうではガヤガヤとした話声がはっきりと聞こえ、以前と変わらぬ喧騒がそこにはあった。
「さてと…」
 ドアの前で一度息を吸ってから、アオイは取手に手をかけた。ドアを開けた後の、皆からの視線を覚悟して。
 今日はやけに鞄が重く感じる。
 もしかしたら自分の気が落ち込んでいるせいかもしれないと思うと、なんだか情けなくなった。
 もう二年も前になる。以前の停学のときもそうだった。
 停学するということ自体が、その対象なのだろう。
 怯えているような、蔑むような視線がしばらくの間続いて、居心地が悪かったのをよく覚えている。
 停学するようなことをやらかした。おそらくは暴力沙汰だということも広がっているだろう。その中心にいた自分を避けようとするのは無理もない、そうは思う。自分のような暴れん坊への評価はそんなものか、と半ば諦めてはいるものの、それでもやはり悲しくないと言えば嘘になる。
 遠くから観察するような、異物を見つめるその視線が、アオイは嫌いだった。
 そんな中で陸上部の熊や兎のようにその態度をまったく変えない者がいてくれるのが、アオイには有り難い。
 停学が明けてから、クラスから孤立してしまったアオイ。人相が悪く、「黒い悪魔」の異名が噂となって流れたことも手伝い、アオイの評判はとにかく悪かった。アオイ本人、当時は荒れていて「喧嘩上等!」なオーラを纏っていたと自覚している。
 どこから出たのか「目が合えば殺られる」という尾ひれまでついて、自校他校にかかわらず、アオイに近づいてくる者は少なかった。そうしてついたあだ名が「黒い悪魔」だ。
 だがそんな中でも、中学に上がる前からの付き合いである熊や兎は態度を変えずにいたし、またアカギに無理やりではあったが陸上部に入部させられ、付きまとってくる後輩が出来たりもした。
「確かに顔は怖いけど、別にあんたは嫌な奴ではないじゃない?」
 とは桃色の兎の弁。そのときは確か、陸上部に入ったばかりの帰り道で、隣では大柄の熊がのっそりと頷いていた気がする。
 二人がクラスメイトとして普通に接してくれたおかげもあったのだろう。
 二人の様子を見ていた周りが、段々と変化していった。アオイは特に自分を変えることなどせず、元来持った彼らしさで、溶け込めるようになっていた。周囲と分け隔てなく談笑し、笑いあえるくらいには。
(去年一年かかって、クラスの連中とはなんとなく打ち解けたような気になってはいたが)
 だが、ここにきて、また同じ状況である。
 今年のクラスは、去年とは違う。クラス替えが行われ、メンバーの大半は知らない連中だ。停学明けのあの空気を、予測する。同じことがまた、起こるのだろう。
 まあいい。
 それもそれだ。自分の行った行動の結果ならば、仕方がない。受け入れようじゃないか。相変わらず接してくる奴らもいるだろう。口うるさいウサギも、でかい熊も。そして…。そこまで考えて、アオイはようやく思いいたった。
 このクラスは、去年とは違う。
 そうだ。そうだった。去年とは違う。このドアを開ければ、今は教室の中に「アイツ」がいる。
 アオイはぐっと手に力を込めて、ドアを開けようと試みた。
「なーにしてんのっ!」
 だが、突如バシッと背中を叩かれたアオイは、驚いて体を固めた。ぼんやりと白猫のことを考えていたせいもあってか、口から「うふぃう!」と妙な悲鳴を漏らしてしまう。
 振り返ってみれば、兎が「何その声」と声をあげて笑っていた。
「アヤセ…お前な…」
「クマイ程じゃないにしても、でかめの図体でドアの前に突っ立てたら邪魔よ?」
 少しの間逡巡していたつもりだったが、どうやら突っ立てるように見えたらしい。もしかしたらそれなりの間悩んでいたのだろうか。
 あの巨大熊と比べられるのはいかんせん納得いかないが、自分の体がそれなりに大きいことを自覚しているアオイは言い返せない。最近はユキといることが多いせいか、それが自分でもよく感じられる。
 だがしかし痛いものは痛いわけで、ヒリヒリする背中に涙目になりながら、アオイはがなった。
「だからってこの寒い中で背中ぶったたく奴があるか!」
「背後に忍び寄られて叩かれるまで気付かないなんて、隙だらけなのよ」
 ごもっとも。だがそれは決して叩いていい理由にはならないのではないかと思わないでもない。
 これ以上言っても無駄だろうと判断し、大きくため息をつく。
「で、なにしてんのよこんな扉の前で」
「別になんもしてねぇよ」
 ぶすっと答えたアオイの反応に、アヤセはあごに手をやってしばし考えると、ピーンと思いついたように頭の上の長い耳を伸ばした。
「停学明けで入りにくい…とか?」
「な…んなわけあるか!」
 内心でめっちゃくちゃにギクー!とか効果音を当てるくらいに、そんなわけあるアオイの尻尾は一瞬でぼさっと太くなる。だがそんな小さなことで教室のドアを開けられないと思われるのも何故か面白くないのでつい否定してしまう。というかなんでわかったのだろうかこの兎。
「ま、そうよね。あんたがそんなんで緊張するとは思わないわ。もう去年の時とは違うしね」
 アヤセは笑みを浮かべながら、にやりとアオイの顔を見あげてくる。
「今はあの時と違って、友達増えたじゃない。あたしもいるし、隣のクラスにはクマイもいる。それにほら…」
 そこで一度言葉を切ると「そうだそのとおりだわ」とでも言わんばかりに納得した顔で、
「シラネ君もいるじゃない」
と付け足した。
 さっき自分でも思ったことなのに、他人に言われると照れくさい。というか重みが違う気がした。
 誰かに肯定されると、安心できるなんて、自分はだいぶ甘ちゃんらしい。
「それに、あたしをあんま舐めないほうがいいわよ」
 にやりと笑った兎は、今度はアオイの胸に裏拳を叩きこむと(本人は軽くのつもりらしいが加減がわかってない)、教室の扉を勢いよく明けはなった。
 扉の向こう側、教室の窓から入ってくる光がアオイを照らす。朝の教室はこんなに明るかっただろうか。
「みんなおはよー!」
 アヤセは元気よくあいさつしながら、自分の席にさっさと歩いていく。彼女が近くを通るたびに女子たちは「おはよう」とか「今日も元気だねぇ」などと挨拶を交わしている。
 それを見たアオイはふと周りを見渡す。覚悟していた。皆の視線が集まっていることを。
 だが覚悟していたそれは、なんとも中途半端な形で現われた。視線は集まっていはいるが、なんというか、予想していたような鋭いものではない…?
「おお、オオガミ復帰か?」
「またナンチューの奴等とやりあったんだって?馬鹿だねー」
「馬鹿はお前だ。オオガミがうちにいるからあんましナンチューの奴等こっちまで来ないんだろ」
「ういーす。自宅警備員ご苦労さま」
「おはようオオガミ君。今日テストだけど大丈夫なの?」
 口々にかけられる言葉は、どれも嫌悪を表してはいない。停学明けだというのに、これはどういうことか。
 アオイは戸惑いながらも、かけられる言葉に「おう」「うるせぇ」などとあいまいに返していく。
 自分の席にたどり着いて鞄を机の上に置くと、視線を感じて振り返る。
 自分の席の斜め二つ後ろ。そこにこの一週間毎日顔をあわせてきた白猫がいた。
「おはよう、オオガミ君」
「おう」
 つい流れでぶっきらぼうに返してしまい、アオイは内心しまったと思う。
 だが白猫は気にしていないのか、笑みを深くして尾をゆらした。
 白猫の顔が扉のほうを向いたと同時に、ガラッと扉が開く音。
 扉を開けたのは長い黒髪をなびかせながら入ってくる、我がクラスの担任。アオイと視線が合うと、目で「大丈夫なんだろうな」と問いかけている。いや問いかけてくるというような生易しいものではない。あれは「失敗したらどうなるかわかってるだろうな」とでも言うような、脅しの目だ。間違いない。
 アオイはその視線に、ふっと笑って返した。その反応にアカギはきょとんとしている。
 別に、たいそうな自信があるわけではなかった。それなりの努力はしてきたから、もちろんそれなりに出来るかもしれないという期待はあるが、でも確実に大丈夫だという気持ちは微塵もない。むしろ不安のほうが大きい。
 だが、廊下でのあの気持ちはどこへやら。不思議なことに今は平常心だ。開き直ったわけではないと思う。それでも、なるようになるさ、としか気持ちがわいてこない。
 そのままニット歯を見せてアオイが笑うと、アカギのほうまでニヤッと笑った。
 教卓に向かったアカギと視線が外れたので、白猫のほうを振り返ってみれば、白猫も笑みを浮かべていた。
 こいつ、今のやり取り見てやがったな?


 HRが終わったところで、アオイは例の桃色兎のところに向かった。どうにも朝の「舐めんなよ」発言が気になったからである。
「ああ、あれ?」
 とりあえず階段の踊り場まで呼び出すと、どういう意味だったのかと聞いてみた。アヤセは「そんなに聞きたい?」とちょっと困った顔をしている。この兎には珍しいことに、あまり言いたくないらしい。
「言うつもりはなかったんだけどね。まあいいや。教えて損があるわけじゃないし」
 この兎の話によれば、前回のアオイの停学から、正確にはアオイが陸上部に入部してから約一年の間、この黒狼のいい噂を流す努力をしてきたというのだ。
「なんだってそんなこと…」
「陸上部のメンバーが、不良だと思われてるなんて鼻持ちならないじゃない?」
 停学があけてから、アオイに対する悪い噂がはびこるようになった。前々から喧嘩が少なくなかったことも手伝い、やれ誰と喧嘩した、やれ万引きをした、やれ盗んだバイクで暴走した。そんな根も葉もない話がいたるところから流れてきたのだ。喧嘩のいくつかだけは事実だったが。
 綾瀬にはそれが許せなかった。赤の他人であれば放っておいたかもしれない。自分はそんなに出来た人間ではないから。
 だが自分が誇る陸上部の仲間となれば話は別だ。
 尊敬している教師であるアカギが率いる陸上部。そこに関わりたくて、最初はマネージャーを始めた。だが関わるうちに陸上が本気で好きになった。
 自分はマネージャーで、選手ではない。でも、だからこそ、全力でプレーする選手たちにを尊敬していた。
 アオイは確かに柄が悪いと感じていたが、いざ話してみるとさして悪いやつではない。そして練習には人一倍真剣に取り組んでいるのがわかる。真剣に陸上に向き合っているのがわかるから、アヤセどんなに柄の悪いアオイでも、心の底では敬意を払っていた。
 それに、実際にやっていないことで咎められているのは、端から見ても気持ちのいいものではないではないか。
「だから、悪いほうを消すのは難しかったから、逆の噂を広めてみることにしたのよ」
 それはひどく簡単な話だった。少し回りに聞けば、アオイのいい話は割りと転がっていたのだ。
 それこそ小さな話である。廊下にぶちまけたプリントの束を一緒に拾ってくれただとか。棚の上にあったものを何も言わずに取ってくれたとか。掃除をちゃんとやってただとか。信号を守ってたとか。
「なんじゃそりゃ。大した話じゃねぇじゃねぇか」
「それで十分だったんだってば。あんたみたいな悪者には」
 そしてなによりも、悪い方の噂と違って、いい話はすべて事実であることが大切なところだった。
 目撃者や、実際に優しくされた者がいることが重要なのだ。そうした認識は少しずつ、だが確実に広がっていく。尾ひれがついた噂とは違い、信憑性と現実味、なにより出来事が近いことによりアオイ本人を見ようとする思考が無意識に働く。
 悪い印象の者が、小さな優しさを見せることで、その印象はがらりと変わるものである。
 アヤセは「黒い悪魔」に上書きの印象を与えたのだ。
「つまり私は、「大神碧はそこまで悪いやつじゃないんじゃないか」って言ってやっただけ」
「なんとも微妙な評価だなおい」
「そりゃそうよ」
 トン、と自分の胸を親指で指したアヤセは、少し悪ぶった、だがすっきりとした笑みを浮かべる。
「私の素直な印象だもの」
「…………なるほど」
 さらりと言ってのける兎が、なんだか頼もしくて、アオイは尻尾の付け根がむず痒くなる。
「あんたの柄が悪くて、喧嘩っ早くて、顔が怖いのは、もうどうしようもない事実じゃない?」
「そりゃあ素直な評価をどうもありがとうよ」
「でも実は義理堅くて、後輩思いで、真面目なとこもあって、っていうのも事実だとわかったわけよ。そしたら、なんか勘違いしてる奴らにイライラしてきちゃってね。そこからは陸上部の威信と自己満足のためだから、恩に感じたりしなくていいわよ」
「そりゃあ…どうも」
 クラスメイトの意外な評価にアオイは少し戸惑った。
 確かに嫌われていないことはわかっていたつもりだし、気を使わなくていい相手だとも思っていた。だが自分に対してそんな評価を持っているとは思わなかった。
「とは言ってもまあ、別に私いらなかったかもしれないけどね」
「あん?」
「舐めんじゃないわよその2ってところかしら」
 軽くため息をついて肩をすくめたアヤセは、面白そうな目でアオイを見上げる。
「あんたって、ホントに馬鹿よね」
「お前人を褒めてんのか、貶してんのか、どっちだよおい」
「どっちも。いやどっちでもない、かな」
 そんなこともわかんないの?という目をしているアヤセ。
 黒狼のぶすっとした表情もまったく気にしていない。その姿勢が、アオイのことを怖がるでも、同情するでもなく、あくまで対等に見ているためであることに両者は気づいていない。
 それは逆にも言えることで、感謝こそすれど、それ以上にへりくだる必要も、崇める必要もないと思っているそれは、友人として対等な位置においていることの表れでもあるのだ。これも両者とも、気づいていないのだろう。
「そんなことより、あんた大丈夫なんでしょうね。今日のテスト」
「お、おう」
 黒狼の頼りなさげながらも、大丈夫を肯定する返事に意外そうな顔をする兎である。
 国語以外で平均点などほとんど超えたことがないような、この、狼が、肯定したとは。
「自信あるの?」
「そんなもんねぇよ。でもやることはやったからな。あとはなるようにしかならねぇさ」
「へぇ、勉強したんだ。めずらしい」
 大きく目を見開いて、兎は心のそこから驚いている。
 だがアオイにしてみれば状況が状況だけに珍しいことだってするさ、と思わなくもない。
「ん、あれ?お前聞いてないのか、もしかして」
「なんの話?」
 アオイは教頭の示した、大会の出場に必要な条件の話をかいつまんでアヤセに説明する。話が進むにすれ、彼女の顔はだんだんと青ざめていった。
 だが途中から青ざめていった顔に赤みが差し、眉がつりあがり、へたっていた耳がぴんと上を指す。
「……えない」
「は?」
「ありえないわそんな話!!なんでそんな大切な話今まで黙ってたのよ!」
 爆発。
 何がといえば、怒りが。
 まるで火山がその内に秘めていた熱いマグマを吐き出すように、アヤセはアオイに怒涛の勢いで詰め寄った。
「いやだって俺停学中だったし…!」
「うるさい!ああもうあのハゲチャビン何考えてんのもう!文句言ってやる!」
「待て!待てって!アカさんが既に言うこと言っても駄目だったらしいから今更無理だって…!」
「じゃあ誰に言えばいいのよもう!ああもう意味わかんない!……オオガミ!!」
 頭を抱えて唸ったかと思えば、アヤセはアオイの顔をキッと睨んだ。
「お、おう…」
「あんた条件クリアしなかったら…わかってるでしょうね」
「え、いや、あの、だからあとはなるようになるって、さっき言ったじゃ…」
「なるようにじゃ困るのよ!あんた自覚あるの!?あんたみたいなのでも一応とりあえず陸上部のエースなのよ!長距離走で全国に出て、それに憧れて部活に入った子もいるの!学校の威信も、陸上部の威信も背負ってるの!!他の学校だって、不良達がどう思ってるかは知らないけど少なくとも陸上部の人たちにはマークされてるのよ!?戦ってみたいと思われてるのよ!?そのあんたが『成績が悪くて大会に出られませんでした』で済むと思ってるの!?そんなわけないでしょ!!」
 ダン!とアオイの両足の間に右足を踏み出し、身を乗り出すアヤセ。その顔はもはや兎ではない。
 般若。
 般若がここにいる。
 不良たちに囲まれても顔色ひとつ変えない肝の座ったアオイだが、この般若の形相には戦慄し背筋に悪寒が走る。
「ぜぇったいに合格点とりなさい。あのハゲチャビンに文句言わせないように。あいつ何かっていうと陸上部にちょっかいかけてきてるんだから」
 すごみのある低い声で「わ か っ た わ ね」と念を押された黒狼は、イエス以外の返事をすることは許されていなかった。