第十六話 温もり

 目が覚めると、見えたのは見慣れぬ天井だった。
 頭が痛む。自分がどうやってここに来たのか思い出せない。 
 この痛みはいつもの。あの、痛みに似ている。
 だが寝る前の記憶がないにもかかわらず、なぜか安心できるのが不思議だ。
 鼻をくすぐる匂いが、そう感じさせるのだろうか。
 そんなことを考えながら、ユキは自分の状況を確認しようと首を巡らせる。
 どうやら自分が、ベッドに寝かされていることと、ここがどこかの部屋であることがわかる。
 そして、右手がホールドされていることに気が付いた。
 少しだけ首を起こして目をやると、そこには自分の白い手を、なにか黒いものが包んでいる。よくよく見るとそれは手のようで、誰かの黒い両手が自分の手をがっしりと握っているのだ。
 その手を辿って行くと、そこには見慣れた黒い狼の姿。
「オオガミ君…?」
 よく周りを見てみれば、自分が寝ているのはいつも勉強会を開いているアオイの部屋である。 
 そして今自分が寝ているのが、アオイのベッドであることも、ようやく理解した。どうやってここまでたどり着いたのかは、覚えていない。
 ただ胸の内に残っているのは、走りながらわき出したあの感情。
 それを思いだして胸が苦しくなるが、直ぐに治まった。右手に感じる温もりを感じて。
 ベッドに身を傾けた状態でアオイは眠っていた。そんな体勢で寝ていては体が痛くなるだろうに。
 ふっと顔を緩め、ユキは枕に頭を戻した。枕が頭に押され、ふわっと空気がもれる。
 そこにあるアオイの匂いに、ユキは眼を閉じた。
 眼が覚めたときに感じた、不思議な安心感。きっとそれはこの匂いのせい。
 まだだるさの残る体に正直になり、ユキは再び眼を閉じた。
 次に目が覚めたら、しっかりと勉強会をやらねばならないと心で呟きながら。


「うん。なかなかいい感じじゃない」
「まじで?」
「まじで」
 ユキの言葉に目を丸くしながらアオイが声をもらした。
 その声をそのまま繰り返し、ユキはそれが是であることを改めて伝える。
 二人は目が覚めた後、何もなかったかのように勉強会を始めた。今週の午後の時間はほぼ全て勉強に当てた甲斐あって、アオイの実力は驚くほど上がっていた。勉強会を始めた初日にも思ったことだが、アオイは飲みこみが早い。
 勉強が苦手なのではなく、勉強しなかっただけ。というのがユキの評価である。一度覚えたことを、上手く応用して問題に取りかかっている。問題の解法を、系統立てて教えてやれば、その問題がどの系統なのか判断するのがとてもうまい。
「あ、でもまたこのスペル間違えてる」
「げ…まじで」
「まじで」
 先ほどと同じやり取りだが、その言葉が表わす意味は逆だ。
「これ!昨日も問題出たでしょ!確かその前も!」
「あれ、いや、うん?そうだったっけか…?」
 暗記物が苦手なアオイは、英単語や漢字といったものを良く間違えるようだった。英語の文法は合っているのに単語のスペルが間違っていたり、書き出し問題なのにもかかわらず微妙に違う漢字を書いていたりする。あとは単純に、漢字の書き取り問題などは空欄が多かった。いわゆるケアレスミスが大半ではあるのだが、それで10点以上落としていては勿体ないでは済まない。
 ユキにとうとうと諭されて、だんだん姿勢が小さくなる狼。耳まで垂れてきて、尻尾が丸まる。
 自分でも勿体ないと思っているのだろう。だがどうにもそれ単品で覚えるというのが苦手なアオイは、問題で間違えてしまう。
「うー…漢字も英語も読むのは割と出来るんだけどな…」
「それは多分、前後の文脈から予測してるからだと思うよ。単品で出てきたら読めないかもね」
「なる…ほど…」
 少しでも自分の自信を取り戻そうと、アオイは出来る部分を主張してみたが、一蹴されて二の句が次げない。
「あとは…漢字とかだと、文字の構成で割と意味がわかったりするから…」
 白猫はそこまで言うと、「あ」と声を上げた。
 そうだ。この方法ならば、アオイももう少し覚えやすくなるかもしれない。
「どうした?」
「今、僕何て言った?」
「ん、いや「あ」って一言漏らしただけだろ」
 アオイの回答にユキは転びそうになる。
「なんかよくある問答な気がするけど、聞きたいのはその前ね」
「えーっと…文字の構成とかで意味がわかる、だったか?」
「そうそれ」
 我が意を得たり、と言わんばかりにしきりに頷くと、ユキはアオイに説明を始める。
「オオガミ君の勉強をみてたりして思ったんだけど、多分オオガミ君は物事の理(ことわり)を理解して解ろうとするんだと思う」
 白猫の言葉を聞いた狼は、ぽかんと口を開けることしかできなかった。
 そうなることを予期していたのか、白猫はふふっと笑みを浮かべると、ゆっくりと話しだす。
「えっとね、オオガミ君はモノを覚えるときに、その根底の理屈を理解しようとするんだと思う。ものの性質とか本質っていうのかな。その辺を理解しないと、もやもやが残るんじゃない?」
「根底を…理解ぃ…?俺そんな高等そうなことやってるかね…」
 頭をがしがしと引っ掻きながら、狼は少し照れたような、しかし訝しげな顔をする。
 自分がそんな、すごそうなことをやっているとは、到底思えない。
「やってるよ。少なくともやろとしてる。例えば数学なら公式だけ覚えるのって、苦手でしょ?」
「んーまあ確かに。どんな風に導くのか解っても、公式その物がうろ覚えだったりするな。俺、暗記系苦手なんだよ」
 数学の問題では、大抵が正しい公式を当てはめれば答えを導き出せるものだ。だから、大抵の者はまず公式を覚え、その公式を当てはめていく練習をしていく。そのほうが効率が良く、回答するすべを身につけることができるからだ。
「オオガミ君は、『何故この公式をつかうのか』。もっと言えば『公式がどういう意味を持っているのか』っていうところが気になっちゃうんだと思う」
「おお…それはあるかも」
 普通、公式を覚えればそれに当てはめて説くことにより答えが得られる。だから公式が、その文字の決められた形が、本来どういった意味を持って形作られたのかを気にするものは少ないだろう。だが、アオイは勉強会のなかでユキにそういった質問を度々していた。白猫はそれを思い出したのだ。
 いうなれば、掛け算が納得できないようなものである。
 「5×5」を理解するために、「5+5+5+5+5」を必要とする。
 「×」という文字の意味が「+」の集合体であることを理解しなければ、納得して上手く問題にあてはめられない。
「俺は小学生並か…」
 ユキが掛け算の例を示すと、アオイは大いにうなだれた。ユキはそれを見て苦笑する。
「ごめん、例がわるかったね」
「いやでも、なんとなくユキが言おうとしてることはわかった。確かに理屈が解ってないとダメだ。実際に小学生のときの掛け算もそうだった気がする。最初の頃は、九九が納得できなくくて全部足し算に直してたような…」
「それは苦労しただろうね…」
 テストの度にたくさんの足し算をしていたのかと思うと、九九という時間短縮スキルの存在を可哀そうに思わなくもないユキである。
 そんなアオイの小学生時代を想像すると、なんだかちょっと可笑しい。この黒狼が九九に悩んでいる姿は、ちょっとユーモラスだ。
「でもね、考え方によっては、オオガミ君は凄いのかもしれないよ?この考え方は、ちょっと研究者みたいだよね」
「研究者ぁ?」
 小学生レベルだと言われた気になっていたのに、いきなり例えのレベルが上がったので思わず狼は声を上げる。
 その反応がまた可笑しくて、ユキは楽しくなっていた。
「うん。こういうのに、「なんで」っていう考え方で捉えられる人って僕は凄いと思うんだ。それって、こういう公式とか、解き方とか、そういうのを作った人たちの考え方なんじゃないかな」
「ふーん…そんなもんかね」
 持ち上げられたことが照れるのか、アオイは壁を見詰めながら鼻をかいていた。この狼は意外と照れ屋なところがあることに、ユキは気付いている。それが、褒められ慣れていないからなのかも知れないと思ってもいる。
「だからね、オオガミ君の考え方は、そういった公式とかを「どう使うか」じゃなくて、「なんでそれが必要なのか」みたいに考えてるんだと思う。そして、それが解らないと納得して使えない。納得して使えないから、上手く使いこなすことが出来ない」
 ユキが話をまとめると、黒狼は神妙そうにうなずく。
「なるほどな…陸上の練習とかもそうだから、それ合ってると思うぜ」
「陸上も?」
 おう、と返しながらアオイは何か良い例がないか思案する。
「例えばそうだな…ストレッチとか」
「ストレッチって、柔軟体操の?」
「そうそう。あれって、色んな形があるだろ。でもな、どれもどこの筋肉を伸ばしてるかってのちゃんとあるんだよ。それを意識してやるのと、そうじゃねぇのとじゃ効果が違う。形だけ真似ても、きちんと伸ばせてないことが殆んどだ。ヘタすると逆に筋肉や関節を痛めることもあんだよ」
 狼が腕をストレッチしながら、これの場合はこの辺りな。と示してやると、ユキはへーっと感心してしまう。
 アオイは自分の知らないことをたくさん知っている。それはこの勉強会の中でも、家の中での会話でもよくわかった。勉強の仕方こそ知らず、歴史や一般常識など、自分がわかることを知らないことも多い。でも自分とは違ったところで確かな知識を披露するアオイは、ユキには十分に博識だと思わせた。
「色んな練習にしたって、何を鍛えるのかとか、それを鍛えるのになんでこの練習が必要なのかとか、納得しないと確かに嫌だ。大抵アカさんとか、アヤセとかがちゃんと説明してくれるから大丈夫だけどな。クマイもそういうの詳しいし」
 陸上の練習に例えたら、自分なりにとても納得が出来たようで、アオイはなるほどなるほど、としきりに感心している。
 自分のことを観察されたのに、そんなに感心できるものなのかと、ユキは少し驚いていた。
 まあここまで理解してもらったところで、話は半分だ。ここから先が本題である。
「それで、大分話がずれちゃったけど」
 白猫は仕切り直して話を進める。
「オオガミ君が暗記物が苦手なのって、その辺の「なんで」を考えづらいからじゃないかなって」
 我ながら、これは理にかなっていると思う。暗記は、あくまで暗記なので、それをそのまま記憶するものだ。それだと、アオイにはどうしても扱いにくいものになる。だが、ユキはあることに気付いた。これなら、全ての解決にはならなくても、多少の緩和にはなるはずだ。
「漢字とかも、視点を変えればいいんだ」
 ユキはシャーペンを手に取ると、ノートの余白に「休」という字を書く。
「例えば、これ何て字?」
「キュウ、とか、やすむ、だろ?」
「当たり。意味も休むって意味だよね。じゃあさ、これの左側半分って何だと思う?」
 あまり予想してなかったユキの問に、アオイが一瞬答えに詰まる。
「カタカナの…イ?」
 ぺしゃん、と背後で音がした。アオイが振り向くと、さっきまで中に浮いていたはずのユキの長い尻尾が、力なく床に寝ている。
 いや尻尾だけでなく、ユキ本人も机に突っ伏していた。
 これはあれだ、いわゆる「ずっこけた」というやつなのだろうか。
 アオイの予想の斜め上の回答に、ユキは体中の力が一気に抜け落ちた。だが、まあ、うん、確かにその通りだ。その通りなのだ。形は。
「それじゃあ何も変わらないじゃない…というか僕がわざわざその答え聞くために質問すると思う…?」
「わ、わかってるわ!ちょっとボケただけだっ」
 絶対にわざとじゃない。ボケではない。ユキはどうにか、口に出さず、そう思うだけにとどめた。
 なんでそういう見かたになってしまうのだろうか。思考回路はさっき説明したように深いものなのに。
「これは、にんべんっていうの」
「人間?」
「そう。でもにんげん、じゃなくてにんべん、ね」
「あん?」
 正解なのか間違いなのか。ユキの応答はどちらともとれる物になった。その意図の本当のところを、アオイはまだ掴めていないようだ。
「これは「にんべん」っていって、人を表す部首なの」
「人を…表わす…?」
 ユキは先ほど書いた休の字の下に、棒人間と木の絵を描く。わかりやすく簡略化した絵をかいたつもりだったが、自分でも思う位に下手な絵になってしまった。
 だがあえてそこは自分では突っ込まない。
「この字はね、木の木陰で人が休んでる、こういう様子を表した字なの」
「おお。ってことはにんべんの右にある木は、そのまま木のことなのか」
「あたり!」
 狼の確認するような問から、自分の言いたい事を理解してくれたことを感じ取ったユキは、ぱぁっと顔が明るくなる。
「漢字には、こうやって一文字の中でも意味がわかりやすいものが多いんだよ」
「はぁーなるほどな」
 うんうんと感心しながら頷く狼に、白猫は続ける。
「英語も同じ。スペルにはある程度の法則性があるんだよ?」
「そうなのか?」
「うん。その辺もわかる範囲でだけど教えてあげる。ボク前に起源とか変化とかそういうの調べたことあるから」
 それを皮きりに、改めて勉強を開始する。最初は主にアオイが今までテスト形式で間違えた問題に対して行っていった。そして、段々と問題集の方へとシフトしていく。
 アオイの疑問にユキは出来る限り、丁寧に答えていく。ユキが提唱した暗記方法は、暗記する対象のバックボーンまでを把握するというものだった。完全にバックボーンまでを覚える必要はないとユキは思っている。そこを説明することで、少しでも暗記対象を印象つけようという作戦だ。
 これはアオイには効果覿面だった。
 ユキによるバックボーンの説明はわかりやすく、かつ面白く話そうと工夫しようとしたせいだろうか。つまらない暗記ごとだが、興味をもつことが出来たことで、記憶する能率がぐんとあがったらしい。
 なによりも、アオイにとって勉強が楽しいと思えたのは初めてだった。ユキから教えてもらう様になるまで、勉強は惰性と強制によってしか勉強はしなかった。しいていうなら赤木に怒られないように国語をちょっとやったくらい。
 テストなんて出来ないのが当たり前くらいに思っていた。だが、教えてもらって、そして解けるようになると、不思議と楽しさが芽生えてくる。
 だがなによりも、いままでと違うのは。
「今更だけど、シラネに頼んでよかった」
「へ?」
 何度か問題集の問題を解いて答え合わせをして解説を受けるというプロセスを繰り返した二人は、小休止としてコーヒー牛乳で一服していた。市販のコーヒー牛乳を、更に牛乳で割ってミルク多めのまろやかなものになっている。ユキはこれが気に入ったようだ。
「一人で勉強してたんじゃ、ちょっとやそっとやったところで楽しいとか思わなかったろうからな」
「そうだね。勉強は一人でやるものだけど、でも誰かとやると効率良い時もあるもんね」
 ユキの応答に、狼は含みを持たせた笑みで「まぁな」と応じる。
 コップを持ったまま、もう片方の手で後ろを支えて楽な姿勢をとると、アオイは歯を見せて笑った。
「でも、シラネじゃなかったら多分、ダメだった」
 その一言に、ユキは目を丸くした。キョトンとする白猫がおかしいのか、狼は喉の奥でくっくっと音を鳴らす。
「お前が教えてくれたから、俺はこんだけ出来るようになったんだと思う」
「そんなこと…」
「あるって。自信持っていいぜ?この俺をここまで出来るようにさせたんだから」
「…それ、オオガミ君が自慢する事じゃないでしょ」
「やっぱ?」
 アオイの自嘲的なギャグに、二人は声を上げて笑った。
 嬉しかった。自分だったからと、お前でよかったと言ってもらえたことが、素直に嬉しかった。
 自分が力になれたことが、力になりたいと思った相手に認めてもらえたことが、嬉しかった。
 この狼が、心からの笑顔を向けてくれることが、嬉しかった。
 嬉しくて、嬉しくて、気持ちと一緒に、涙があふれた。
 拭うことすら忘れ、滴がぽろぽろとこぼれる。
「お、おいシラネどうした…!なんか変なこと言ったか俺!」
「いや、これは…」
 ユキは慌てて涙をぬぐうと、下手糞な笑みを浮かべた。
「笑い過ぎたら涙が出てきちゃっただけだよ」
 この笑みは、下手糞だけれど、本物だ。この狼に向かうとき、自分は自然に笑みを作れる。
 他の誰でもダメだった。笑顔の裏に、何かがあるんじゃないかと無意識のうちに勘ぐって。相手の笑顔は笑顔に見えない。そうなると、自分も笑えないことが多い。
 だけど、この黒い狼は。
「そうか?」
 少し訝しげにしながらも、アオイは納得したようだった。
 照れくさくて言えないよ。君に感謝されたのが、嬉しくて泣けてきたなんて。
 他愛のない話を続けながらも、勉強会はもう少しだけ続いた。