第十五話 自覚

「あ、牛乳ねーな…買ってこないと」
 キッチンからは香ばしい香りが漂い、フライパンを返す際にする金属音がカチャカチャと響く。
 テーブルの上には皿が並び、主役の卵焼きを中心に昼食の用意が進んでいた。
 一緒に昼食を取る予定の白猫が牛乳を美味そうに飲むのを見てから、きっと好きなのだろうと見当を付けて食卓には牛乳を並べるようにしていた。
 普段そう見られることはないが、じつはこういった細やかな気配りを無意識にしてしまう黒狼である。
 手首のスナップをつかいフライパンの中身をくるりと一回転させた。
「どうすっか、あいつもそろそろ来るしな」
 買いものに出ている間にユキが来れば、外で待たせることになってしまう。
 すぐに帰ってくるつもりだが、自分の為に来てくれているユキを待たせるのは少々気がひける。
 時計に目をやると、あと10分ほどで普段ユキが来る時間になってしまう。
「しょうがない、今日は我慢してもらうとするか」
 牛乳を買いに行くのを諦めたアオイは、炒め終わった料理を皿に盛りつけようとフライパンを傾ける。
 だんだんと気温が増してきた日中。これから来る夏を既に感じだした。
 この間まで道の端に雪が積んであったと思ったのに、それが溶けて電信柱の根元から青々とした雑草が伸びてきている。
 春だな、と思う。だがその春もなんだかあっという間に過ぎていってしまいそうだ。
 そういえば、今年はまだ学校の桜すらちゃんと見ていない。
 このあたりに桜が植わっているのは、家の裏手に位置する山と学校だけだ。
 山の方はちょうどこちらから見えない位置に生えているため、このあたりでは基本的に学校でしか見ることができない。
 その学校の桜も、校門から校舎を挟んだ外れにあるので、めったなことでは目にしないのだ。
 だが、その桜はとても立派なもので、学校が出来る前からそこ生えていたという。
 と、そのときである。
 ドンッ!
 突然、玄関の方から大きな音がした。
 予想していなかったアオイは、思わずフライパンを落としそうになり慌てて掴み直す。
 ひとまずフライパンを置き、胸をなでる。
 なんだろうか。
 ユキは普段おしとやか過ぎるくらいに丁寧なノックしかしないので、今の音の犯人ではないと思われる。
 今の音は体ごと扉にぶつかった位の重量があった。
 だとすれば、いったい誰が。
 心当たりが全くないアオイは、フライパンの中身を盛り付け終えると、用心して玄関に向かった。
 玄関に出ると、扉のガラス張りになっている部分に影が見える。
 すりガラスなので向こう側は見えないが、そのシルエットから扉のすぐ脇に座り、寄り掛かっていることがわかった。
 あのシルエットの大きさ、頭から生えている耳。予感が頭をよぎる。
 ついさっき可能性の中から排除した人物が思い浮かぶ。
 だが、いや、でも。
 ゆっくりと扉を開け、目線をそちらにやると、うずくまっていたのは例のごとく今日来る予定であった白猫であった。
「…シラネ?おいどうした!」
 ユキは息を浅く早く繰り返しており、意識もどことなく虚ろだ。
 膝をついて顔を覗きこむと、その顔は汗だくなのに、なぜか青ざめている。
 アオイは肩に手を置いて体を支えてやりながら、頬にそっと触れる。
「おいシラネ!どうしたしっかりしろ!」
「オオ…ガ…ミくん?あれ…どうして…」
「ここは俺ん家の前だよ。どうした、なんかあったのか?」
 白猫はアオイを認識したが、自分の足でここに来たことに気づいていない。
 意識が混乱し、目の焦点が合っていないようにアオイには見えた。
「オオガ…ミ…く…」
 細い声が白猫の口から絞り出される。よく見るとその瞳には涙が溜まっていた。
「おいって!ホントにどうし…」
 ユキの手が延ばされ、黒狼の胸元のシャツを掴んだ。シャツの下の体毛まで一緒に掴まれたので少々痛い。
 だが、その動作があまりにも弱々しくて、アオイはそれにただ驚いていた。
「……シラネ?」
 もう片方の手も同じようにアオイを掴み、そのままもたれ掛かってくる。アオイの胸に顔を埋め、ユキは声を漏らした。
「………」
 まるで親に捨てられた仔犬のように、ユキはアオイにすがりついていた。
 声にならない声が、口から、いや喉から漏れている。
 声が裏返り、息はいまだ荒いままで。体は震え、耳も尻尾も垂れている。何かに怯えているかのように。
「大丈夫だ」
 ふっと息をついた後、アオイは低く穏やかな声で言った。
 そっと白猫の頭に手をやりながら。
 アオイの手が、白い体毛に触れると、ユキの体の強張りが少し緩む。
 もう片方の手をユキの細い体に回し、そっと抱き寄せる。
「大丈夫。…だいじょうぶ」
 そっと言い聞かせるように、アオイはユキの白い頭を撫でながら呟いた。
 何が、とは言わない。
 ただ「大丈夫」を繰り返し、アオイは優しく頭を撫で続けた。
 撫でるたびに、ユキの体が弛緩していく。
 体の強張りは緩んで行っているのに、アオイを掴む手の力だけは緩まなかった。
 それどころか、ときたまギュッと強く握り直す。
 そのたびに少々痛みが走るが、アオイは表情を変えずに「大丈夫」と言い聞かせながら撫で続けた。
(なにがあったっていうんだよ。シラネ…)
 自分の腕の中で震えるこの白猫は、なににこんなに不安がって狼狽しているのだろう。
 わからない。
 だから何が大丈夫なのか自分でもわからない。だが、大丈夫だと、言うことしかできなかった。
 だが気休めの嘘ではない。
 この白猫に対し大丈夫と言うからには、自分が出来るだけのことをしてやるという覚悟がある。
 自分が、全てにおいて力になってやる。
 アオイは自覚こそしていないが、そんな心境の元で「大丈夫」繰り返していた。
 
 自室の床に座り込み、アオイは天井を仰いでいた。
 もたれ掛かっているベッドには、抱えてきたユキを寝かせている。
 ピクリと耳の向きを変えてユキの様子を伺うと、すうすうと規則正しい寝息が聞こえてきた。
 どうやら落ち着いたらしい。
 ほっと胸を撫でおろしながら、ようやくアオイは体の力を抜いた。
 なにが、あったのだろうか。
 首をぐいとめぐらし、自分のベットで寝息を立てる白猫の顔をのぞき見る。

 この小さな体を駆け廻っていた、あの感情はいったいなんなのだろう。

 今は見えぬ紅の瞳を濡らした、激情はどこから来たのだろう。

 この白い体を不安げに震わせた、忌まわしきものはなんなのだろう。

 黒狼は口を固く食い縛る。食んだ唇から血がにじんだ。
 憎かった。ユキを苦しめるものが。
 こんなにも華奢で。小さくて。壊れそうなユキ。
 それをこんなに苦しそうにさせる何かが、憎い。
 そして。
(くそっ!)
 アオイはより強く歯を食いしばる。
 ぎりりと歯が擦れる音がし、赤いものが顎を伝った。
(シラネを苦しめるそれが、何なのかすらわからない俺自信が、一番、憎い…!)
 アオイは壁を思いきり殴りつけたい衝動にかられたが、ユキを起こしてしまうという思いがあり思いとどまる。
 床も同じ理由で叩けない。自分の顔を殴ることすら躊躇われた。
 代わりに歯を食い縛った。まるで自分の不甲斐なさを噛みしめる様に。
 悔しい。歯がゆい。憎い。辛い。悲しい。
 不安。焦燥。困惑。
 どんな言葉でも言い表せないような、渦巻いた感傷。
 胸の前で握りこんでいた拳に、ぽたりと赤い滴が垂れた時。
「んぅ……」
 ユキの声ともとれぬ息が漏れた時、アオイは素早く振り向いていた。
 まだ寝ている。だが表情はさっきより苦痛にゆがんでいる。
 なにか夢でも見ているのだろうか。俺は何もしてやれないのか。
 はだけて布団から出ていた白い手を、アオイは両手でそっと包む。
 その手を頭をつけるように、まるで拝むようにアオイはベットに顔を突っ伏した。
 握った手は、嘘みたいに冷たかった。アオイはただ心で叫ぶ。
 俺はこいつに何をしてやれる…!
 俺は何をすればいい!どうしたら!
 どうしたらこいつを助けられる…!
 どうしたらこいつを守ってやれる…!
 そんな思いが駆け巡る中で、別の思いがはっきりしていくのもアオイは自覚していた。
 喧嘩のさなかで出会い手を引いた。
 河原でハプニングが起き仲直りをした。
 屋上で昼飯を食べ笑いあった。
 勉強を教えてもらい手間をかけさせた。
 自分の作った飯を美味いと言って食べた。
 そして今日、自分の家に駆け込んで倒れたこの白猫を。
 今、自分が握っている冷たい手の持ち主を。
 雪の花が咲く様に、優しく笑うこの猫を。
 白根雪暉を。
(俺…好きになっちまったんだ)
 この感情を恋慕と呼ぶのかは知らない。
 いままで誰かにそんな感情を抱いたことなどなかったから。
 でも、こんなに切ない気持ちを何と言えば良いんだろう。
 おそらく。多分。この気持ちを恋と呼ぶんじゃないか。
 こいつのために、なにかをしてあげたい。
 自分の身を削ってでも、こいつの助けになりたい。
 好きなんだ。こいつが大事なんだ。
 それに、どうしようもなく、気付いてしまった。
 こいつがこんなになってるときにこんなこと思うなんて。
 好きだっていう資格なんかないのかもしれないけれど。
 それでも。
「ユキ」
 そっと白猫の名前を呼びながら、顔をあげて目を開ける。
 いつの間にか落ち着いた寝顔に向かって、今度はアオイが少しだけ辛そうな顔をして、言った。
「俺…お前のこと好きみたいだわ」
 そっと呟いた言葉は、二人しかいない部屋にしんと溶けた。