第十四話 会いたい

 帰宅する生徒の喧騒が遠くから聞こえ、下校を促すアナウンスが流れる。少し甲高い少女の声が、スピーカから流れ校内で反響する。
 今週は、学校がつまらない。いや、三年に上がる前に戻ったようだ。何も起きずに全てが終わっていく。
 まだ高い太陽。その光が窓から差し込むのを眺めながら、ユキはゆっくりと階段を下りていた。
 以前なら、この階段を降りながら、ほっと胸をなでおろしていた。今日のように何もない一日を遅れたことに、安堵していた。誰とも話さず、視線も交わさず、下手をしたら一言も口を開かない。そんな日常に安堵していた。そんな日常を過ごそうと努力していた。
 それなのに。
「寂しいというか、もったいないと思うのは…なんでなんだろうね」
 誰にともなく呟いた言葉だが、そっと言ったその言葉には、向かう先がある。今日は隣にいない、ぶすっとした表情の、黒い狼の顔が脳裏に浮かんだ。
「ちゃんと勉強してるよね、きっと」
 最初に浮かんだ顔が仏頂面だったことに苦笑しながら、ユキは今日の授業内容を想像する。授業内容といっても、先ほどまで受けていた学校のものではない。これから行う、アオイへの個人レッスンの内容だ。
 学力判断テスト。
 停学開けにこのテストで全教科平均点以上を取らなければ、アオイは陸上部として最期の夏の大会への参加権を、事実上破棄される。しかし普段の成績を考えると、アオイにはかなり厳しい課題だ。それをなんとかするために、ユキはアオイから家庭教師を頼まれていた。
 一般生徒への試験は、昨日で終了しているので、今日からは通常授業だ。それでも今週いっぱいは学校側の都合で、午前授業になっている。勉強時間がしっかりとれるので、こちらとしては有り難い。
 アオイへのユキの授業は、四日目に入っていた。日に日に実力をつけていく素直なのに素直でない生徒は、今日も昼食を用意して待っていてくれているだろう。自分が卵焼きを頬張って、美味しいと言った、そのときのふっとアオイの顔に浮かんだ笑顔が思い出される。玄関が開いて顔を合わせたときの笑顔。解けなかった問題が解けるようになって、嬉しそうにこっちを見たときの笑顔。
 他にもたくさんの笑顔がある。学校では見せないような顔を、たくさん持っている。
 それに気づいたのは、もうだいぶ前のことだ。
 アオイはよく笑う。普段の固い表情の下に、とても優しい顔を持っている。普段は外に出さないその顔を、自分が知っていることに少し優越感も覚えた。
 だが最近はそれだけじゃないことに、ユキは心配になっている。
(何か気に障るようなことしたかなぁ…)
 笑顔を向けてくれるまではいい。
 だが時たま、間があった途端にその視線をそらされてしまうことがある。昼食を食べているときも、じっとこちらを見てきていたかと思うと、それに気付いてそちらを向けばさっと視線をずらす。勉強中にぼーっとこっちを見ていたかと思うと、ふっと顔を背ける。
 以前は普段からぶすっとしている学校内ですら、目が合えば笑みを作ってくれたのに。反射的に顔をそらすなんてことは無かったはずだ。それなのに…。
「シラネ」
 不意に呼び止められてユキの体がびくりと揺れる。名を呼ばれただけでこんなに驚くなんて思ってもみなかったが、驚いたものは仕方ない。考え事をしていたからなのかもしれないと、ユキは自分を納得させる。ゆっくりと振り向いてみると、そこには担任の赤木が立っていた。黒い髪をなびかせて颯爽と歩いてくる姿を見ると、後ろめたい気持ちが無くてもちょっと逃げたくなるという皆の気持ちが分かる。アオイもよく言っていたが、あれはこういうことだったのか。
「赤木先生…」
「ん? どうした元気が無いな」
「いえ、別に」
「そうか…?」
 赤木はユキの前まで来ると、窓の外に目をやりながら「あまりこういうことは言いたくはないんだが…」と口ごもる。階段の踊り場の窓から見える外では、緑の葉を付けた木々が揺れていた。
 窓の外を見たまま、赤木は声をひそめてそっと告げた。
「気をつけろ」
「…え?」
 急に言われた言葉の意味を解釈できずに、ユキは思わず声を漏らす。赤木の声色が酷く深刻そうなのもユキを戸惑わせた。
「気をつけろ白根。…教師が生徒のことをこんな風に言うのは…自分自身胸が痛い。だが…」
 赤木にしては珍しく、歯切れの悪い口調。言い淀んでいる。
 だが、ユキはその口調だけで赤木の言わんとしていることを察した。
「ミドリカワ君…ですか」
「………そうだ」
 赤木がその名を出す前にユキはミドリカワの名が浮かんだ。ユキ自身、そろそろ気をつけなければならないと思っていたから。
 ミドリカワは、今週に入ってから学校に来ていなかった。学力テストはサボり、どこにいるのだろうか。なんとなく想像はつく。それというのも、とある噂が流れてきているからだ。
「お前も聞いているかも知れんが、ミドリカワの奴…最近柄の悪い連中と一緒にいるらしい」
「はい、聞きました。でも、大丈夫だと思いますよ」
ユキは、

笑った。


 ああ、またこんな笑い方をしている。
 そう自分で分かるのに、自分は笑っている。アオイがいたら、また頭をぐしゃぐしゃとされながら咎められるだろうか。
「大丈夫…というと?」
「ミドリカワ君は、僕なんか相手にしませんよきっと」
「だがなぁ…」
「大丈夫ですって。それよりも僕、今日は用があるのでもう帰りますね」
「用事…?」
「はい。大事な大事な、大事な用事です。忠告は気に留めてきます。さよなら」
「あ、ああ。気を付けて帰れ。シラネ…本当に…」
 ユキは赤木に言葉が終わる前に、赤木から遠ざかっていた。



 俯いたまま靴を履き替え、玄関を出る。校門まで誰とも目を合わせることなく、足早に脚を進めた。
 校門を出た後も、だんだんと歩調は早くなっていき、ついには走りだした。
 泣きそう、だった。
 なにが?
 なにに?
 …わからない。
 赤木の忠告は嬉しかった。生徒を悪く言うことを嫌うあの人が、自分にそれを破ってまで忠告してくれたのだ。自分みたいな人間も、自分の生徒としてちゃんと見てくれているからこその行動だろう。とても嬉しい、はずだ。
 心配されている。でもなぜか、素直に喜んで受け取れない。
 自分には心配など不要だ。そんなことをされても、どうにもならないことがあるのを知っている。
 ユキは自分の弱さを知っている。だから、享受することを覚えた。
 痛みも、苦しみも、悲しみも、虚しさも。全て受け入れてしまったら、意外と楽なのだ。
 心を空にして。受け入れて、そして流してしまえば良い。それでいい。
 誰かにすがることなどしない。こんな自分の為に、誰かの手を煩わせるなど。
 もうだいぶ長い間、そうやって生きてきた。
 痛みにも慣れた。
 だから、今回も。
 忠告を貰って、ミドリカワが自分に危害を与える可能性があることを再確認した。ミドリカワと口論をしたあの日以来、覚悟はしていたつもりだ。彼が学校に来なくなった時、それはほぼ確信に変わった。きっとそのうち、報復とでも名付けたものがくるだろうと。
 小さな言い争いだ。朝のHR中の、ちょっとしたいざこざ。先生の一括で収まってしまう様な。そんな小さな。
 だがミドリカワの様な、いわゆるプライドの高そうな人間にとっては、ああいったものの方が、気に障る。それをユキは知っている。まして、普段は小さく何もしない、ユキの様な優等生な雰囲気の人間相手だ。
 だが、もしミドリカワが自分に報復を与えたとしても、それは自分の問題だ。
 例えばアカギが仲裁に入ったとして、それが何になるだろう。
 アカギに苦労をかけるだけで、自分とミドリカワの問題は何も変わらない。
 それなら、最初から誰も挟まなければいい。
 始めから、自分にぶつけてもらえばいい。
 抵抗する気もない。それで済むなら、その方が早いし楽だ。
 そう、思っている。思っていたはずだった。
 だが、それでも、泣きたかった。
 誰かにすがりたくて、怖くて、誰かにすがりつきたい。
 泣きたくなったのだ。
「オオガミ…く……!アオ…ィ…」
 走りながら、自然と口から名前が飛び出した。
 もう前が上手く見えない。
 制服の閉めた爪襟が苦しい。
 抱えている鞄が重たい。
 脚は今にも縺れそうで。
 尻尾の先の感覚が分からない。
 会いたい。
 会いたい。
 ただその想いが、ユキの中で脈打っている。
 自分を認めてくれる人に。
 自分を受け入れてくれる人に。
 自分を必要としてくれた人に。
 自分に笑顔をくれる人に。
 自分に触れてくれる人に。
 自分の目をしっかりと見てくれる人に。
 会いたい。
 会って、触れて貰って、名を呼んで貰わなければ、自分という存在が無くなってしまう気がして。
 無くなるなら無くなってもいいと、以前はそう思っていた。確かに思っていた。自分と言う存在の意味など、これっぽっちもなくて。居ても居なくても同じで。不必要な存在なんだと思っていた。
 いや、今でも思っている。
 自分はあの頃と大して変っていないのだ。その感情は、確かに今でも自分の内にある。
 だが、それでも。
 今日、今、この走っている最中に感情が生まれている。
 今までになかったであろう種類の感情に、ユキ自身戸惑いながら、それでもその想いに従って、今、走っている。
 その気持ちは、動かない足を動かして、零れそうな涙を押しとどめて、大声を上げそうな口を結ばせる。
 壊れそうな心をギリギリのところで守り、詰まりそうな息をかろうじてさせてくれる。
 胸が暖かく踊るのに、切なくてギュッと心臓を掴まれているように苦しい。
 会いたい。