第十三話 卵焼き

「よかったね。どうにか大会に出られる望みが出たじゃない」
「そうだけど…な…」
 学校の帰り道、ユキとアオイは並んで帰っていた。
 ユキに事の次第を伝えたアオイは、放課後に再び二人で相談室を訪れた。一応、ユキには外で待っていてもらったが。
 そこで伝えられたことは、アオイにとって一つの光明であり、奈落への道のようにも見えるものだった。
「一週間の停学のあとの学力判別テストで、全科目平均越え。それが出来れば停学はそこまででいいんだもんね」
「簡単に言うなよな…」
 アオイは深いため息をついた。
 ユキにとっては、むしろそれが当たり前だろう。だが、普段赤点スレスレなアオイにとってはそうは行かない。
「全科目だぞ?全科目」
「でも判断テストは主要五科目だけじゃない?ちょっと大変かもしれないけど」
「ちょっとどころじゃねぇよ。俺は今まで国語でしか平均越えしたこと無いんだぞ?」
「アカギ先生の科目だからね」
「そのとおり。…っじゃなくて、どうするかだな。絶対ムリだぞこれ」
 陸上部の鬼顧問、赤木茜。
 陸上部の部員達が、自分の受け持つ科目である国語で赤点なぞ取ろうものなら、只ではおかない。
 平均を下回っただけでも、かなり恐ろしい。よって陸上部の部員達の国語の点数は、他と比べて飛びぬけていたりする。
 だが今回は他の科目でもかなりの点数を取らなければいけない。
 他の者は今週、つまり自分が停学中にそのテストを受けるため、一週間の余裕ができたと言えばそうだ。だがそれも向こうの考えの内。その一週間の間に、赤点ぎりぎりのアオイがどれだけ勉学に励むことができるかを見る、というのが目的なのだろう。
 こればかりは、赤木も心配そうな顔で頷くことしかしてこなかった。
 だが、頭を抱えながら唸るアオイに、ある考えが浮かんだ。
「シラネ…」
 自分は頭が悪い。勉強が出来ない。
 これから一週間、ちゃんと勉強したとしても、何をどうやればいいのか見当もつかない。おそらくは徒労に終わってしまう。
 そして、隣に居るのは学年一、二を争う秀才。
 普段から勉強をしており、判断テストに対しなんの気負いも見られない程。
「俺に勉強教えてくれ!」
 アオイはユキに殆ど90度で頭を下げた。
 さきほど、ハゲ…もとい教頭に頭を下げようかと思ったときは、身の毛のよだつ思いがしたのに、ユキに対しては可笑しいくらいに素直に下げられた。
「…え?」
「他に頼めそうな奴いないし、助けてくれないか?」
「そんな…僕なんかじゃ…」
「俺一人じゃどうにもなりそうにないんだ…俺のためにあのハゲに頭を下げてくれたハルさんの為にも、俺のために話をしに来てくれたお前のためにも…このチャンスを無駄になんかしたくないんだ。お前にはまた迷惑かけちまうことになるけど…頼む!」
 この気持ちは、アオイの本心だった。
 自分が大会に出たい、それも確かにあった。それもとても強い思いで。
 でもそれ以上に、自分のために動いてくれた人がいるのに、みすみす何も出来ずに終わるのは自分で自分が許せない。
藁にもすがる思い…いや、目の前にいるのは藁どころか大木だけれど、誰かに助けてもらわなければ乗り切ることができない。
「でも…」
「嫌…か?」
「そんなことないけど…」
「お願い…できねぇかな…」
 最後の方は、すがるような声になっていた。
 ユキは、あんなに気の強いアオイが、こんな声を出すのは意外だった。それほどに、真剣に悩んで、そして頼んでいるということだろうか。ユキがアオイのために決心をするのに、それは十分な要因だった。
「僕で…いいの?」
「もちろんだ!」
「じゃあ、わかった。やってみるよ」
 ユキは微笑んだ。
 自分なんかに何が出来るかわからないけれども、やってみよう。
 必要としてくれるなら、それに出来るだけ応えてみよう。
「本当か!?」
「うん。後悔しないでよ?」
「するもんかよ!…あ、でもそうするとシラネに家に来てもらわないと行けなくなるな…俺が停学中だから…」
 アオイは申し訳なさそうに耳を伏せた。
 停学中は基本的に家から出ないことが原則となる。学校から家に定期的に電話が来たりして、家にいるかどうか確かめられたりもする。
 家以外で時間をかけて勉強するのは不可能に近い。たとえ勉強していたとしても、学校側にどう思われるか分からないのだから。すでに色々やってもらってる以上、赤木にこれ以上に迷惑をかけることはアオイとしても避けたかった。
「かまわないよ。明日からは午後の授業も無いしね」
「そっか、悪いな…。じゃあ、わびと言っちゃ何だが、昼飯はウチで食ってたらどうだ?」
「え?悪いよそんなの」
「いいんだって。どうせ家には俺一人だろうし、むしろ一緒に食ってくれた方がいいんだ」
 何故家に一人なのだろうと、口には出さずユキは思った。
 家の人はいないのだろうか。まさかウチのような家じゃああるまいし。
「な?食いにこいよ。そしたら学校からそのまま家に来れるだろ?」
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「よっしゃ。じゃあ明日から頼むぜ!」
「ん、了解」
 こうして、アオイのための勉強会がスタートした。


 次の日、珍しく学校からの帰り道が少し楽しかった。
 正確には、帰り道じゃないから楽しかったんだということは、あとで気がついた。
「ここはこれでいいのか?」
「惜しいね。これはXじゃなくてZを入れるの」
「……」
「ちゃんと説明してあげる」
「…頼む」
 ユキは笑いを堪えながら、なるべく噛み砕いて問題の解説をはじめる。
 アオイは、凄い集中力を見せて勉強に励んでいる。やり方が分からないというだけで、勉強そのものはきっと苦手ではないのだろう。回答の仕方がわかったのか、アオイは黙々と数式をノートに書き込んでいった。
 基本を抑えて、応用に活かすのがとても上手い。もちろん閊える場面もあったけれど、ユキが説明すると直ぐに納得して、続きを説き始める。ただ、単語や公式、漢字などの暗記系だけは本当に苦手らしかったが。
「…これでどうだ!」
「うん。正解だね」
「よーし、ノルマ達成…」
 アオイは両手を上げて、そのまま後ろに倒れこんだ。
 ちなみに、二人は座卓でノートを広げていた。アオイのすぐ脇にユキが座り、同じ目線で手元が見れるようにしている。
「お疲れ様。大分いい感じじゃない」
「先生がいいんだな、きっと」
 アオイはそういって笑った。
 そんなことは、ない。僕などが教えたからじゃない。オオガミ君が持っていた実力を、出し始めただけだ。ユキがそう言うと、アオイは起き上がり、頭に手を乗せて、また笑った。
「そんなことねぇって。お前じゃなきゃ、こんなに真面目に勉強しようとすらしてないって絶対」
「そんなことなあるよ。オオガミ君はコツさえ掴めば大丈夫だもん。僕じゃなくてもできるようになったよ」
「そんなことねぇ」
「そんあことあるってば」
「そんなことねぇったらねぇんだっつーの」
 ぐりぐりぐりぐり。
 手が、頭をかき回す。
 人に、触られるのは嫌いだった。いや、嫌いというより、拒否してしまうのだ。
 人の手が自分に伸びる瞬間、体が強張る。逃げられない。嫌なのに、体は動いてくれない。まるで呪縛のように。
 何故だかは解かっている。解かっていても、解決しようの無いことだけれど。いつから、こんな風になったんだろう。考えてもわからないことだ。
 でも、この手はそれが無い。手を伸ばされることも、触れられることも、むしろ心地よかった。
 ぐりぐりぐり。
 頭の毛がかき乱されて、耳がくしゃっと曲がる。些か強引な、でも優しい手触り。
「シラネ、撫でられるの好きか?」
「うーん…どうだろ?」
 最近は撫でられるなんてなかった。触られるだけで嫌だったから、全然わからない。こうやって、撫でられるのが気持ちいいと思ったことはあっただろうか。
 あった、確かにあった。まだ小学生のとき。確かに母が…。
「ふにっ」
 声というか、変な音が出た。アオイが鼻を摘んだのだ。
 ユキは獣人だから鼻を摘まれたというより、マズルを掴まれたと言ったほうがいいだろうか。
「ふぁひ?」
 鼻が塞がれてて、変な発音になった。何?と言うつもりだった。
「いやお前が…なんか難しそうな顔してるから」
 難しそうな顔。ならきっと自分は、いつもそんな顔しているのだろう。
「ったく…」
 アオイが、頭を撫でるのを再開した。やはり、心地よい。
「そうそう。そういう顔しててくれ」
 アオイは、また笑った。よく笑うな、と思う。
 学校ではぶすっとしていることが多い。そんなことだから、ふてぶてしいとか、冷たいとか、怖いとか、そういう印象をもたれてしまう。
 でも、彼と関わったことのある人なら、直ぐにわかる。確かに、鋭い顔つきをしているし、背も高くて威圧感もある。態度も決してよくはないのだろう。
 だが、それ以上にアオイは優しい。笑顔が暖かい。
 僕は…笑えてるのかな。
 唐突に思った。“そういう顔”って、笑ってる顔のこと?わからない。わからない。わからない。でも手の温もりを感じたら、そんなことはどうでも 良くなってきた。あたたかい。あたたかい。
 やがて、アオイは撫でるのをやめて、ポンポンっと頭をたたいた。頭から離れていく手の温もりが、少し名残惜しい。
 顔を上げると、アオイの笑顔が目に入る。
 やはり、よく笑う。
 普段より、笑ってる気がする。こんな自分なんかと一緒にいるのに。なぜだろう。気を使っている?…そうは見えない。自然と笑みがこぼれているのがわかる。なんというか、幸せそうで。
「もうこんな時間か…」
 アオイにつられて首を巡らせると、部屋にある時計が午後六時を指していた。
 そろそろ帰らないとマズイ。親が心配するわけではないが、それでも。
「シラネ、時間は…」
「残念だけど、僕はそろそろ帰るね」
「そっか。ありがとな…その、明日もお願いしていいか?」
 アオイの言葉に一瞬キョトンとすると、ユキは微笑みながら返す。
「明日も、来ていい?」
「質問に質問で返すなよ。こっちがお願いしてるんだぞ?」
「あはは。じゃあ、明日も来るね…っていうか、試験までは来るつもりだったんだけど」
「おーそりゃ助かる」
 どことなく不躾な雰囲気を持たせてアオイが言ったが、顔がにやけていて照れ隠しなのが良く分かる。
「じゃあ、明日は卵焼き大量に作っといてやるよ。気に入ったんだろ、あれ」
 今日昼をオオガミ宅でご馳走になった。昨日、この勉強会をお願いされたときに、「ウチで食べてけ」的なことを言われたが、それを綺麗に体現して見せられた。
 申し訳ない気もしたけれど、アオイの気迫に押される形で承諾してしまった。そして家について、テーブルに並んでいた料理に驚嘆した。
 ジャガイモの形が崩れていない綺麗な肉じゃが。良い匂いがしてくる焼き鮭に、シジミのお味噌汁。そして、黄色が美しい卵焼き。食べてみてまた驚く。素直に、とても美味しかった。濃すぎない、それでいてしっかりとした味付け。よそってもらったご飯もふ わふわもちもちとしいて。
(メニューが和風だったのは、僕の好みがわからなかったから「とりあえず和風にしてみた」とか言ってたっけ…)
 そして、なによりもユキが気に入ってしまったのが、卵焼き。
 誰かの作った卵焼きを食べるのは、どれ位ぶりだったろう。昔は結構、食べた気が、するのに。甘くて、ふわっとしていて、絶品だった卵焼き。
「あれ、俺が一番最初に作れるようになった料理なんだ。ま、料理って呼べるほど手間かかってないけどな」
 料理は、オオガミ君の特技の一つらしい。一人で食事をすることが多く、そのせいで自然と覚えたと言っていたのを思い出す。 一人、というのが、ちょっと気になった。両親はどうしているのだろう。今日もこの家には大人はいない。
 だがユキは、結局聞かなかった。聞き返されるのが、怖かったから。
「やっぱ、男が料理が趣味ってのは変か…?」
「そんなことないよ」
 アオイの顔を見れば、どういう答えを期待しているのかが分かる。ユキはその素直な表情に苦笑しながら、そっと答えた。
 何かできることがあるというのは、きっと凄いことだ。料理をしていた黒狼の後姿を思い浮かべて、少し憧れも覚える。
「凄い、カッコいいと思うけどな」
 頷くとアオイは天井を見上げて、頭を掻いた。
 ほら、また照れ隠しだ。キザな台詞をさらりと言うくせに、こういう可愛らしい一面も持っている。
 言葉に、行動に、逐一反応するその姿が。自分には勿体ない気がしてしまう。
「楽しみに、してるね」
 ユキは立ち上がる。さっさとしてしまわないと、決心が鈍ると思った。ここは居心地が良くて、帰りたくない気持ちが大きくなる。
「送ってってやろうか?」
「大丈夫だよ。僕だってこう見えて男なんだからね」
「そか。じゃあ玄関まで」
 そう言ってアオイも立ち上がった。

「じゃあ、また明日」
「おう、よろしく頼む」
 玄関で挨拶を交わし、ユキは背を向けた。
 帰りたくない。でも、帰らないわけにも行かない。
「シラネ!」
 背中から声が掛かる。よく通る、でもきっとユキにしか聞こえない程度の大きさの、暖かい声。
「またな」
 手を振らずに上げて、アオイがニッと笑う。
 またな。
 再び会うことを、望んだ言葉だ。隣は心地よかった。その場所に、また行ってもいいんだろうか。
「またね!」
 手を振り返した。そして、暗くなった道の先へ、足を速める。角を曲がったところで、走り出した。
 そうでないと、今すぐにアオイの所に行きたい気持ちが抑えられなかったから。
 なんで、どうして。君は僕の事を受け入れてくれるんだろう。
 君の優しさが、今の僕には眩しすぎる。