第十一話 お見舞い

 カーテンの隙間から差し込んだ光で目が覚めた。
 身体を起こそうとしたが、頭に走った鈍い痛みで再びベットに倒れこんだ。
 自分の部屋の天井を見上げる。
 白い天井…白い……
 白さからあの顔が浮かんできて、アオイは仄かに微笑んだ。一番最近に見たのは、心配そうで、そして嬉しさの混じった顔。
 目の前の黒狼の風邪を心配しつつ、休むと言った言葉に安堵した仄かな笑顔。
 ああやっぱり、こういう顔も出来るんじゃないかと、密かに心の内で思った。
 首だけ巡らせて時計を確認すると、もう午後の三時を過ぎようとしている。どうやら西日が差しこんでいたらしい。
 昨日はかなり早めに寝たにもかかわらず、この時間に起きるとは。やはり体が熱に侵されていたせいだろうか。
 ふと首を巡らせて、ベッドの脇に置いた覚えのないペットボトルを見つけ、アオイは目を丸くした。
 自分が普段からよく飲んでいるスポーツ飲料。
「母さん…か?」
 おそらく、母が置いて行ったもの。他に考えられる可能性が無い。一瞬ユキの顔が浮かんだが、昨日は家の中に入れた覚えはないのでそれもないだろう。
 アオイは身体を起こし、ペットボトルのふたを開ける。それの中身を半分ほど一気に飲み干して、一息つくとようやく体の感覚が ハッキリとしてきた。
 母親に心の内で感謝を述べながら、ぐりぐりと体を回してみる。寝すぎたせいで筋肉が強張っているのが分かった。骨も軋んでいまいち自分の体じゃない気がする。
 元々調子が悪かったのだから仕方がないのだろうか。
「腹…減ったな…」
 思えば昨日の夕飯は食べていない。何かを腹に詰めたかった。
 部屋を出て階段を下りても、人の気配はしない。どうやら母は今日も仕事らしい。いつものことなので特に気にはならないが、いるのかいないのかは認識しておきたい。
 アオイの母は普段からあまり家にいない。仕事は朝早くから夜遅くまで。帰ってこないことの方が多いくらい。
 仕事の内容は、息子であるアオイですら政府関連の仕事という位にしか知らない。何度か訪ねたことはあるが、その度にはぐらかされるので、きっと自分に言うつもりはないのだろうとアオイは諦めている。
 気にはなるが、自分の親だ。信頼はしている。母が言わないのならば、その必要があるのだろう。最近では顔を合わせることもあまり多くはないが、それでも愛がないと思ったことはなかった。
 本当にいて欲しいという時は、必ず家にいてくれる人だったから。
 アオイに父はいない。物心ついた時には、母親と二人だった。父親のことに話しが行くと、母がさびしそうな顔をすることに気付いてから、聞くのは止めた。だから父については何も知らない。
 だが一度だけ。母が零したことがある。
「ホントにあの人に似たねあんたは…色以外」
 と。
 アオイの母は人間だ。黒髪の綺麗な細身の女性。だからアオイの毛の色はきっと母親譲り。
 そしてこの容姿は…父親譲りなのだろう。
 アオイはびしょ濡れの自分の顔を鏡越しに見ながら、そう思った。階下に降りたアオイは、洗面所で顔を洗っていた。
 朝起きると、とりあえず顔を洗いたくなる。
 時間はもう昼をとうに過ぎているが、欲求は寝起きの通りだった。
 そういえば昔、この洗面台で何度も顔を濯いだことがあった。
 十回や二十回ではない。何度も、何度も。まるで濯げばこの顔に付いた墨が、落ちるのではないかという様に。
「さっぱりしに来たはずだったんだが…」
 どうにも逆効果だったらしい。変なことを思い出して、胸にもやもやが残ってしまった。
 何か食べれば、これも薄れるだろうか。
 アオイは、胸に寂しさを感じる。ふっと風邪が吹いてカーテンがはためく様に、ふわりと訪れた感情。
 何故か唐突に白い猫の顔が見たくなって、今日学校を休んでいることを軽く後悔した。
 休んだ原因も、その猫だったわけだが。


 台所は、昨日と何も変わっていなかった。
 もしかしたら昨日自分が寝ている間に帰ってそして出かけていった母親が、何か作ってくれているのでは、とちょっと期待したのだが。
 よほど忙しいのだろう。ベット脇の飲み物だけでも感謝しなければ。そう思いながら冷蔵庫を開けて、アオイは言葉を失った。
「なんというか…さすが俺の母親ってか」
 冷蔵庫の中には、鍋のままラップを掛けられている味噌汁。他にも一緒に食べるようにであろう付け合わせの皿がラップにくるまれていた。卵焼きに鮭の塩焼きにきゅうりの漬物。なんという短時間で出来るものオンパレード。
 そして何よりも、アオイが気になったもの。それは。
「コーヒー牛乳。……俺のお気に入りメーカー、冷蔵庫の一番冷える場所に、それも三本、か…」
 自分の好物の完璧な配置に驚きつつ、その一本を手に取る。大岩井のコーヒー牛乳はアオイの好物の一つ。
 パックの蓋を開け、ストローを通しすする。半分を飲んだところでパックに紙がくっついていることに気付いた。それを取り、再びストローをくわえる。
 その紙には一言、「飲みすぎるな」と母の字で書いてあった。
「ん…?」
 躊躇いがちにストローから口を離したアオイは、紙に他にも何か書かれていることに気付く。
 それを目で追ってみると、何の事を言っているのかわからず、アオイは首を傾げた。
 母の言葉はたまにそうだ。
 さらりと、言い切るくせに、他に何も言わない。こちらの返答も、なにも要求せず、ただ「わかった?」と問う様に目で訴えるだけ。
 だがその一言は、よく確信を突く。
 ある意味で助言ともとれる言葉。それを、母は呟くのだ。
 何度か、それで助けられたこともある。心の奥底にある物に対し、少しだけ背を押すような言葉。
 何かに躓いたときに、手を差し伸べられるような。
 これも、おそらくそうだろう。アオイはその言葉を胸の内にしまい、コーヒー牛乳をすすった。


 インターホンの音。
 それでアオイは黙々と食べていた手を止めた。今日初めて、自分が立てた以外の音を聞いた気がする。
 椀の中の味噌汁を飲み干すと、はいはいと誰に言うでもなく答えながら玄関へ向かった。
 だが、廊下ではたと足を止める。
 胸が高鳴った。覚えのある匂いが、味噌汁の香りに混じって漂ってきたから。
 その出所は? ……いうまでもない。玄関だ。
 アオイは大きく息を吐き出し、深呼吸する。心臓が落ち着いたのを確認してから、ゆっくりと玄関の戸を開けた。
「あ、こんにちは……ってオオガミ君!」
「よう」
 ああ、やっぱりお前だったな。そう心の中で呟いて、アオイは苦笑する。
「ちょっと…起きてて大丈夫なの!?」
 玄関の先にいた、学ランを来たユキは、アオイを目にするなり驚いたように詰め寄っていた。
 その迫力に押されながらも、その表情が昨日のものと被る。
 心配して、怒っているにもかかわらず、どことなく嬉しさを漂わせている、そんな顔。
 心配されている。してもらっている。
 そう思うと、先ほどまでのドキドキは嘘のように消え、穏やかな気持ちが流れ込んでくる。
「オオガミ君!聞いてるの!?」
 無意識に零した笑みに反応し咎めてくるユキの頭に、アオイはぽすんと手を乗せた。
「大丈夫聞いてるよ。熱は下がったし、ダルさもあらかた取れた。安心しろって」
「なら…いいけど…」
 頭に手を乗せたとたんに大人しくなったユキが可笑しくて、アオイはまた笑った。
「上がるか?わざわざ来てくれたってことは、用事があるんだろ?」
「えっと……用事はあるけど、上がるのはやめとくよ」
「なんでだ?」
「そんなことしたら、オオガミ君が休めないじゃない」
「いや、そんなことは…」
「あるの」
 少しむっとして言ったユキの頭を、アオイはぐしゃぐしゃとかき回す。
「わーったよ。…で?」
「あ、うん。これ」
 ユキはくすぐったそうに耳を伏せ、それからアオイの言葉に促されて鞄から一枚の紙を取り出した。
 その紙を受け取ったアオイは、書かれている文字を目にして訝しげに眉をひそめる。
「合宿参加のって…これ…」
「今日クマイ君に頼まれたの。彼、なんだか用事があったみたいだから、僕が代わりに。お見舞いにも来たかったし」
 ユキはクマイに前もって聞いていたことを、アオイに伝える。
 合宿のこと。伝えるのを忘れていたこと。期限に間に合わなかったこと。それを伸ばしてもらったらしいこと。月曜にこの紙を持ってきてほしいこと。
「あと、『ごめん』って」
「はは、あいつらしいな」
 ごめん、という謝罪の一言を伝言として頼むところが、なんともあの熊らしい。
 大きな体のくせに、気が強いわけではなく、むしろ奥手なほう。自分と違い喧嘩もしないし、声も荒げない。アオイとは小学校からの付き合いで、『黒い悪魔』と呼ばれ不良と見られるようになっても、接し方を変えなかった数少ない人物。
 そういう優しく大きな心を持っている。それこそあの体に見合う位に。
 きっと休みが明けて学校で顔を合わせたら、いの一番に謝罪してくるだろう。そういう熊だった。
「本当に申し訳なさそうにしてたから…あんまり責めないであげて?」
「安心しろよ。それでなくてもあいつには世話になってんだ。責める理由はねぇさ。これだってちゃんと間に合うんだし」
「そっか。よかった」
 ユキはよく笑う。
 笑うのだ。こんなにも、よく笑う。
 はにかむ様に。嬉しそうに。雪の花が咲く様に。
「…なぁに?」
 ユキの声で我に返ったアオイは、自分の手がユキの頭から頬に動いていたことにやっと気付いた。
 笑顔を、捕まえようとしていたのかもしれない。
「いや…なんでもね。これ、わざわざ悪かったな」
 アオイは手を引っ込めると、ユキから視線を外す。照れているのが自分でわかった。
「気にしないで。もともとお見舞いには来るつもりだったんだ。それじゃあ…僕、そろそろ帰るね。これ以上いたら、オオガミ君に無理させちゃう」
「いや…だからもう殆ど治ってるから無理とかそんなのは………………」
 アオイが反論しようとしたとたん、ユキは押し黙った。
 そのまま上目遣いの瞳が、無言の圧力をかけてきていた。じっと見つめてくる紅い瞳。ともすれば、そこに涙が浮かんできそうな気さえしてしまう。何を訴えているのかは、直ぐに分かった。
「わかった。降参。俺の負け。ちゃんと大人しくしてます」
 両手をあげて降伏の意を示すと、ユキの表情は一変し朗らかな笑顔になる。
「よし。じゃあ、また月曜日にね」
 はらりと手を振って帰るユキ。それに応えて手を振り返すアオイ。
 軽い足取りで帰っていく白い猫は、だんだんと小さくなっていく。
「あ、シラネ…!」
 小さくなりつつあるユキの背に、少し大きめの声で呼びかける。
「ありがとな!」
 半分振り返ったユキのしっぽが揺れ、先ほどよりも大きく手を振ってきた。
 ここからではよく見えないが、きっとその顔には笑みがある。
 ユキは手を振ったまま、角を曲がり姿を消した。
 ユキの姿が見えなくなった途端に、アオイは体の力が抜け、ほうと息が漏れる。
 なんなんだろう、この気持ちは。
 たまに訳のわからない感情が、ユキに対して降ってくる。今まで感じたことがないものだから、それが何なのか分からない。言葉に出来るものじゃない気がするし、理解するのになにかピースが欠けている気がした。
 玄関の戸を閉めて、食事が途中だったことを思い出す。台所に戻ると、テーブルの上に置きっぱなしにしていた、あの紙が目に入った。それを手に取り、苦笑する。
 まさかな。
 声に出さずに呟くと、アオイは食事を再開した。あとで味噌汁を温めなおしてもう一度食べようか。
 ご飯を口に運ぶ最中にも、ちらりとユキのことが頭をよぎる。だが、あまり深くは考えず、ほのかに笑うだけに止めた。紙に書いてあった、母の言葉を思い出して。
 心の内には、白猫の笑顔を見たときの、幸福感だけが残っていた。











『飲みすぎるな。

考えても分からないことがあるなら、忘れちゃいな。
その想いの、最初に感じた気持ち以外の部分はね。 』