第十話 兆し

 一時間目が始まり、黒板に数式が書き出されていく。
 実施まで一週間を切った学年統一実力判別テストに向けて、教師たちも熱が入っている。
 ユキはノートに数式を書きとめながら、ふと斜め前の空席に目をやる。
 そこは、普段なら黒い体がそこで伏せて居眠りをしているだろう場所だった。
 アオイは昨日の宣言通りに、学校を休んだ。
 ユキはホッとすると同時に、少しの寂しさを覚える。
 自分が休めと言ったくせに、それで寂しくなるなんて、やはり自分は身勝手だ。
 数人の生徒が、こちらを見ながらひそひそと喋っている。
 それは、女子だったり男子だったりするけれど、どれも目には同じ色が宿っているように見えた。
 ユキはそんな視線を極力無視して、再びノートに数式を書き込んでいく。
 見慣れた公式、新しい解法。
 どれもこれも、目には入っても頭に入らず、ただの文字の羅列にしか見えなかった。
 発端は、朝のホームルームだ。


 担任であるアカギが出席を取って、そこでちょっとしたざわめきが起きた。
 その理由は、アオイの欠席だ。
「オオガミの奴は風邪か…めずらしいな」
 赤木が出席簿に書き込みながら呟く。
 確かにアオイが欠席するのは珍しい。
 さらに体の丈夫なアオイは、あまり風邪をひかないらしく、病欠は更に少ない。
 しかしアオイの家から連絡が入っていたのか、アカギはさらりと流すつもりだった。
 ところがだ。
「へっ!天下の黒い悪魔はおサボりですか」
「…なに?」
 とっさに聞き返したアカギの声が揺れた。
 ユキの耳もぴくりと動いて、声の主へと向いていた。
「だーかーらー。あの狼、とうとう学校来るのが面倒になったんじゃないですかー?」
 気の抜けたようで、アオイへのはっきりとした悪意がこもった口調で話したのは、人間の少年。
 制服を崩して着ており、髪はうっすらと茶色い。
 どことなく垢抜けた印象のこの少年は、確か緑川進(みどりかわ すすむ)という名だったとユキは思い出す。
 いままで同じクラスになったことはなく、ユキは面識が無かった。
「どういう意味だ、ミドリカワ」
「そのまんまですよ。俺、アイツの悪い噂しか聞きません。この教室でもなんかいっつもむすっとした顔して怖いし。典型的な不良じゃないですか。だから、そろそろ学校に来るの飽きてサボりだしたんじゃないかとね。その口実にとりあえず風邪ひいたって…」
「ちがう」
 ガタンっと椅子を鳴らして立ち上がったのは、綾瀬春香(あやせ はるか)。
 兎の獣人で、陸上部のマネージャーをしている。
 端麗な容姿とは裏腹に、気の強いことでも知られており、声も大きい。
 だが、皆の視線は立ち上がった綾瀬ではなく、教室の後方に向けられていた。
 立ち上がったアヤセ自身も、驚いた表情で後ろを向いている。
 声を発した白い猫に。
 怒鳴ったわけではない。声は決して大きくなかった。
 だが、綾瀬が立ち上がった音をくぐる様にして、その声は皆の耳に響いた。
「…ちがう」
「何が違うんだよ」
 俯いたままのユキに、ミドリカワが露骨に顔をしかめて言い放った。
「オオガミ君は、そんな人じゃない…!」
 ユキは顔を上げ、キッ!とその紅い瞳でミドリカワを見据えた。
 ユキの中で、ひとつの葛藤が戦っている。
 言うな!と、一人の自分が言う。
 悪意に向き合うな。人の悪意に、視線に、正面からぶつかるのは、とても大変で、疲れる、つらいことだ。
 身をもって知っているじゃないか。
 かいくぐれ。受け流せ。気にするな。
 いつもそうして来たじゃないか。これが上手く生きるコツなんだと体感したじゃないか。
 辛いことも、傷付くことも、最小限で済む最良の方法だと思い知ったはずだ。
 だが、もう一人の自分が、ユキの心の中心に何も言わずに座っている。
 何も言わずとも、何が言いたいのか、ユキが解かっているとでも言うように。
「シラネ…君?」
 アヤセのか細い呟きが聞こえた。
 普段から無口なユキが、突如こういった行動に出たことに驚いているのだろう。
 ユキはミドリカワから視線を外さないまま、口を再び開く。
「オオガミ君は、君の思ってるような不良じゃない」
「はぁ?現にアイツは喧嘩してるだろ!停学にだってなってるじゃねぇか!」
「確かに、喧嘩した事実はあるかもしれないけど」
 ユキの言葉に、ミドリカワが勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「でもその殆どが、正当防衛なはずだ」
「なっ…!」
 ミドリカワの表情が一変した。
「もしくは誰かを助けるため。そういった理由じゃなきゃ、オオガミ君は喧嘩をしない。自分から喧嘩を吹っ掛けるようなことは、絶対に…!」
 真っ直ぐな視線を向けられ、淡々と喋るユキに、ミドリカワは圧されていた。
 異様なプレッシャーを感じながらも、自らのプライドを守るためか、どうにか反論する。
「…へっ!最近オオガミの金魚の糞してて、気が大きくなってんじゃねぇか?シラネよぉ」
「な…!?」
 だがその反論は反論とも呼べない、ユキの神経を逆なでしようとするだけの幼稚なものだった。
 ユキの上げた声に、その思惑が的中したと思ったのか、得意そうに言葉を続ける。
「最近ずっとオオガミにくっついてるもんなぁ。舎弟にでもしてもらったのか?ああ!だからこうやってオオガミの奴を擁護してんのか。なるほどなるほど」
 ガタリッと再び音がする。
 アヤセが椅子を倒したのだ。その顔は赤くなり、からだは微かに震えている。
 怒り心頭。その言葉がこれほど当てはまる光景もない。
 アヤセが今度こそ大声を張り上げようとしたとき、その言葉は再びユキによって遮られた。
「なんとでも言えばいいよ」
 ミドリカワの暴言を、さして気にしていないように、ユキは言い放った。
「ただ、一つだけ言わせてもらう」
 ミドリカワは、思わず唾を飲んでいた。
 ユキはゆっくりと、そしてはっきりと言った。
「オオガミ君は、君みたいに本人のいないところで人の悪口を言ったりする、弱虫じゃないよ」
「……!!…てめぇ!!!!」
「そこまでだ!」
 ユキの言葉にミドリカワが立ち上がろうとしたとき、これまで静観していたアカギの声がそれを止めた。
 ばしんと出席簿を教卓に叩きつけ、黒い長髪をなびかせる。
「座れ、ミドリカワ。アヤセ…お前もだ」
 しぶしぶと腰を下ろすミドリカワ。アヤセのほうは自分が立っていることを忘れていたのか、恥ずかしそうに倒れた椅子を直してから座った。
「いくつか言っておこう」
 二人が座ったのを見届け、ユキに一瞥してからアカギは話し始めた。
「オオガミが風邪で欠席しているのは事実だ。今朝方、親御さんから連絡があった」
 ミドリカワがちっと舌を鳴らしたが、アカギは頓着せずに続ける。
「そして…確かに、オオガミは荒っぽいところがある。顔も口も悪いからな、皆が萎縮する気持ちもわかる」
 顔は悪いのではなく、怖いの間違いである。顔が悪いだと意味が違う。
 アカギは続ける。
「だが、シラネの言う通りあいつは自分の勝手で喧嘩をしたりはしない。オオガミの起こした事件について、学校に報告されているものは全て私が事実を確認している。あいつの方から手を出したというのはまったく無い」
 ユキはホッと胸を撫で下ろした。
 先生であるアカギから話されたことならば、皆も信じるだろう。
「まぁ、そういうわけだ。オオガミは決して不良な訳じゃない。シラネが言ったようにな。お前たちも、じきに分かるだろう」
 皆の視線がユキに集まる。
 今更ながらに、ユキは居心地の悪さを感じた。
 普段、こんなに人に注目されることは無い。つとめてそうしているのだから当然だろう。
 先ほども、自分を抑制しようという声が聞こえた。
 何故自分は、それを振り払って声を上げたのだろうか。
 ミドリカワの大きな舌打ちの音がした。
 それがまるで断末魔のように聞こえ、ユキは身を縮めた。


「シラネ君っ」
 ユキはハッとして顔を上げた。
 目の前には、うっすらとした桃色の兎獣人。
「どうしたの?授業終わったよ?」
「アヤセさん…」
 アヤセの言ったとおり、授業は終了したようで、教室はまばらな人数しか居なかった。
 さっきの授業は4時間目だったので、今は昼休みだ。
「あのさ…大丈夫?」
「え、何が?」
「今朝のこと。ミドリカワに散々言われてたじゃない?…でも、見た感じそんなに堪えてないわね…」
「僕も言い返したしね…意外と平気かも」
 アヤセは「そっか」と言いながら、ほのかに笑った。
「改めてだけど、今朝はちょっと驚いた。シラネ君があんなふうに喋るの初めて聞いたかも」
「そうかもね…」
 自分でも驚いている。
 以前なら、何も言わずにことが過ぎるのを待っている場面だ。
 アヤセが反論し、それにミドリカワが言い返す。クラスの中でざわめきが起こり、ことは喧騒に巻く。
 それをアカギが納めて、ホームルームが終わる。
 それを、待っていればよかった。
 だが、それが出来なかった。
 アヤセは空いていたユキの前の席に腰掛けると、兎特有の長い耳をピクピクと動かす。
「オオガミと、仲いいんだ?」
 その質問に、ユキは詰まった。
「どう…かな…」
「だって、仲がよくなきゃあんな風に言えないよ。それに…言っちゃあれだけど、オオガミは端から見ると普通に不良だしね。ちゃんとアイツのこと知ってる奴って、そんなにいないのよ?」
 アヤセが可笑しそうに笑う。
「アヤセさんは、ちゃんと知ってる人なんだね」
「そりゃあマネージャーですから!選手のこと知らないようじゃ、なんにも出来ないわっ」
 アヤセが胸をそらして言うと、まだまだ発展途上である胸のラインが強調される。
 普通の男児なら息を呑む光景だったのだろうが、ユキは特に気に留めず笑みを浮かべた。
 アオイの前ではあんなに自然に笑えるのに、今この場で笑うのは相応の努力が必要だった。
「流石だね」
「お互い様よ。にしても、いいとこ持ってかれちゃったなぁ。あそこは私がビシッと言ってやるはずだったのに」
「あはは。悪いことしちゃったかな」
「まぁ、いいってことよ」
 アヤセはすくっと立ち上がる。
「じゃああたしは、アカギ先生と陸上部の打ち合わせがあるから。バイ」
 ひらりと手を振って、身を翻した。
 長い耳を揺らしながら、背筋を伸ばして歩くその様は、自信に満ちていて勇ましい。
 活動的な彼女だが、成績は悪くないうえに、クラスの学級委員でもある。
 陸上部のマネージャーという決して楽ではないであろう業務をこなしながら、自分を甘やかさずに行動している。
 尊敬できる、素晴らしい人物なのに。現に尊敬もしているし、凄いとも思っている。好ましい人だとも。
 だが、ユキは笑えなかった。
 アヤセのようにまっすぐに人に向き合い、まっすぐな視線を向けてくる人は、ユキには眩しい。
 眩しすぎて、少し痛い。視線は…苦手だ。
 朝から向けられている、見定めるような視線にも、ユキは嫌悪を感じていた。
 視線を向けているのかいないのか、その境目にあるような視線。
 自分は関わりの無い人間であると、暗黙のうちに主張しているような。
 遠巻きに見るだけの、無責任な視線。
 自分は今朝、まっすぐにミドリカワを見た。
 きっと、この紅い瞳には鋭い光が宿っていたのだろう。
 真っ直ぐな視線も、言葉も、人を傷つける。
(それを分かっていたはずなのに、なぜそれをした!)
 ユキは自らに憤りを感じずにはいられなかった。
 立ち上がると、数人がこちらを見てきた。
 それを気にせず、ユキは教室の出口へと向かった。
 嫌悪は感じる。
 だが、それにも慣れてしまった。
 割と昔から、こういった視線は知っている。
 右足を踏み出したときに、不意にわき腹に痛みが走った。ユキは少しだけ顔をゆがめ、そっとその部位を摩る。
 そうだ。
 自分にはそんな視線を向けられても仕方が無い。そういう存在なのだ。最近は思わなくなってきていた、そんな思考がユキの頭に浮かぶ。
 この痛みが、思い出させる。僕は、この世に生まれる価値のなかった存在。痛みを与えられて、仕方が無い。いや、痛みだと思うことすらも、きっとおこがましい。
 ユキは自嘲的な笑みを浮かべて、教室のドアに手を掛けた。昼食を買うためだ。こんな自分でも欲求があるのだと、また笑えてくる。
 まるで、今日一日中机に付きながら視線を浴び続けて溜まった不快感が、今になって溢れてきたかのように、ユキの思考を支配した。
 ため息は、つかない。
 それすらも、疲れるから。
 扉を開けるために力をこめようとした瞬間、目の前の扉が勢いよく横にスライドした。
「わっ!」
 弾かれるように手を引っ込めたユキは、顔をしかめる。
 なぜ、扉の向こう側に壁がそびえているのだろうか。普通なら廊下があるはずなのだが。
「ん?…あぁ、悪い。大丈夫かい?」
頭の上から声が降ってくる。見上げると、そこには困ったような申し訳ないような顔をした熊の顔があった。ユキが壁だと思ったのは、この熊の大きな体だったわけだ。
 横にも縦にも大きなこの熊の体は、扉を埋めるほどだった。
「あれ?えっと…シラネ君だよね?」
「え、あ…はい。そうですけど…」
「おいおい。なんで敬語なんだい?同い年だろう?」
「…あれ?クマイくん…?」
「お、同じクラスになったことないのによくわかったな」
「だって君はオオガミ君と同じくらい有名人だから…」
 この大きな熊は、熊井圭吾(くまい けいご)。
 アオイと同じ陸上部の所属だったとユキは思い出した。
 ただし、彼の場合は専門が砲丸投げであり、部の部長を務めてもいるはずだ。
「ははは恐縮だな。それはそうと、そのオオガミの話なんだけど」
 ユキの体がピクリと揺れた。
 尻尾が、上下にゆらりとくねる。
「アイツ、今日来てないんだよね?」
「うん。風邪で休んでる」
「うーん…本当だったか」
 クマイはあごに手をやり唸る。
 大きな熊が小首を傾げている仕草は、なかなかにユーモラスだ。
「どうかしたの?」
「いや、実は…」
 クマイはポケットから一枚の紙をとりだすと、ユキに渡した。
「えっと…『合宿参加承認用紙』…?」
「そう。今年も陸上部でゴールデンウィークに合宿をやるんだけど、オオガミに言うのを忘れていてね」
 聞いてみれば、4月に入ってからアオイは帰りが早く、今週になってテスト準備で部活が無くなったので渡しそびれたらしい。
 毎年の恒例行事なので、アオイは知っているはずだが、合宿には保護者の承認が必要。この用紙がその役目を担っているの だが、用紙を見れば、提出締切は今週中となっていた。
「あれ…締切…」
 今日は金曜日だ。締切が今週中なら、それは今日までということになる。
 今日渡されても、親に承諾をもらうことが目的なので、提出できるのは翌日以降。
 締切日に渡されて、その日のうちに出すというのは、実質不可能に近い。
「そう。実際のところ、もう過ぎてしまっているようなものなんだ…」
 ユキがそれに気づいて呟くと、クマイは申し訳なさそうに耳を垂れ、自分の鼻をポリポリと掻いた。
「渡しそびれていたオレが悪いからね、アカギ先生に断って月曜まで締切を伸ばしてもらったんだけど…。まさかオオガミが休むとは思ってなかったから…」
 今日アオイに用紙を渡し、月曜に持ってきてもらう。それがクマイの計画だったのだが、アオイが休んだせいでそれが破綻したらしい。
「はぁ…。仕方ないな、“あいつ”には悪いが…家まで届けに行ってくるか…」
「何でクマイ君が悪く思う必要があるのさ。そんなのむしろオオガミ君のためじゃない?」
「あぁ、いや…オオガミじゃなくてね」
 クマイは頭をがりがりと掻いて、照れたように目を伏せた。
 ユキが目で促すと、おずおずと話し出す。
「その…なんだ。で…あー…待ち合わせ?…そう!『待ち合わせ』があったんだけど、ちょっと遅れるか、今日は…キャンセルか……しないと…なぁって……ね…」
 照れていた熊の顔が、だんだんと寂しげに、悲しげに、落胆したように色が失せていく。
 声も次第に細くなり、大きな体がシュンと一回り小さくなった気がした。
 自分で言って、自分で落ち込むという自滅パターンにはまってしまったようだ。
「楽しみにしてたんだ?」
「うん…まぁね。陸上部はこんなときでもないと、なかなか休みがないからさ。ゆっくり会えないんだよね」
 クマイは苦笑しながらしみじみと言う。
 その様子からは、その約束を心から楽しみにしていたであろうことが伺えた。
 だが、それを棒に振ってまでアオイの家に届けにいくという。
 自分の責任だからと。
 この熊も、アオイと同じくらいに純粋で優しいのだと、ユキは実感した。
「あの、クマイ君?」
「なんだい?」
「用紙を届けて、月曜日に持ってきて貰えればいいんだよね?」
「え?ああ、そうだけど」
 それならば、さして難しいことはないだろう。
「あのさ、もし僕でよかったらオオガミ君の家に代わりに行こうか?」
「え?」
 ユキの予想外の提案に、クマイは目を丸くする。
 提案したユキはユキで、自分でこの提案をしたことに驚き、すこし困惑気味だったりもする。
「いや、悪いよそれは…」
「ううん。元々お見舞いに行こうかとは思ってたんだ。…休めって言ったの僕だし」
 最後の言葉はクマイに聞こえないように呟く。
 昨日、自分が休めと言って、それを聞いてくれたアオイの所に見舞いに行くのは、当然のことのように思えていた。
 だからユキは初めから学校の後に行くつもりだったのだ。
「ついででよければ、僕が持っていくよ?約束、大事なんでしょ?」
「それはありがたいけど…本当にいいのかい?」
「うん。本当についでなんだから、気にしないで?」
「それじゃあ…お願いしようかな。すまないね」
 ユキはクマイから用紙を預かることが決まると、そこで「あっ!」と声を上げた。
「なんだい?」
「僕…オオガミ君の家知らないや…」
 たはは…と苦笑いを浮かべるユキに、クマイも釣られて笑った。
「元々お見舞いに行くつもりだった…んじゃないのかい?」
「本当だよね。どうやって行くつもりだったんだろう」
 今にも大声で笑い出しそうなのを堪えながら、クマイは口を開く。
「じゃあ放課後までに簡単な地図を描いておくよ」
「本当?助かるよありがとう」
 笑おうとした。
 それが、ぎこちない事に自分で気付いた。
「うん、こちらこそ助かる。じゃあ、また後でね」
 そう言ってクマイはのっそりと廊下を戻っていった。
 大きな体をなるべく通行人の邪魔にならないように気をつけながら、のっしのっしと歩く。
 そんな背中を見ながら、ユキは自分の頬に触れてみた。
 そして指で口端を吊り上げてみる。
 これは…笑みに見えるだろうか。