第一話 雪の日の出会い
三月の後半の今日は、雪が降っていた。
大きな山脈のふもとに在るこの街は、普段からよく雪が降る。
それでも4月が始まるころには、積もった雪は解けて、山の上のほうくらいにしか残らない。
それなのに今日は雪が降った。
灰色の空から、はらはらと舞い降りてくる白い輝きは美しい。
「おいこら。なにシカトしてんだ、ああ!?」
ユキがぼうっと空から降りてくる白を見ていると、目の前の猪獣人が牙をむいた。
いや、牙は始めから外にむき出しだが。
視線が自分ではなく、その後ろの空に向けられていることに腹を立てたらしい。
ユキの周りは、獣人と人間の混ざった若者の集団が取り囲んでいた。
おそらく、ユキと同い年くらい。
ニヤニヤとした笑みをその顔に湛えながら、塀にもたれ掛ったユキの逃げ場を塞いでいる。
いわゆる、かつ揚げとか、恐喝とか、そういったことをされているんだと解かってはいる。
だが、ユキは特に恐怖を感じていなかった。
「何か言いたそうな目ぇしてんな?文句があるなら殴ってきてもいいぜ?」
ユキは、うつろな目で尚も空を見ていた。
数々の暴言も、唇から血が流れるほどに殴られていても、もうどうでもいい。
殴りたければ殴ればいい、罵りたければ罵ればいい。
この茶番が早く終わってくれることを願った。
「ん?なんだ、この本」
集団の一人が、転がっていたユキの鞄から顔を覗かせていた赤い表紙の本に気がついた。
腫れた瞼の下から、ユキの目がピクリと反応する。
「触らないで!」
反射的に叫んでいた。
自分に何をしてもいい、でもあの本だけは。
ユキの叫びを聞いた猪獣人の少年が、にぃ、と笑う。
「その本こっち貸せ」
何をしても無抵抗で、いたぶるのには良いがつまらないと感じていたのだろう。
ところが、自分から本という弱点を晒した。
人に苦痛を与えるには、弱点を攻めればいいだけだ。
別に恨みがあるわけじゃない。
別に理由なんて無い。
ユキを取り囲む少年達にとって、これはただの遊びの延長だった。
人を殴れば、自分の強さが少し証明される。
人が自分を恐れてへりくだるのを見るのは面白い。
ただそれだけだ。
だから、この本がユキにとってどれだけ大事なものであろうと、彼らには関係ない。
グループの中心であろう猪の少年は、赤い表紙をユキの前でチラつかせた。
「へっ!そんなにこれが大事かよ」
「返して!」
「おっと」
ユキが立ち上がりながら手を伸ばすが、それは上へと逃げて届かない。
バランスを崩し、そのまま猪の少年にぶつかりそうになる。
だが、倒れ掛かる前に胸倉を掴まれた。
「おーおー、そんなに必死になっちまってよう。さっきまでのクールさはどうしたんだよ」
襟が絞まって、息が苦しい。
周囲に嫌な笑みが広がる。
「かえ…し…て…!」
「うるせぇよ!」
猪の少年に比べてかなり体が小さいユキは、軽々と放り投げられる。
塀に背中が叩きつけられて、息が詰まった。
「こうしてやるよ」
猪の少年は、黒い笑みのまま、本を開きその一編に両手をあてた。
何をしようとしているかは明白だ。
本を持った手に力が入る。ミチ…と本が悲鳴を上げた。
「やめ…!」
ユキが溢れてきた涙をこらえて、立ち上がろうとしたときだった。
ドシャ!!
白い物体が、横から飛んできて猪の顔面側頭部に激突した。
「何しやが…ぶへぁ!」
猪の少年が、頭を抑えながら飛んできたほうに怒鳴ったが、再び白い塊が飛んできて阻まれた。
猪の顔面に張り付いたそれは、雪の塊。
ユキも無意識にそちらに視線を送った。
そこに居たのは、灰色のジャンバーを着た、青い瞳の黒い狼。
野球のピッチャーがボールを投げた後のように腕をたらして、こっちを睨んでいる。
「道の真ん中で邪魔なうえに、笑い方が気持ち悪かったから、つい」
とても低い声で、狼は言う。
その瞳は狼特有の鋭さを持っていて、ギラリと輝いていた。
「つい、だとぉ…?」
「その本返してやれよ。そいつのなんだろ?」
狼はそう言うと、ゆっくりと集団に近づいた。
「へっ何だお前!正義の味方気取りかぁ!?」
「別に。邪魔だったって言っただろ。それだけだ」
「調子に乗ってんじゃねぇ!」
集団のうちの一人が狼に殴りかかった。
狼はそれを予測していたのか、するりとそれを避けると、相手のみぞおちに蹴りを食らわせる。
ぐえっ、と呻いて殴りかかった方の少年が倒れた。
「な…なにしやがる!」
「そりゃこっちの台詞だ。いいから本返して、さっさと退けよ」
「ほざくな!」
猪が叫ぶと、それを皮切りに集団が次々と襲い掛かっていく。
だが狼は、襲い来る拳を、体を捻ってかわし、逆にこちらの拳を叩き込んだ。
鳩尾に蹴りを入れたと思ったら、その足はそのまま後ろへ突き出されて、もう一人の顔面を捉える。
無駄の少ない動きで、襲い来る集団をあしらっていく。
ユキはその乱闘を只眺めていた。
少年達による囲いが崩れた今、本当なら逃げるのがいいのだろうが、それができない。
目の前の猪も、片手に本を持ったままで唖然としていた。
「こ…こいつ、大神だ!大神碧(おおがみあおい)!」
「東中の黒い悪魔か!?」
「なっ…マジかよ!?」
地面に転がった少年達が、次々に声を荒げた。
そのざわめきが収まらないうちに、アオイは猪の横まで来る。
「誰が悪魔だまったく…。で、その本返す気はないのか?」
「うるせぇよ!」
猪は拳を振りかぶり、そのまま前に突き出す。だが狼はそれを頭を傾けるだけでかわした。
「面倒な奴だな」
カウンターの形で顔面に狼の拳が叩き込まれる。
体重の乗ったその一撃は、猪の大きな体を吹っ飛ばした。
それと同時に、赤い表紙の本も猪の手を離れ、宙を舞う。
「よっと」
アオイはそれを空中で捕る。
視線をめぐらせた後に、ユキに向くと、先ほどまでとは違う優しい声で「走れるか?」と言った。
アオイの問いに、ユキは頷いて返す。
「よし、行くぞ」
そう言うと、アオイはユキの手を取り走り出した。
ほとんど引きずられるように、ユキも走り出す。
ひらひらと雪が降る中を、積もった雪に足跡を付けながら二人は駆けていった。
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