よっつめの話

その日は朝から快晴で、日が落ちても空が雲で覆われることはなく、美しい夜空が広がっていた。
東の空に、綺麗な正円の月が浮かんでいる。月の光に弱められながらも、その周りでは自分の存在を誇示するように、細かく煌びやかな星たちが光を放つ。
夜空で光る月星たちを尻目に、地上でも美しい光が舞っていた。
街の集まっている明りから少し離れた所で、開け放たれた窓や、庭先から光が漏れだしている邸宅。
そこから漏れているのは光だけでなく、人と人との会話、鳴り響く音楽。騒がしいといっても過言ではない程度の音が、その邸宅からは流れている。
「うるせぇなぁ…ったく。まあ今日は文句を言わないでやるが…」
その屋根の上で、ほうと息を吐いた黒獣が愚痴を零した。広い屋根の上でうずくまっている黒獣は、猫よりも一回り大きい体に、月明かりに照らされて美しい光沢を放つ毛を身にまとっている。尾は長く、その瞳の色は紅。
黒獣はおおきな欠伸をすると、ぐっと体を伸ばした。
屋根の下では、今、宴が開かれているのだ。
この家の継ぎ手の、成人の儀。それが今夜は行われている。
「さぁてと、そろそろ戻るとするか。あんまり姿が見えねぇと、あの馬鹿心配しそうだからな…」
黒獣は軽い身のこなしで屋根からテラスに降り、開け放たれている戸から邸の中に入った。そこは大広間だ。
色とりどりの派手な服を身に付けた人々が大勢いたが、その足元を黒獣がすり抜けても誰も気がつかない。
テーブルの上に飛び乗って、大皿に盛り付けられた肉をくわえると、ぽいと空中に放り一口で頬張った。別に腹がすいていたわけではないが、まぁ味は楽しめる。なにせ今日の料理は全て手が込んでいるのだ。
黒獣は口を動かしながら、上座の位置を見やった。
「あーあー、嫌そうな顔しちゃってまぁ」
黒獣が視線を向けるその先では、上座にある椅子に腰かけているこの宴の主役アトラ=エルフラウが、いかにも退屈そうな顔で頬杖をついていた。
髪は普段の様なひとくくりではなく、しっかりと梳かされていて肩を通り過ぎ背中まで真っ直ぐに伸びている。そしてその頭には白い帽子が被せられ、服装は白を基調とした派手過ぎないもの。それでも装飾品がかなり多めに付いていて、アトラが嫌がっているのが見て取れる。
アトラの隣の椅子は開いていて、本来そこに座っているはずの現当主ルティアは会場の人の群れに交じり歓談しているようだ。様々な色の間を、白い影がゆっくりと動いているのが時々視界の隅に入る。
黒獣は口の中の肉を飲みこむと、ぺろりと口の周りに付いた汚れを舐め取った。
別に食べる必要のない肉を頬張りその味を楽しみながら、どうやってあいつの目の前に登場するのがカッコイイか、とか。どうやってからかったら面白いか、とか。そんなことを考えていたのだが、そのどれも肉と一緒に飲みこんだ。いや、飲みこんでやった。
今日は晴れ舞台だ。今日くらい、変なことはしないでやろうか。
黒獣にとっては人間の儀式などどうでもいい。それがどうなろうと黒獣の知ったところではないし、むしろ何かアクシデントが起こるぐらいが見ていて面白くて、ちょうどいいくらいに思っている。
だがまぁ、今回は別ってことにしといてやる。俺はまぁ、一応、とりあえず、不覚にも、あいつのファーダだしな。
心の内で呟いたにもかかわらず「一応」や「不覚にも」の部分に余計なくらい力を込めている黒獣である。
すっとテーブルから降りると、ゆったりとした足取りで再び人々の足の間を縫って進む。不規則に動く足に何度か蹴られそうになったが、黒獣は何事もないようにそれを軽快にかわす。
緩やかに歩いていたかと思うと、不意にぴょんと飛び上がり足をかわし、一瞬だけ立ち止まって上から落ちてきた数滴のワインを避けた。
だがそうやって縫うように歩いていたのも少しの間で、黒獣は高く飛び上がると広間に集う人々の頭の上を、川の上の流木を飛び移る様にして跳ねていった。
あのまま床の上を華麗にしのびやかに進んでも良かったのだが、その華麗さを誰も見ていないところで披露しても仕方がない。周りにいる視えない人間たちは、これに関してはアトラクションの障害物でしかない。
(やっぱりどうせやるなら、アトラの前でやらんとつまんねぇしな)
まるで体重が無いかのように、さっそうと飛び跳ねていく黒獣を、彼の踏み台になっている人々は気付かない。ときおり黒獣が足場にした際にずれたティアラやメガネを直す者がいるくらいで、その存在には全く気がついていない。
当然だ。彼らには見えない、いや視えないのだから。
この世の理から外れた、生き物でない生き物。それが異形。
妖怪とも、悪魔とも、魔物とも、神とも、幻とも、妖精とも、様々な呼び名で呼ばれてきた彼ら。
そのどれも正しいが、そのどれも真を突いてはいない。そんな存在を、魔導師たちは総称として異形と呼んでいるのだ。
妖怪と、魔物と呼んでもいい。だが、そのどの呼称にも揶揄がつく。妖怪とは、東の国でずいぶん忌み嫌われた存在であり、魔物とは悪に使役されるものだ。
彼らは確かに害なす者が多い。だが、全てではない。それを理解している魔導師たちは、彼らを異形と呼ぶのだ。人や、他の動物たちとは、姿形と存在が異なっている者として。
そしてその姿も声も、才ある者にしか見えないし聞こえないというわけだ。
魔導師という職業は一般に知られてはいるが、胡散臭がられているのも事実。それは異形が見えない者が多いからに他ならない。
「あーとらー」
「あ、シャト!どこ行ってたんだよもう!」
人の上を飛び越えてアトラのもとに降り立った途端、アトラは立ち上がり黒獣を抱きかかえた。
「母上!来ました!」
「そうか。では始めよう」
アトラに呼ばれ談笑を中断して振り向いたルティアは、ふっと笑うと長い髪を揺らしながら台座へと上がった。
カツカツというルティアの足音が響き、場内に静寂が広がる。
只の足音がこんなに響くのは、母が何か術を使っているからなのだろうか。それとも母の持つ気丈な雰囲気がそうさせるのだろうか。
一歩ずつ近づいてくる母の顔に、うっすらと笑みが浮かんでいる。
アトラは思わず生唾を飲んだ。
望んでいた瞬間だ。だが、同時に恐れていたのかもしれない。だから、今抱えているこの黒獣が来るのを、待っていたのだ。
「シャトが来るまで待っててもらったんだからな。俺の晴れ姿が見れないと可哀そうだと思って」
「へーそう。ま、じゃあその晴れ姿を拝ましてもらうとするかね」
黒獣はアトラの声の上ずりや表情から、この子どもが緊張しているのには気付いている。いや、そんなものに頼らなくとも、抱きかかえられたときに気付いた。それを必死に意志の力で抑えつけているのにも。
そして、そっけなく応じながらも、黒獣は少し誇らしく思う。アトラが緊張の最中求めた救済が、自分であったことに。
ふっと顔をあげると、アトラに抱きかかえられた自分の正面に、ルティアが肉薄していた。その顔には相変わらず笑みが浮かんでいる。
「さぁ馬鹿ども、始めようか」
「…はい」
アトラはきゅっと抱きしめ、頭を一撫でしてから黒獣を床へ下ろした。
頭を撫でられようものなら、普段は文句の一つも言うところだが、黒獣は一言も口を開かずに身を任せる。
床に置かれ顔をあげると、いつの間にか周囲の視線は壇上に全て注がれている。
「我が息子、アトラ=エルフラウ」
「…はい」
始の言葉などなく、アトラの成人の儀は始まった。



「だぁあああ…疲れた…」
「はいはいお疲れ様だよ。あんまダレんな、誰が見てっかわかんねぇぞ?」
「大丈夫だよ…このテラスは儀式やった広間からは離れてるし…」
半ば閉じかかった目をだらりとさせながら、アトラは手すりに寄り掛かった。
腕を手すりの上に重ね、その上に顎を乗せてほうと息をつく。夜とはいえまだ気温の低くなる季節ではないので、息は白くはならない。
成人の儀は滞りなく終了した。
格式ばった言葉を並べるだけものではあったが、その言葉を自らの言葉で紡ぐと自然と身がしまる。
そして、母の口から聞かされるそれは、また重みが違う。
母の前で口に出すそれは、重みが違う。
後ろからの様々な視線を感じながらだと、覚悟が違う。
式の最中は色んな事が頭を巡っていたはずなのに、
「終わってみると疲れたってことしか残らないな…」
「儀式ってのは、どこもそんなもんだ」
緊張の中で言葉を紡ぎ、その後は儀式に参加していた人々と歓談の場がもたれた。貴族と呼ばれる身分の人々は、こぞってアトラと話そうと押しかけて来る。各々が自己紹介をし、各々に言葉を述べていたが、どれが誰だったかなんてアトラは殆ど覚えていない。
辟易したアトラは人の波が引いたのを見てルティアに断り、このテラスへ逃げて来たのだ。
「やっぱり珍しい動物みたいだ…」
「しょうがねぇよ。あいつら皆この家に取り入ろうと躍起になってんだ」
エルフラウ家は500年の歴史を持つ魔導師の家系だ。今となっては白き術師ルティアが当主であり、王のお抱え魔導師。仲良くなって損はない、いわゆる優良物件。そして普段接点のない家すらも積極的に行動に移せる日である今日、これを逃す彼らではない。
「やっぱそうだよね…。大人の社会って面倒だなあ」
「お前は今日その中に足を突っ込んだんだ。なにを今更言っている」
「そうだけどさあ」
そうなのだ。今日、自分は成人した。大人の世界に足を踏み出したということ。それはつまりああいった大人たちとも上手くやっていかなければならないということでもある。
まだ若い自分にはそこまで…とは思うけれど、成人であることに変わりはない。
それでもああいう媚び方はしたくないとは思う。
自分に寄って来た貴族たちの顔が、どうにも頭から離れない。表面だけの、取り繕った仮面の笑み。あの貴族たちの関わりある他の人々は、あの笑顔を仮面だと気付かないのだろうか。
いや、お互いに仮面をつけているのかも知れない。
まだ知らぬことの多い大人の世界の一端を見て、少々落ち込んでいたアトラだったが、ひとつ気になっていることがあった。それは、人ごみの向こう側に見えた一人の存在。
「まさか来てるとは思わないけど…」
「ん? 何がだ?」
ぼそりと呟いた言葉に黒獣が返す。黒獣はいつの間にか手すりの上で落ち着く体制で伏せていて、自分の顔の直ぐ近くにいた。
「いやさ…人の間にちょっと見たことある顔がいた気がしたから」
「あら、どんな顔だったのかしら?」
「いや、居るはずないんだけど、この前会った…」
そこでアトラは勢いよく振り返った。突如会話に食い込んできた声に驚いて。
「君…!」
「こんばんは、アトラ」
振り返ったそこにいたのは、少し青みがかった白ドレスに身を包んだ、長い黒髪の少女。
ゆっくりとした足取りで近づきながら、夜風に黒髪がなびいている。
それは先日に城の裏庭で出会ったあの少女だった。
部屋から漏れる明かりに後ろから照らされ、仄かな光を放っているようで、どこか幻想的だ。
少女がにこりと笑うと、アトラは「こ、こんにちは」と堅い口調で挨拶を返す。黒獣はなーるほど、とにんまり笑みを作った。
「黒猫さんも」
「おう」
黒獣はひゅんと尻尾を振ってあいさつを返すと、とんと手すりから降りる。その顔はなにやら面白そうに微笑んでいた。
「な、なんで君がここに…」
上ずった声で聞くアトラの顔は、少し赤みを帯びている。
「あら、お父様が来られないので、お城からの代表として私が来ることに以前から決まっていたはずだけれど」
「え、いや…え?」
「王家がいつもお世話になっているルティア様のご長男の成人の儀だもの。うちが欠席するわけにはいかないしね。本当はお父様も来たがっていたのだけれど」
残念そうに目を細めた少女は、ゆっくりとアトラに歩み寄る。ヒールで高くなった少女の視線は、それでもアトラより少し低い。
「ああ、そっか…王様の代わりか…」
どこなく残念そうに言ったアトラに並ぶと、少女はふふっと笑みを零した。
「でも、行きたいと言ったのは私。アトラが成人になるところを見てみたかったの」
「えっ…?」
少女の思ってもみない言葉に、アトラは目を丸くする。少女は相変わらず満面の笑みをアトラに向けていた。
「そういえば、主役がこんな所に居ていいのかしら?」
「ああ大丈夫。今はもう只の宴になってるから。成人したって言っても、俺は酒なんて飲めないし」
「そう。じゃあ時間はあるのね」
そう言って微笑みながら、少女はアトラの横まで来ると手すりに身を預ける。
「もう少し話をしてみたかったの、アトラと」
「話って…姫様がなんで俺なんかと…」
「ソアラ」
「えっ…?」
少女はアトラの両の頬に手を当てると、くっと自分の方に顔を向け、真っ直ぐな視線でアトラの瞳を射抜いた。黒い瞳に飲まれるように、アトラは目を離すことができなくなる。
「ソアラよ、ソアラ。それが私の名前。姫様なんて呼ばないで…お願い」
凛とした強い表情なのに、その瞳はまるで泣き出しそうに揺れていた。
「そ…あら」
「そうよ、アトラ」
アトラがその名を呟くと、ソアラは先ほどまでの何倍も眩しい笑顔を作った。
その顔は本当に嬉しそうで、夜なのに暖かな日の下にいるようにアトラには感じられる。
「あらあらまぁまぁ…」
 その隣で黒獣は誰にも聞こえないようにそっと呟く。その顔はどことなくにやけていた。

「アトラはいつぐらいから魔道の修行をしていたの?」
「うーん…物心ついた時にはもう母上にこれでもかってくらい教え込まれてた気がするなぁ」
「まぁ、そんなに前から?」
「うん。早いに越したことはない!って言って…こっちは良い迷惑だよ」
「あら、でもそれはアトラに早くから才能が備わっていたことを見抜いていたからじゃないかしら」
 アトラはぶんぶんと大きく首を振って全力で否定する。
「ないない!母上はいっつも『お前には才能がないんだからその分努力しないでどうするんだ』って言われるんだから」
「まぁ!」
 ソアラは驚きの声をあげるが、その顔は少し嬉しそうだ。
「やっぱりルティア様は努力家なのね」
「…なんでそうなるの?」
 少しずれた返答に、アトラは素直に質問する。
 自分に「努力しろ」と言ってはいるが、母が努力しているかどうかなんてわからないだろうに。
「だって、ルティア様自身が努力していないのに、アトラにそう言うとは思えないわ。きっと本人もたくさん努力してこられたのよ」
「そうかなぁ…母上が努力してる姿はちょっと想像できないけど」
「そんなことないわ。あんな風に素敵な女性になるには、やっぱりそれ相応の努力をしてきたはずよ?」
「素敵な女性!? 母上が!?」
 アトラは笑いをこらえるような驚愕を隠さない表情で叫ぶ。
「あんなにキつくて、命令ばっかで、飄々とこっちのことをあしらう様な人だよ!?」
「ふふ。でも、それはきっとアトラだからよ?」
 ああなるほど。俺だからあの人はおちょくるわけか。
 俺だから馬鹿にするし、俺だからあしらうし、俺だからさも適当にいろいろやるのか。
「アトラだから、気にせずにそういうことできるの。信頼の裏返しよ、きっと」
「信頼…ね」
 ちょっと信じられない。あの母が自分を信頼している?いつもあんなに馬鹿にされるのに?
 そう思うのに、ソアラに言われるとそうなのかもしれないと思う。会って間もないこの少女の言葉は、なぜか自分の胸にストンとはまる。
「まぁ、お前がそう思うのも無理ないわな」
 黒獣が手すりに上り、二人の間に座りながら言った。
「ルティアは俺にすら扱いが丁寧だったりするとこがあるからな」
「えええ?母上、シャトにも結構容赦なくないか?」
「お前と比べりゃ全然だよ。まぁ容赦はないがな…」
 何かを思い出したのか、黒獣の表情が少しひきつる。
 あ、やっぱり容赦はないんだ。俺と一緒にいるからかも。
「みんな仲がいいのね」
 アトラと黒獣のやりとりに、ソアラは目を細める。
 良く笑う子だ。アトラはそう思った。
 そしてその笑顔が、とても眩しい。いや、暖かい。見ているとこちらも笑顔になってしまう、そんな柔らかな暖かさをもった笑顔だ。
「ソアラはさ…っうわ!」
「きゃあ!」
「ぐ…!」
話の途中で、三人が悲鳴を上げる。
突如吹いて来た突風。
そしてガラスが割れるような甲高い破壊音が響く。だが後ろの窓は割れてはいない。
「母上の結界が…!?」
 アトラが驚愕の声をあげた。
 エルフラウ邸には、ルティアがかけた結界が張られている。庭ごと囲う様に張られたその結界は、常人には見えないが、悪しき異形を確実に遮断する。国の要人が集まる今日は、いつもより念入りにかけられていたはずだった。
 だが、それがいま破られた。ガラスの割れるような音は、その結界が砕け散る音だ。常人には聞くことのできない音だ。
 そして、結界が破られたことで感じられるようになった、凄まじい気配。冷たい外気のなかから明らかに異質な、黒い魔力がアトラたちの肌を打つ。
「なんだこの魔力…。くそ!結界が仇になった!こんなやつの接近に気付かんとは!」
 黒獣が悪態をつく。大きな魔力はその分感じられやすいものだ。だが、結界によって遮断されていたせいで、それに気づくことができなかった。
「シャト!どうなってんのこれ!」
「俺が知るか!どうもそれなりの奴がここに攻め込んできたんだよ!」
「それくらいはわかる!」
 二人は問答を交わしながらも、戦闘の構えをとる。
 アトラは術を使うために魔力の拍動を捉え、黒獣はいつ襲いかかられてもいいように身構える。
 だが、そんな二人とは対極的な人物がここにはいる。
「あ…………ぅ、…かふ…っ…」
「ソアラ!」
 苦しそうな呼吸音を出しながら、ソアラがその場に崩れ落ちた。
 完全に魔力にのまれてしまっていた。 
ソアラは魔道の素養をもっているのだ。素養のある者は、魔力を直に感じ取ってしまう。強い魔力の中にいることは、それだけで精神を削られてしまう。耐える訓練を積んでいないソアラには、この場にいることすら辛いはずだった。
「くそ!姫さんのこと忘れてた!アトラ!姫さんつれて家の中へ…」
 黒獣の言葉はそこで途切れる。闇夜に、黒く大きな影が迫ってきたからだ。
 黒い影は全長で6メートルほどはあるだろうか。大きな鷲の様な翼を広げ、鋭い鍵爪をもった、怪鳥だった。その怪鳥が風を切ってこちらに接近してきたのだ。凄まじいプレッシャーの中、アトラは崩れてうずくまっているソアラに駆け寄る。
「寄るな!」
 黒獣が怪鳥に向かって怒号と共に、その魔力を放出する。怪鳥のそれを上回る凄まじい魔力の奔流に、あちらの動きが止まる。
「フハハハ!コシャクナマネヲ!」
 ギリギリとした機械の不協和音のような声を出しながら、怪鳥はその翼を大きくふるった。
 その翼の先から、まるで刃の様な風が放たれる。いや、魔力を伴ったその風は、まぎれもない巨大な刃だ。
「アトラ!やばいぞ!」
「わかってる…!……っ」
 アトラはソアラをそっと寝かせると、それを庇うように立ち上がった。
「――気高き力、悪しきものを阻め――盾よ!アスピス!」
 アトラは両の手を重ね、怪鳥に向けてかざした。アトラから放たれた力が、手のひらの先で集約し、不可視の壁を築く。
 怪鳥の放った風と、アトラが築いた壁とがぶつかり、凄まじい轟音が響いた。アトラの壁が阻み、行き場を無くした風が霧散し衝撃派となって降り注ぐ。壁の方も、風の威力により粉砕されてしまった。
「くそ!一撃で盾を…」
「ええい未熟者!もうちっと丈夫な盾は築けんかったのか!」
「うるさいな!とっさだったんだから仕方ないだろ!」
 互いに怒鳴りながらも、目線だけは怪鳥から外さない。
「クカカカカ!コノクニニモ、ソレナリノまどうしガイタカ!」
 何がおかしいのか、喧しく笑う怪鳥は、あることに気付くとその笑いをニタァッという笑みに変えた。
「ホウ…ソコノコドモ、ナカナカウマソウナ魔力ダ。ニヒキイルコトダ、ミヤゲハ一匹デイイ。モウ一匹ハワシガ食ッテモカマウマイ」
「なにを…言っている…」
 アトラが声を漏らしたかどうかの刹那、怪鳥が大きな翼を広げて突っ込んできた。
 黒獣は再び魔力で阻もうと試みるが、今度はそれを突き破って怪鳥は迫ってくる。けたたましい鳴き声と共に、その鋭いくちばしを大きく開いている。
 迫ってくる怪鳥に向かい、アトラはとっさに右手を横薙ぎに払った。
「――剣よ!」
 払った腕の軌跡をたどる様に、力の刃が放たれる。
 だがそれは、怪鳥の嘴によってあっけなく噛み砕かれた。
「コンナモノデ、ドウニカデキルト思ッタカ!」
 なすすべなく、怪鳥はテラスへ激突してきた。石造りのテラスは音と共に崩れ、大きな破片が飛ぶ。まるで爆発したかのように、テラスの半分が吹き飛んだ。
「ぐ………シャト…ソアラ…」
 瓦礫の上に横たわり、上体を起こしながらアトラが呻く。
 砂ぼこりで覆われた視界のなか、崩れかけのテラスに鍵爪をかけてとまり、大きな瞳でこちらを覗く怪鳥の頭が、突如目の前に現れた。
 アトラは急いで立ち上がろうとするが、先ほどの衝撃で体を打ちつけたらしく、上手く力が入らない。
「マズハ一匹。ハラゴシラエダ」
 大きな嘴が、上下に開かれる。唾液が滴り、どす黒い色をした嘴の中には、大きな牙まで並んでいる。その奥では長い舌が唾液をからませてうねうねと動き、不気味にテカりを帯びている。
 あ、死ぬな。
 そう思った。諦めともなんともつかない感情が、心を覆う。絶望とは、こういうことを言うのだろうか。術を使う余裕もなく、叫ぶことすら出来ない。ただ体がこわばる。恐怖すら感じない。
 大きく開けられた嘴の影に、頭が入ったところで、頬に強い熱を感じた。
「グギャアアアアアアアア!!」
 大きな火柱が、アトラの目の前に立ち上っていた。紅く煌びやかな炎が、爛々と燃えている。
 体を炎に包まれた怪鳥が、悲鳴をあげて暴れまわっていた。
「うちの魔導師に…手ぇ出すんじゃねえよ」
 低い声が、自分のすぐ隣で聞こえた。
首を巡らせると、そこには大きな黒い獣がいた。
体躯は馬のそれよりも少し大きく、毛は黒く光り流れるように長い。尾もそれにならって長く、その脚は力強さを感じられる太さ。そして何より目を引くのは、その瞳。
凛と輝くその瞳の色は、夕焼けのような紅だった。
「シャト…」
「大丈夫か、アトラ」
「うん。シャト…変化するのが遅い!もうちょっとで食べられるとこだったじゃないか!」
「お前な…」
 黒獣が顔をひきつらせると、アトラはその足に寄り掛かる様にして立ち上がる。肩と足が酷く痛む。どうやら強くぶつけてしまったようだ。
 どうにか立つと、怪鳥に目をやった。シャトの作りだした炎に焼かれている怪鳥は、ぐるぐると暴れながらも、その魔力で炎を消しとばした。
「ガアアアアア!!貴様…キサマァ!シッテイルゾ!ソノ姿!」
 怪鳥がどうにか炎を吹き飛ばし、こちらに叫ぶ。その体はあちこちが煤けて焦げており、羽は大部分が燃え落ちていた。
「あん?俺はお前の面に見覚えはない」
「貴様、冥府ノ番人けるべろすダナ!?ニゲダシタトキイテイタガ、アンナ姿デミヲカクシテイタトハナ!滑稽ナコトダ!」
「黙れ、鶏風情が。貴様にとやかく言われる筋はない」
「否定ヲシナイトコロ、ヤハリソウカ!クカカカカ!」
 怪鳥は大きく笑うと、羽を広げた。
 攻撃が来ると思い身構えたアトラと黒獣だが、怪鳥はくるりと向きを変えると、猛スピードで飛んだ。
 その先には…
「しまっ…!」
「ソアラ!」
 怪鳥はその大きな鍵爪で、気絶し横たわっていたソアラを掴むと、大空へと羽ばたいた。
「けるべろす相手デハ、チトブガ悪イ!今回ハ我ガ主人ヘノミヤゲダケデヨシトシヨウ!」
 闇夜の空からそう言い残すと、怪鳥は素早く飛び去った。
「くそ…!ソアラ!」
「ちぃ!あの鶏野郎…どこに姫を連れてく気だ?」
「シャト!追おう!」
 アトラはすぐさま追いかけようと、足を踏み出す。だが、痛みのあまりそのまま前に転がった。
「お前、その体じゃ無理だ。ルティアに相談して…」
「追うんだ!今すぐ!じゃないと……間に合わない気がする…」
 アトラはすがるような目で、黒獣を見ていた。
だがその瞳の奥には、「助けるんだ」という強い意志が見える。黒い瞳からは、確かな力が放たれている。
「…根拠は?」
「ない!」
「ち…魔導師の勘は馬鹿にできねぇからな…。乗れ、アトラ」
「うん!」
 黒獣は身をかがめると、アトラをその背に乗せる。アトラがしっかりと自分にまたがったことを確認してから、地面を蹴った。
 飛ぶことは出来ないが、アトラの足で走って追うよりは遥に早く、屋根の上を跳んでいく。アトラは振り落とされないように捕まるので精いっぱいだ。
「どっちだ」
「多分…ギギル山のほう…!」
 アトラは風圧で押される中、どうにか声を出す。ギギル山とは、街のすぐ近くにある、小さな山のことだ。だが山を覆う森は険しく、人の手は殆ど入っていない。
「確かにそっちからあいつの魔力が感じられるな…よし、つかまってろ!」
 黒獣はスピードをあげ、夜の屋根の上を駆けた。