みっつめの話

「おおー、流石に活気があるなぁ」
「そうだね。この時間は市が一番多く出る時間だから、人も多いかな」
「久々だと人ごみも悪くなく思えてくるから不思議だー」
「人の肩に乗っておいて何を…」
「硬いこと言うなって」
屋敷を出て、城壁を潜ってやっと街の活気を感じることが出来た。
この街は石造りの城壁が、町を取り囲むように建っている。
百数年昔、何者かに城を攻め立てられた際に建てられたものらしい。
当時の文献も残っているのだが、不確かな情報が多くその正体は未だに解明されていない。
アトラの家、つまりエルフラウ家の屋敷は、城壁に近い位置、つまり端っこの方ににあった。
「にしてもやっぱり遠い…。王家を守る立場にあるのに、家があんなに遠くていいのだろうか」
「前にも言っただろう、あの場所はエルフラウ家が代々だな…」
「わかってます、わかってますってば。ちょっと疲れただけです」
歩くことに対する愚痴に、常々思っていることがくっついて出てしまった。
さらにそれを聞いたルティアが説教をしようとし始めたので、アトラは慌てて言い直す。
「なっさけないなー。こんぐらいで疲れてどうするんだよ」
「そういうことは…」
アトラは肩に乗っていた黒獣を払い落としながら言った。
「自分で歩いてから言えっ!」


   出会う


城に着いたのは結局、昼を少し過ぎたころだった。
道中は道々に並ぶ露店に目を奪われもしたが、立ち止まることは無かったのでそう時間はかかっていない。
城の周りにはまたさらに防壁が築かれていて、いざというときは砦となり堅固な要塞となる。
外側の壁よりも薄いものの、密度の高い造り方をされているうえ、なにより術による防御がなされている。
力の弱い異形たちは通ることも出来ないだろう。
だがそれも害のあるものにとっての話で、いたずらしかしないような、逆に低級すぎる異形はちょくちょく中に入り込んでいるという話だ。
小さな獣のような容姿をとることが多い彼らは、人間をからかうのを楽しんでいるのだという。
「あいつら危機感ねぇからな。大抵は城で遊んでるわなぁ」
「へぇ、本当に居るんだ」
「いるいる。うようよいる。わんさかいる。うじゃうじゃいる」
「何か嫌な言い方しないでくれシャト…」
まるで虫でも湧くかのごとくに言うシャトに、アトラは顔をしかめる。
「あ、でもお前とかが行ったらわらわら寄ってくるんじゃね?」
「へ、なんで?」
「珍しがって寄ってくるぞきっと。ルティアの子供だし」
「…またそれか」
「まぁ、諦めろ。成人したらもっと痛切に感じることになるだろうからよ」
それはまぁ、確かに。
アトラは心の内で頷いた。成人して、家から外に出ればルティア=エルフラウの影響力をきっと身をもって知ることになるのだろう。
自分の前を、悠々と歩いている母を見ながら、アトラはそっと溜息をついた。
だがまあ今気にしても仕方がないので、それは思考の隅へとおいやる。
「でも大丈夫なの?」
いくら異形とはいえ、害が無いのなら滅したくはない。
たとえ自分が滅さなかったとしても、他の術師が滅さないとも限らない。まして城の中となればお抱えの凄い術師がいても不思議ではない。
「さーなー。あれだけいたらどうこーしようって気も起きないんじゃないか?それほどの害はねぇし。滅しても滅しても、後からわんさか来るからな。キリがないってものあんだろうよ」
「なるほど…」
そんな会話をしながら、城門の前にとまる。
とりあえず、門の上に大きさのおかしいトカゲの様なものが見えたが、見なかったことにした。
城の周りは堀に囲まれていて、その向こうに城壁が立っている。
跳ね橋は上がっており、このままでは城に入ることは出来ない。
ルティアは一歩前に出ると、凛とした声を張り上げた。
「白き術師が一人、ルティア=エルフラウだ! 王の招待にあずかり参上した!橋を下ろして頂きたい!」
城壁の上に作られている見張り台から、兵士がルティアを確認したのか、ギギッ!と何かがきしむ音、続いて機械音がする。
やがてゆっくりと目の前にそびえていた木の壁が、こちら側に倒れてきた。どうやらこれが跳ね橋だったらしい。
「お前…もしかしてどうやって渡るのか知らなかったのか?」
「え?シャトは知ってたの?」
「当たり前だ。というか、それくらいは常識の内だろうが」
「そうなの…?城には…来たことないからなぁ…」
頭を掻きながら言うアトラは、本当に珍しそうにあたりを見ている。
下りてくる跳ね橋を、城壁の装飾を、堀に貯まる水を。
やがて跳ね橋は大きな音を立てて、ルティアの足元まで下りた。
向こうから一人の鎧を着た兵が駆け寄ってきてルティアと何やら問答を交わし、書類に何かを書き込むと、ルティアを促して城へと向かっていった。
アトラも、慌てて後に続く。門をくぐる時に他の門兵に訝しげな眼で見られたが、軽く会釈だけして通り過ぎた。
「あれ、シャト?」
ふと気付くと、肩に乗っていたはずの黒獣がいない。
どこにいったのかと首を巡らせると、すでに通り過ぎて背後になった門兵に近づいている。
そしてふわり、とその頭に乗った。
(な…!?)
アトラは驚愕して声を失う。
だがアトラの心配とは裏腹に、門兵は頭の上でしっぽを揺らしている黒獣には気づかないようだった。
「へへーアトラ。今じゃ魔物は大抵の奴にみえるが、鈍い奴は気付かないこともあるんだぜ?」
シャトは満足そうに言うと、足を折って門兵の頭の上で身体を伏せる。
「オレみたいに凄い奴でも、こうやって気付かれないこともあんのよ。こいつ魔物見えない奴みたいだけどな」
自慢げに鼻を鳴らした黒獣を、アトラは不安そうに見つめる。
いかに気付かれないといっても、度が過ぎればやはり何かに感づくことはあるのだ。
兜でもずらさないかと気が気ではない。魔物が見えなくても、魔物の存在は知っているのだから、問題にならないとはいえない。
(ちょっ…早く帰ってこいシャト!)
小声で叫ぶアトラ。
その間にも、黒獣はひょいひょいと門兵の上を踊る様に跳躍する。
「はーいはい」
黒獣はしれっと返答し、ひょいひょいと軽快に飛んでアトラの元に戻った。
再びアトラの肩に飛び乗って、ふむふむと足を確かめる。
「なに?」
「いやー、やっぱりお前の方が乗り心地がいいなと思ってよ」
「俺は乗り物じゃないっ!」
「まぁまぁ」
憤慨しながらも今度は振り払わずに先に進む。
これ以上遅れるのは少々頂けない。待たせているのはなんたって王なのだ。
門を潜り城壁の内側に入ると、そこに広がる中庭は壮観なもので、思わず息をのむ。
大きな噴水、綺麗に刈り込まれた芝生、端の方にあるのは井戸だろうか。
植え込みは美しく、いくつかはアートのように馬や鳥の形になっている。
両脇に広がるそんな光景を眺めながら、城まで一直線に伸びる広々とした道を歩く。
そこでまたアトラは息をのんだ。
城とは、こんなに大きいものだったのか。いままで城壁の中など入ったことがないから、こんなに近くで見るのは初めてだ。近くで見ると、その大きさが一段と実感できる。扉の大きさがまず常識外だ。象は見たことがないが、象だってこんな大きな扉を必要とはしないだろう。
城の壁や窓に施された装飾も、アトラには何を表しているのかわからないが、なんとなく凄いものなんだろうなとは思う。
自分の屋敷もそれなりの大きさだと思っていたアトラだが、上には上がいることを思い知らされるようで、なんだか唖然とした。
「でもまぁ…相手は一国の長なわけだし…。比べるのが変か」
「あー?…お前な、城と家を比べてどうする」
「え?」
アトラの考えていたことを読んだように、黒獣は呆れて言った。
その長い尾でアトラの頭をペシペシと叩く。
「城ってのは、要塞としての守りを備え、なによりも権力を示すためにあるんだぞ?城の大きさ、装飾、構造、その他いろんなもので国と王家の力を、民衆や他国に見せつけてるわけよ」
「へぇ」
「エルフラウの家は、どっちかっていったら生活重視だろ?ま、もちろん装飾品はあったみたいだがな…貴族だし」
「でもなんでそんなもの?母上はそういうの興味なさそうだけど」
権力を誇示するための調度品。ならば自分の母はそれを欲しないのではないだろうか。
そんな疑問が頭をよぎる。
確かに自分の家には、ある程度の調度品が揃っている。自分にはどれほどの価値の物なのかはわからないが。
「ルティアが無くても、他の奴にはあるんだよ。貴族の奴らを家に招待して、飾りがなんにも無かったら舐められるだろ?」
「ああ、なるほど」
黒獣の言葉に納得しながら、アトラは扉を見上げた。凄まじい大きさだ。重量も半端なものではない筈。
これは…開くんだろうか。開くならどうやって開けるのか。少なくとも自分の力では開く気がしない。
「どこに行く気だアトラ。こっちだこっち」
声のした方に首を巡らせると、ルティアは扉に向かう道ではなく、途中から延びる脇道に入って行った。
「え?ここが入り口じゃないんですか?」
「そこは公式な行事でもない限り開かん。普段は、その脇にある通用口だ」
「あ、ホントだ」
大きな扉の圧迫感で気付かなかったが、確かにすぐ脇に普通サイズの扉がついている。
その隣に兵の詰め所があり、出入りする人間を管理しているようだ。
だがルティアはそこでもない、別の場所に向かっている。
アトラが不思議そうな顔をすると、ルティアは呆れたように、だが面白そうに笑った。
「阿呆。正面から入ったら『こっそり』にならんだろう。こっちにも入り口がある。ここから入るぞ」
納得できるような出来ないような、とにかく母に続いてアトラは城の中に足を踏み入れた。


廊下にはやはり美しい調度品や装飾が施されていて、いちいち目を奪われる。
そんなアトラを見やったルティアは、口元に笑みを浮かべほんの少し足を速めた。
いくつか階段を上り、いくつか廊下を通り、一つの扉の前でルティアが足を止めた。
「ここは?」
「見ればわかるさ」
ルティアはなんの躊躇もなく、扉を開けはなった。
「ここって…」
目の前には左右に長く伸びる赤い絨毯。左手を見れば重そうな扉が。右手を見ればそこには…
「王座!?…ってことはやっぱりここ謁見の間!?」
階段の上、伸びた絨毯の先に二つ並んだ、大きな玉座。
片方は王。もう片方は王妃の座るべき場所。
高い天井と広い部屋。
この部屋は、間違いなく城の中心である。
「いいんですか!?こんなとこ勝手に入って!?」
驚きと、不安と、そしてワクワクとした好奇心とが入り混じった声をあげるアトラ。
「別に通り抜けるだけだ。王の私室に行くにはここを通らねばならんからな」
ルティアは振り返ることもせずに、さっさと絨毯を挟んだ反対側の扉に向かってしまった。
黒獣は、その白い髪の間に見えた、彼女の笑みを見逃さなかった。
アトラも慌てて後を追うが、なんだか尊厳な部屋を通り抜けるのが悪いことをしているように感じられる。
だが、めったに見られないこの部屋を見ることができたのは、僥倖と言えるだろう。
普通なら、成人して王に謁見する時でない限り見られないのだから。
当然、心も踊る。
「感謝するんだな」
「へ?」
唐突に耳元でささやかれた言葉に、アトラは声を上げる。
「ルティアに、だよ。謁見の間を通らないと私室にいけないなんてこと、あるわけねぇだろ?」
「あ…じゃあ…」
「お前に見せるために、わざと通ってんだろ。良く見とけ」
我が母親ながら、なんてわかり難い気遣いだろうか。無口にも程がある。
「うん、そうだね」
だがしかし素直に頷いたアトラは、心の内で母へ感謝を述べながら、もう一度部屋を見回した。
凄いという印象だけで、あまり実感がわかない。
アトラはさっとだけもう一度首を巡らせ、ルティアノ後に続おうと扉に向かった。
「なんだよ、もういいのか?」
「うん。今は…いい」
アトラの言わんとするところを読み取り、黒獣は口端を釣り上げる。
「自分の力で…か?」
「うん。連れてきてもらうんじゃなくて、いずれ自分の足で正面からここに来るさ。じゃないと、意味がない」
「でっけぇ目標だこって」
「高いからこその、目標だろ!」
「ま、せいぜい頑張れや。へっぽこ半人前」
と、そこでアトラは足を止め、王座を見やった。
黒獣の位置からはアトラの顔が見えない。
「シャト」
普段とは少し違った響きを持つ声。
アトラの黒い髪が、ゆらりと揺れた気がした。王座を見たまま、アトラは呟く。
「絶対、一人前になってやるさ。強くなってやる。だから…」
アトラは黒獣の頭をわしわしと撫でながら笑った。
「ちゃんと隣で見てろよ」
「……」
ぐしゃぐしゃと頭をかき回されながら、黒獣は何も言わなかった。
扉をくぐると、ルティアが壁を背に寄り掛かりながら立っている。
「どうだ謁見の間は?」
「凄かったです」
素直な感想だけ述べると、ルティアは声を出して笑った。
「まったく。偉そうなことを言ったんだ、最期までやり遂げろよ」
地獄耳とはこのことか。扉を隔てていたはずなのに、どうして。
さっそうと階段を上がっていくその背中は、やはり追いつくのは大変だろうなと思わせるのに十分で。
「……聞かれてた」
「みたいだな。まあ頑張れ」
黒獣はそのあと、そっと「見ててやるからよ」と付け足した。


階段の上にある扉は小さかったけれど、その形から明らかに位の高い人物の部屋だと推測できた。
ルティアがその扉をノックする。
「入りなさい」
返事は、アトラが想像していたよりも若い声のものだった。
扉の中の書斎を思わせるその部屋にいたのは、ブロンドの髪を肩で切りそろえた男。
纏っている衣服には光沢があり、一目で上質のものだとわかる。
「おお、待ちかねたぞ」
「申し訳ない。街のにぎわいが予想外に凄かったものですから。さっそくですが、これが我が愚息です」
ルティアに促され、アトラは一礼する。
一国の王というくらいだから、もっと強面の厳つい人物なのかと思ったが、予想に反して穏やかそうだ。
「アトラといったな」
「は、はい!」
「私がこの国の王、ミーテ=コーミングだ。よろしくたのむぞ」
にこやかに手を差し出され、アトラはシャトに言われてようやく握手を求められていることに気付いた。
「ア、アトラ=エルフラウです。お初にお目にかかります…王様」
「はっはっは!そう固くなるな」
握手を終えると、王は高らかに笑った。
「ここでは人目を気にせんでいいからな。私は堅苦しいのがあまり好きではない。ルティアにも公式の場以外では、話しやすい言葉で話すよう言っておるのだが…」
「そうもいきませんよ。まぁ、いくらか楽な口調になってはいるのですよ、これでも」
「確かに。昔に比べればだいぶマシになった」
王は笑いをかみ殺し、喉で音を鳴らす。
ずいぶんと良く笑う王だなぁ。
アトラは拍子抜けしていた。緊張はまだしているのだが、あまりに予想と違う王の態度に、いささか面喰ったというのが正しいだろうか。
その王が、あごに手をやりながら、まじまじとアトラの顔を覗きこんでいた。
「本当に…黒いな」
アトラはハッとした。隠そうにも、王の前でそんなことをすれば失礼だろうか。それに隠れる場所もない。
自分の髪の色は、昔から色々と言われていた。家の者こそ何も言わないが、一歩外に出ればひどいものだった。
エルフラウ家は、代々白い髪の当主だ。ルティアもその一人。
白き術師としてエルフラウの名は広がり、この国の魔導師なら知らないものはいないだろう。
だが、そこに生まれた、白とは正反対の色の髪をもった子。
それが自分であることを、アトラは自覚している。そのことがもたらす影響も。
家の外で自分がなんと言われているか知っている。家の人がそれをなるべく自分の耳に入らないようにしていることも知っている。
自分の髪のせいで、王の心証が悪くなったらどうしようか。王のこの笑顔が仮面だったらどうしようか。
自分だけでない。一族のもの全員に迷惑がかかる。
それは…嫌だ。だが自分ではどうしようもない。
そんなことを思っていると突如、
「うちの娘と同じ髪色だ」
そう言われ、ぽすっ、と頭に手を乗せられた。
「え?」
「私にもお前と同じ年ほどの娘がおってな。その子も、珍しいことに黒い髪をしておる」
「生まれた時は大騒ぎでしたね」
ルティアが、思い出すようにそっと言った。
王は「ふむ」とうなり、呆れたように目を伏せた。
「城の者は『災いだ』、『悪魔の子だ』と騒ぎ立ておってな。私も…当時は困った。だが、ルティアの助言とお前のお陰で助かったのだ」
「お…私が?」
俺と言いそうになったのを、どうにか言い直し、アトラはルティアに向き直りって目で問いかける。
「ああ。『うちにも黒い髪の子が生まれた』と言って差し上げたのさ。髪の色がブロンドの家系から黒い子が生まれるより、白い家系から生まれる方が大変でしょう?とな」
「あの言葉で救われた」
まるで大したことでないとでも言うように、しれっと言ってのけたルティアに、王は満足そうに頷いている。
王はアトラに背を向けると、ぼそぼそと辛いことを話すように数歩歩いた。
「私は、どうしたことか城の者たちの言を真に受けて……娘をどうにかしようと考え始めていた」
えっ、と顔をあげたアトラに、ミーテは振り向かずに続ける。
「父として、あってはならない考えだ。だが…王としての間違った焦りが、私をそちらに傾けた。本当に、そうならなくて良かった」
娘をどうにかする。
その言葉の持つ意味は、きっとアトラの思っているものより大きいだろう。
王という重責は、実の娘への愛情をも上回ることがあるのだろうか。
「今な、娘の笑顔を見ると、本当に幸せなのだよ」
振り返ったミーテの顔は、王ではなく、一人の父親のものだった。


どうやら二人はまだ話があるようだ。
それは公的なことで、私的なことらしく、アトラのいない方が都合がいいらしい。
話が終わるまでさきほどの中庭でも見せてもらおうかと思ったのだが、
「それなら裏の方を見てみるといい。中庭は門兵の目もあってゆっくりできないだろう」
と王に言われたので、素直に裏側の庭に来ている。
「それにしても…優しそうな王様だったね」
「逆にあんなんで国が治めされるのか心配だがな」
「大丈夫だと思うよ。あの人なら」
黒獣の言葉になんとなくで返答したアトラだったが、言ってみると自然とそう思えてきた。
心配だと言っていた黒獣も、本心ではなかったのかフッと笑って頷いた。
「それにしてもシャト、王様の前では静かだったね?」
いつも煩いこの黒獣なら、王の前だろうと騒いでいてもいいのだが。門兵のときのように。
だがこの黒獣は、王の部屋に入ってすぐに自らを薄め、魔力の高い者にしか見えない姿をとった。
だからアトラの小脇にずっといたにも関わらず、王は関心をしめさなかったのだ。
普段そんなことをしない黒獣が、なぜ。
「いや。ルティアが…物凄い形相で睨んできてだな…」
「ああ…」
なるほど。それではしょうがない。
アトラは知っている。自分の母の睨みが、他の誰よりも恐ろしいことを。白い髪の間から覗く、双眸から放たれる光。眉間に寄ったしわ。角度を作り出来る影。
その全てが、全身の感覚を伝って恐怖というものを刷り込む。
しかも次の瞬間には、普段通りの笑顔になるのだから尚のこと恐ろしい。
「なんか…ふざけられんかった」
「いや、ふざけないでよ」
アトラは嘆息すると、足元の小川に目をやった。
城の裏側の庭は表と違い、整理されたというよりは、作り上げたという感じがする。
正確さはないが、思いを込めて草木を植えて、好きな空間を作り出した感がある。
「俺はこっちの方が好きかなぁ」
「そうだな。オレもだ」
「あら、ありがとう」
「どういたしまし…てぇ!?」
誰にともなく呟いた台詞に思わぬ返答が返ってきたので、思わず普通に返しそうになってから驚く。
声のした方に振り向くと、そこには動きやすそうなドレスに身を包んだ、長い黒髪の少女が立っていた。
少女は嬉しそうに微笑んでいる。まだあどけなさの残る、可愛らしい女の子だ。歳はアトラと同じくらいだろうか。
「ここはね、私が手入れをしているのよ?」
「そ、そうなんだ…」
「あなた達に好きと言ってもらえて嬉しいわ」
「あ…いや……うん、どういたしまして」
少女はアトラの返答に微笑む。
「もしかして、あなた今日来るっていってたルティア様の子?」
「あ、うん。アトラ、アトラ=エルフラウ」
「そう、アトラっていうのね。よろしく、アトラ」
少女は黒獣の前に屈みこみ、優しげにその頭を撫でた。
黒獣が誰かに身体を触らせるとは、珍しい。
「あなたも、こんにちは。只の猫じゃないってことは…あなたは異形の類いなのかしらね?」
「半分正解だ」
「あら、お話できるのね。離せる異形は、魔物っていうんだったかしら」
「そのとおり。だがそれもちょっと違う。オレはこいつのファーダだ…遺憾なことにも」
「遺憾ってなんだ遺憾って!」
「…ファーダ?」
不思議そうに訪ねる少女に、アトラは説明する。
ファーダというのは、人の支配下にくだった魔物や異形のこと。その人とは大抵は魔導師で、ファーダはその魔導師のパートナーとして敵に立ち向かう。使い魔、式神、守護霊などと呼ばれることもあるものだ。
「ま、早い話が魔導師の相棒ってことかな」
「遺憾ながらな」
「じゃあ止めれば!?」
「だーめだめーー。アトラは俺が居ないと危なっかしくて仕方ないからな。ちゃんと面倒見てやらないと」
「それはどうも…」
アトラにため息をつかせたところで、黒獣は少女を見やった。
自分たちのやり取りで、肩を揺らしながら笑っている。
城にいる、黒髪の少女。それはつまり先ほど話しにあった、王の娘か。
「姫さんだよな?あんた魔物に偏見ないんだなぁ…見たとこ力も強そうだし」
「魔物は怖いわよ?でも、あなたはなんだか平気。それに力について私はよく分からないの。魔道も使えないし。それにしても…」
姫は黒獣とアトラを交互に見やり、嬉しそうに笑った。
薄い生地のドレスが、ふわりと風に踊る。
「あなた達も黒い毛の色をしているのね。私、自分以外では初めて見たわ」
「俺もだよ。人間じゃ初めて。これは人じゃないし」
「これ言うなっ!…だがまぁそうだろうな。この辺じゃ黒髪なんてのはそうそういないだろうよ」
黒髪。
それがこの地域でどれくらい異端なものか、この少女も知っているのだろうか。
いや、知らないはずがない。
ただの貴族の端にいる自分ですら知っているのだ。皇族ともなれば、その比ではない苦しみを味わったのではないだろうか。
そう思うと、立場に天と地ほどの隔たりがあるにもかかわらず、親近感を覚える。
せっかくだ。もう少し話がしたい。
そう思い口を開こうと思った瞬間、
「……だっ!!」
アトラのこめかみに、電気が走ったような、ボールのようなものがぶつかった様な、そんな衝撃が走った。
ガインという効果音とともにアトラが頭から宙に吹っ飛ぶ。
「え…?な、なに、どうしたの?」
突然の出来事に困惑する少女。アトラは頭を抑えながら立ち上がると、しかめ面を城の方に向けた。
「は…母上だな…」
この衝撃は、おそらくルティアの魔道によって起こされたもの。
多分戻って来いという合図なのだろうが…もう少し優しく知らせてもらいたいものだ。
これでは殴られたのと変わらない。
「え…ルティア様?」
「うん。多分戻って来いって。ごめんね、俺もう行かないと。おじゃましました」
少女に別れの言葉を述べると、アトラは黒獣を伴ってそそくさと庭を離れた。何事においても、遅れると母は煩い。
小走りのさなか振り返ってみる。少女はまだ同じところに立っていた。
なんとなしに小さく手を振ってみると、少女は遠目でも解かるくらい微笑み、こちらも小さく手を振り返した。
長い黒髪と、淡いドレスが風にたなびいて、ふわりとした印象を与える。
城への扉をくぐったとき、アトラの胸は高揚感で包まれていた。
「可愛い姫様だったなー……。まんざらでもないんじゃねぇの?」
脇を走る黒獣の言葉に、アトラは顔を赤らめながら無言で返した。