ふたつめの話

今日、アトラは久しぶりに日の光で目が覚めた。アトラの短めの黒髪に日の光が反射する。
窓からの光に思わず顔をしかめた。
部屋のカーテンが開いている。昨日寝る前に閉めたと思ったのだが…忘れたのだろうか。
しばらく朝日の眩しさに顔をしかめて、起き上がろうとすると腹に重さを感じた。
その重さの正体を見て、あぁと納得がいく。
黒い毛の猫が身を丸めて寝ていた。
普通の猫よりもすこし大きく、左耳の裏が赤い色の黒猫。
カーテンが開いていたのは、おそらくコイツのせい。
スヤスヤと気持ちよさそうに寝息を立てる黒猫の頭をそっと撫でてやった。


この地域では晴れる日は少なく、空は常に雲に覆われ雨が降っていた。
さぁさぁと小雨程度の雨が続き、ときおり雨だけが上がるが空は曇り空のまま。
時には豪雨になることもある。
豪雨の名残が残っていてる空は、厚い雲に覆われたままだった。

でも

昨日の夜は 雲も無くて、星も月も綺麗で。
一仕事終えた後の帰り道、この猫はすがる様な瞳で見ていた。



―――映えるな……闇の中に、あんなに光が浮いている





  『あくる日の朝』




ぼそりと零すように言って、その後も家に帰るまでずっと空を見上げていた。
だからおそらく、あのカーテンは夜空を見たかったこの黒猫が開けたのだろう。
美しい夜空は一晩中見ていても飽きなかったらしい。
満足して眠ったのは多分、空が白み始めて星たちが見えなくなってからだ。
…満足してくれたのは非常に自分としても嬉しいし、微笑ましいのだが
何も人の上で丸くならなくてもいいんじゃないかと思うアトラである。
自分の腹の上で、腹を上にして寝息を立てる黒い猫。
動物にしては、あまりにも無防備なその姿にアトラは苦笑した。
笑った振動のせいか、猫が寝返りを打ちアトラの体からベットに転がる。
そしてまたクルリと向こう側に寝返りをうつ。もう一度。さらに一度。
よくもまぁ回るもんだと感心してしまう程に。
そしてもう一回、というところで獣がアトラの視界から消えた。
いや、ベットから落ちた。
「あ、こら危な…!」
「ふぎゃっ…!!」
制止は間に合うはずもなく、猫は床からの衝撃に悲鳴を上げた。
獣らしいといえば獣らしい悲鳴。
だが、次は違った。
「……痛っっってぇぇーーーーーー!!!!」
「…あらら」
猫にあるまじき悲鳴を上げて黒猫は涙目でアトラに抗議する。
「おいアトラ! 人が気持ちよく寝てるのにこんな起こし方は無いだろ!」
「いや…シャトが勝手に落ちたんだし」
「じゃあなんで落ちる前に止めないんだよ!」
八つ当たりともいえる講義をアトラは聞き流す。
シャトと呼んだ黒猫の抗議にアトラはため息をつくと、ベットから降りて立ち上がった。
ぎゃーぎゃーわめいているシャトを見下ろすと、もう一つため息が出てしまう。
首の後ろをヒョイと持ち上げて、自分の目線まで持ち上げる。
「…うっさい自業自得」
「いんや!アトラが悪…ぃぉぐふっ!!」
シャトの反論を聞き終える前にアトラは手を放した。
支えを失ったシャトの体は、重力にしたがってまっすぐに床に叩きつけられる。
獣姿の胴体がべしゃりと床につぶれた。
「お……お前…最近扱いが酷くないか?」
「別にそんなことないよーだ。そんなこと言ったらシャトだって口が悪いじゃん。あんま騒ぐと町に連れて行かないからね?」
「…へいへい。わかりましたよ」
「あ、町には行きたいんだ」
素直におとなしくなった猫を苦笑しながら撫でると「着替えるから待ってて」と言いながら、アトラは鏡に被せてあった布を取り払う。
鏡の前で、寝ぐせのついていない柔らかい髪を、手でとかして整えた。

今日は久しぶりに町へ出かけようと計画している。
アトラの住んでいる屋敷は町から少し離れた郊外に建っているので自ら足を向けないと、町の活気からは自然と遠のいてしまう。
もっとも、街自体はこの三日ほど駆け巡ってはいたのだが、真夜中なので実感がない。
最近は家の仕事も忙しくかったので、まともに昼の町に出ていなかった。
なので、久々の外出に、少々浮き足立っているアトラである。
寝巻きにしているシャツのボタンを外しながらクローッゼットの前へ。
シャツを脱いだアトラの体には包帯が巻かれていた。
右肩を重点的に巻かれたそれは、アトラの体にどれだけの傷が刻まれているのかを安易に示してる。
完治とまではいかないが、治りかけている傷。
その傷を悲痛な心境で見つめる顔があった。
「・・・・・・・・・・・・っぶぇ」
シャトに、脱いだシャツが被せられる。
クローゼットからはそれなりに距離があるというのに、正確にここまで投げたコントロールに半ば驚嘆しながら、シャツからもぞもぞと這い出したシャトが抗議の声を上げた。
「なにすんだよ」
「…いつまで気にしてんの。いい加減にコレ見るたびにそういう顔するの止める」
包帯がずれないように気をつけながら、新たなシャツを着て、その上に濃い色のベストを着込む。
黒いズボンに履き替えて、鏡で身なりを見直す。
白いシャツに緑の地のベストで動きやすさ重視の服装だ。
本当はもっとラフな格好にしたいのだが、立場上そうもいかなかった。
「気にしてないって言ってんだし。もうほとんど治ってるんだし」
「別に…」
「ほら、行くよ?」
着替えを終えたアトラはシャトを乱暴に掴むと、頭の上に乗せる。
猫の姿の割りに意外と軽くて苦にならないので、最近の移動はもっぱらこのスタイルだ。
「……悪かった」
「…何回も聞いた。このことで今度言ったらまた落とすから」
金色のドアノブのひんやりとした感触を手のひらに感じながらアトラは廊下へと続くドアを開ける。
廊下の反対の柵から身を乗り出す。
そこは、一階からここまで、そして更に上まで続く吹き抜け。
玄関が開けられたのか、風が流れてシャトのヒゲを震わし、アトラの髪が軽くひるがえる。
その前髪の下には、なぜか少し楽しそうな表情。
「今度は こ こ か ら 」
にこやかに宣言された。
シャトはアトラの頭にしっかりとしがみ付いた。
その顔は引きつっていた。
いくらなんでも、こんな所から落とされるのは勘弁願いたい。
確かに自分はここから落とされたくらいでは、どうこうなることも無いのだが。
それでもやっぱり出来ることなら落ちたくない。
それでなくとも、今もアトラがちょっと首を振れば落ちそうなのだ。
危うく爪を立てそうになるが、それだけは絶対にしない。
そんなこと、しようものなら今すぐに落とされるのは確実だ。
いや、その前に痛みで暴れたアトラからずり落ちる可能性のほうが高いだろう。
「…わかった。わかったから勘弁しろ」
その言葉を聴いて満足したアトラは、シャトを頭へ乗せたまま階段へと向かった。
この傷は、いつまでこの優しい黒い獣の枷になってしまうのだろうか。
それだけは…
らせん状の階段を下りながら、アトラは思った。

手を伸ばしシャトの頭をわしゃわしゃと撫でる。
シャトは顔をしかめたが、特に抵抗もせずに撫でられていた。
それが嬉しく感じられる。
この喋る猫と出会ってから、なんだか不思議な感覚に包まれている。
毎日が楽しい。こんな気持ち、昔は少しも無かった気がする。
悔しいけど。お前のおかげなんだろうなと
あくまで心の中でアトラは呟いた。
「朝餉は何かなー」
「んー…魚かなんかだなぁ」
「おお、わかるの?」
「匂いで」
「さっすがね…」
「猫じゃないっつの」
アトラが最後まで言い切る前に、黒猫が遮る。
誰がどう見ても黒猫なのだが、本人はそれを認めたがらないのだ。
「えー、どっからみても…」
「猫じゃない」
「でもさー」
「猫じゃないったら猫じゃない!」
「朝から煩いぞこの馬鹿息子ども」
二人の会話を打ち切ったのは、背の高い女性。
腰まで伸びた白い髪は妖美な雰囲気をかもし出すが、髪から覗く双瞳から輝く光は、強気な性情を物語っていた。
「あ、母上。おはようございます」
「ようルティア。早いな」
「別に早くはないさ。貴様らが遅いんだ、朝餉ぎりぎりに起きてくるとはなってないぞアトラ」
「う…いつもは朝餉までに起きればいいって言うじゃないですか」
アトラは母のなんとなく身勝手な叱責に文句を言ってみるが、自分に非があることは分かっているので、強気に出られなかった。
それをシャトがおかしそうな目で見ている。
「それは最低限のものだ。まったく自覚がたらんぞ、もう直ぐ成人の儀だというのに」
「あ! いつになるんですか儀式。早く済ませたいんですけど…」
「お前、人生の一大儀式をちゃっちゃと済ませたいって…」
話を変えたアトラに、シャトが頭の上からため息をかける。
ちなみにこの獣にはアトラが無理やり話題を変更させたのがよくわかっていた。
「俺ちゃっちゃとなんていってないぞ」
「あー?早く済ませたいって言ったじゃんかよ」
「俺は”早く”って言ったの。ちゃっちゃとなんて言ってない」
「同じことだろー?」
「雰囲気が、ぜんっぜん違う」
雰囲気以外は同じだと認めたということは、やっぱり同じことだという認識をしていると思うのだが…
それを言ったところでアトラはまた文句を言うだけなので、シャトは黙っていることにする。
「相変わらず阿呆な話をしているなお前らは」
「阿呆なのはシャトだけです。で、いつになりそうなんですか?」
大仰そうにため息をついたルティアに、アトラは実に理不尽なことを言ってのけた。
頭の絵でシャトがまた文句を言うが、今度は無視。徹底的に。
いささかシャトが可愛そうにすら見える一幕である。
「まだわからん。だが、そう遠くないだろう。おそらくは今月中と言ったところだな」
「今月中…ですか」
成人の儀。
これは15歳になった男性が行う、貴族社交界に参加するのに必要な儀式。
これを終えることで名前の上で一人前と認められる。
王への正式な謁見も、仕事に就き報酬を得るのにも、この儀式を終えなければならない。
更に儀式で行われる晩餐会の大きさは、暗に儀式の主役の家柄、権威を示すのだった。
成人の儀を終えれば、たとえ体が子供であろうと契約が結べる。
だから家柄が大きければ大きいほど早くから取り入ろうと人が集まるのだ。
「成人ねー。このちんちくりんが」
「人のこと言えないだろー、この猫もどき」
「なっ…!もどきってなんだもどきって!」
「だから、朝餉前に騒ぐな鬱陶しい」
「だって母上シャトが!!」
「人のせいにするなアトラ」
「自覚しろ、この馬鹿ネコ!」
朝のこのちょっとした騒動は、この家の日課となりつつあった。
といっても、この家は広さの割りに人が少ないので、知るものは少ないのだが。
「貴様ら、朝食は静かに食べろよ」
「わかってますよー…」
「本当かー?」
「むしろお前がわかれシャト」
「ひどいぞアトラ」
「だからなんでそう煩いんだお前らは」
…日課となっている。


「えっ…王様に謁見!? いいんですか?」
朝食を行儀よく食べながら、アトラは顔を上げた。
普段は騒ぎもするし行動的なアトラだが、礼儀やマナーは小さなころから叩き込まれているので、食事は至極大人しいものだった。
驚きのあまり言葉を発して、口から多少飛ぶことを除けば。
「いい訳ないだろう。話を最後まで聞け」
テーブルを挟んだ向かいに、ルティアが座っている。
上座に当たるその席は、この家の当主が座る場所だ。
朝食を食べ初めてしばらくすると、ルティアが城へ行くから着いて来いと言い出したのだった。
ルティアが城へ行くときは大抵が、王との謁見のためだった。
だが、王への謁見は成人した者に限ると、しきたりで決まっている。
詐称などしようものなら、打ち首もあり得る罪となるのだ。それなのに自分が謁見していいのだろうか。
「お前はまだ成人前だろう」
「…ですよね」
「だがアトラを見てみたいと言っているのは事実なんだろう?」
二人とは違い床で食事を取っていたシャトが会話に割り込む。
食事を終えていた黒獣は、トンと床を蹴ってアトラの肩に乗った。
「シャト、口周り汚れてる」
「ん?」
アトラがナプキンでシャトの口周りを拭う。
くすぐったいのを我慢していると、アトラが笑った。
「ハイ、綺麗になった。人に乗るならこれくらいちゃんとしてよね」
「はいはい悪かったな。俺はこういう習慣がなかったんだよ」
本来、通常の生物と体の造りからして違うシャトは、食事を取る必要はないのだ。
だが、ルティアとアトラの配慮なのか毎度用意される食べ物を、無下に残すのも気が引けた。
アトラにしてみれば「シャトだけ食べないってのも何か変でしょ」とのことらしい。
自分が食べているのに、隣の黒獣が何も食べないというのが、妙な違和感らしかった。
そういう訳で食事を共にとっているシャトだったが、口を拭うということはあまりしたことがない。
というか、人間でない彼はその必要すら本来はないのだが。
生活を共にしているので仕方がないと思ってはいるらしい。
「で、お目通りのかなわないアトラを見るために、王は何しようってんだ?」
シャトが話を戻すと、ルティアが重々しく頷いた。
重要なのはここからのようだ。
かいつまんで言えば、王が自分が全幅の信頼を置く白き術師ルティア=エルフラウの末子が、晴れて成人すると聞いた。
ならば成人する前に一目見ておきたい、と言っているらしい。
「なんか…俺って見世物になってるなぁ…」
いっそ仰仰しくため息をついてしまおうか、と思うアトラの頭を黒獣が叩く。
「仕方ないさ。貴族なんてそんなもんだろ、みんな刺激が欲しいのよ。ましてや、希代の白き術師ルティア=エルフラウの息子が成人するってんだからな」
「そうかもしれないけどさ…」
王家は優雅な生活を送っていると思われがちだ。
それは正しいは正しいのだが、実際はしきたりに縛られてしたいことも出来ない、というのが多い。
好きなことも出来ず、身の安全のためとあまり外を出歩くことも適わない。
出れたとしても、大勢の護衛つきだ。
そんなのでは気の休まる暇も無ければ、心が躍るような出来事も少ない。
そこに、彼の有名な人物の息子がついに成人するという。
これは人目見ておきたいというのが、誰しも思うことだった。
「それに、王に直接嫌われたとあっちゃあ、出世できないどころか、人生お終いだぞ?」
「ぐ…それは確かに…」
「成人するんだから、それくらいは考えないといけないなー」
言うまでも無く、王の一言で、積み上げてきた権威、財産、はたまた命さえ失ったものは多いのだ。
やはり権力のあるものには気に入ってもらっておくに限る。
「あれ? でもさっきも言いましたけど、俺は成人前だから謁見できませんよね?」
「そうだな」
「じゃあ、どうするんですか?」
「成人前の人間は謁見できない。ならば謁見で無ければいいのだ」
「…?」
アトラには意味が掴めなかった。
王に会うということは、それつまり謁見ということになる。
なのに謁見でないとは如何なることか。
「要するに、私の息子として正式な王座での謁見ではなく、こっそり王の部屋に遊びにおいで。…ということだな」
「なるほど」
謁見ではなく、遊びにおいでとは。
「…っていいんですか!?」
一瞬、発想の転換に驚嘆し、頷いてしまったが、それが許されるものなのかどうかわからない。
というか、なんてことを考えるんだ王様。
「知らん。だがまぁ王のご意思だ。簡単な顔合わせだと思えばいい」
ルティアが笑っているということは、さほど問題は無いらしい。
だが、成人するまでは王の顔など直接は見れないのが常識。
成人したからといって、王に会えるとは限らない。
いくら成人までそれほど間がないといっても、自分が会っても良いものなのだろうか。
「で、そのお目通りとやらはいつなんだ?」
「今日だと言っただろう」
白髪の母親は、シャトの問いに、何を言っているとでも言わんばかりの顔で応える。
そういえば、さっき着いて来いと言われた気もする。
「随分急ですね…」
「いや、今日はもともと王と会う予定になっておってな。ついでだ、ついで」
軽く笑ってみせるルティアに、アトラは肩を落とした。
王の希望じゃなかったのか。
その言葉をそんな「ついで」で済ませていいのか我が母よ。
「という訳で昼前には出発する。車など使わんから、遅れないよう直ぐ準備をしておきなさい」
「はい。……あ!」
「どうした?」
「いえなんでもないです…」
思い出したように声をあげた息子に、訝しげな視線を送るルティア。
思わず声を上げてしまったアトラは、ほぼ棒読みでなんでもないと答えた。


朝食を終えて部屋に戻る途中、黒獣を抱きかかえてアトラが呟いた。
「シャトごめん…」
「何がだ?」
やけに低いトーンで謝ってきたアトラに、不思議そうな視線が送られる。
アトラの靴底が床に当たる音が、コツコツと静かな廊下に響いている。
「今日…城に行くじゃない?」
「おう」
「街…行くには行くけど散策なんて出来ない…」
「あ゛っ……!」
先ほどまでゆらゆらと揺れていた尻尾が、ビキリと固まった。
そうだ。城に行くのであれば城を中心にしている街にはもちろん行くことになる。
だが、寄り道をすることは出来ないだろう。
城でどれくらい時間をとられるか分からないが、無理だと思っていた方が無難だ。
「仕方…ないな…」
「ごめんね…」
「お前が…謝ることじゃ、ない……」
声がだんだん細くなっていく黒獣の頭を、アトラはそっとなでる。
どうやらこの黒獣は、自分の思っていたよりも街への外出を楽しみにしていたらしい。
自分も楽しみにしていたので残念なのだが、自分より残念がっている黒獣を見ていると不思議なことにさほどでも無い様に思えてくる。
自分が悪い訳ではないが、今度なにか埋め合わせをしてあげようと、そっと思うアトラだった。