ひとつめの話

暗い夜の帳に、黒い獣の影がはしる。
音もなく月明かりの下を走る獣は、ひとつの建物の前で脚を止めた。
あれほどの速さで駆けていたにもかかわらず、息はまったく荒げていない。
月光を受けて黒く艶光る体毛、そして闇夜に瞬く二つの瞳の色は、紅。
やや遅れてから、小柄な少年が獣に追いつくように駆けてくる。
獣と同じ色の髪を、後ろでひとつに括ってそれを夜風に流しながら、やっとのことで獣に追いついた。
こちらは獣と違い、息を荒げ肩を上下させ、どうにか呼吸を落ち着かせようと試みているようだった。
ぜぃぜぃいう息の合間に、少年は言葉を発して先についていた獣に問いかける。
「……ここ?」
「ああ。間違いない」
黒い獣は建物を見上げた。
古めかしい様式に建てられたこの家は、今は人が住んでいないことがわかる。
門は片側が外れて半壊し、明かりのない窓からカーテンらしき布が外にはためいている。
外灯は曇っていて長い間光を燈した形跡がない。壁には蔦が絡み、かつては手入れが行き届いていたであろう庭は雑草が生い茂っていた。
「どこから入ろう」
「普通に玄関からでいいんじゃないか?空き家なら誰に断りを入れるわけでもないし」
「あ、そうか」
少年は獣の意見に素直にうなずくと、半分しかない門を押し開けて邸の中に入る。
雑草を踏みつけて扉の前行き、そっとドアノブに手をかけた。
カチャリと小さな音。入る側としては幸いに、鍵はかかっていないようだった。
音を立てないように扉を開けると、少年と獣は中に足を踏み入れた。
「暗い…」
月明かりの届かない邸内の暗さに思わず声を漏らす。
手近な机の上に置いてあったランプに手探りで手を伸ばしスイッチを入れてみたが、当然のように無反応だった。
暗闇を進むのは些か不安なため、どうしようか思案していると、夜目の利く獣がひょいひょいと先に進んでいってしまっていた。
「あ、こらシャト! 一人で行くなよ!」
呼びかけられた獣は億劫そうに、足を止めて振り返る。
「お前なぁ……。いい加減に夜目を利かせる術、覚えたらどうだ?」
「……あんな妙に難しい術使わなくたって、なんとか…」
「でもお前。今、現に困ってないか?」
「……」
言葉を遮られそのまま黙ってしまった少年に、シャトと呼ばれた獣は更に追い討ちをかける。
「やっぱ無いと困るぞー? 相手にするのは闇夜を徘徊する奴が多いからなー。さっきだってお前がちゃんと術を使えるようになっていれば、あいつを逃がすことも無かったはずだろう? いつまでも苦手苦手言ってないで少しは練習したらどうなんだアトラよ」
しばし沈黙があったあと、帰ってきたのは不機嫌を隠そうともしない低い声。
「このっ! 自分は初めから夜目が利くからって、いけしゃあしゃあと!」
「あー、なんだよ。俺が夜目利かなかったらここまで追ってこられなかったんだぜ?」
「それは感謝してるけど。でも、これとそれとは話が違うだろ!大体…」
アトラはもう一言怒鳴りかけたが、声を押し留め闇の向こうに注意を向けた。
背筋にぞくぞくとした悪寒がはしる。アトラの常人には無い感覚が察知する。決して心地よくなど無く、ともすれば気配だけで震え来そうなほどに禍々しい、そんな存在が近くにいることを。
「…居たな」
「うん」
頷いたアトラの足元が、うっすらと明るくなる。漏れてくる燐光が、暗闇を仄かに照らし出していた。
暗闇から姿を現したのは、燐光を纏った小さな兎。
以外にも可愛らしい形容にアトラは思わず口を綻ばせた。
「これは…随分と可愛いな」
兎は口元をもぞもぞと数秒動かすと次の瞬間に、ぐわりと大きく口を開いた。
アトラの身長ほどに開けた口には仰々しく尖った牙が並び、その間を舌が動き、唾液がしたたり、耳を抉るような鳴き声をだす。
「そうかぁ?」
変容した兎を見た獣は、頬を引きつらせながら言った。
「アトラ、趣味変わってんなぁ」
「ぜ…前言撤回」
答えたアトラも、これまた頬を引きつらせていた。
けたたましく声を上げながら、もはや兎とは呼べない異形がアトラと獣に突っ込んできた。
すんでの所でそれをかわすと、兎の異形はアトラがさっきまで立っていた床をバリバリと毟り取る、いや、食いちぎった。
アトラの背筋に汗が吹き出る。
避けるのに失敗するということは、あの床の運命をたどるということになる。
それだけはなんとしても避けたい。床板のごとくバリバリと噛み付かれたとなれば自分の柔らかい肉など簡単に食われてしまうだろう。そしてそのままあの世行き。死後の世界に興味はあるがまだまだ死ぬのは御免こうむりたい。
「アトラ! ぼさっとするな!」
叫んだ獣はアトラの襟首を咥えるとぐいと引いた。
「ぐえっ!」
立ち上がりかけていたところを後ろに引っ張られ、アトラは背中と後頭部をしたたかに打ちつけて床に倒れこむ。
そしてその上を兎が大口を開けたまま飛び越えていった。
もしかしなくても、倒されなかったら今頃腰から上が繋がっていなかっただろう。
「あぶな・・・・・・っ」
立ち上がったアトラの脇で獣が声を荒げる。
「何してんだ阿呆! 死にたいのか!」
「誰が死にたいもんか。…っていうかシャト、助けるならもっといい方法で頼みたい」
「助けてもらっといて文句言うな」
それは確かにそうなのだが、痛みが先にはしれば文句も言いたくなるというものだ。
背中はともかく後頭部は相当に痛い。だがまぁ確かに上半身をばくりとやられるよりましではある。
でもやっぱり痛いものは痛いわけで。
「来るぞ」
アトラの上を跳び越していった兎は、再び大きな口を開いてこちらに向かってきていた。
この廃屋はおそらくこのウサギの根城だ。
外で追っていたときには逃げてばかりだったくせに、自分のテリトリーに誘い込んだことで有利に思っているのか、先ほどから攻撃ばかりしてくる。
鋭い牙も、禍々しい気も、確かに恐ろしい。
が、これはアトラにとってはむしろ好都合である。
暗闇の中で逃げ回られて、どうすることも出来なかったが今は自分に向かって突っ込んでくるし、邪悪な燐光によって足元も良く見える。
「正面から来るならこんなに狙いやすいことはない…!」
呟きながら意識を右腕に集中させる。
兎の邪悪なものとは異なる、清らな光がアトラの右腕を纏う。
「外すなよ、半人前」
「…黙ってろシャト」
足元でちゃちゃを入れてくる獣を出来るだけ無視して、アトラは右手を体の前に構えた。
獣は半笑いで、アトラをおちょくりながらも注意は常に兎へと向けている。
軽口を叩いてはいるが、何かあれば直ぐに対処できる状態でいた。
「精錬されし刃よ 我が前に 煌け――」
兎の接近に合わせ、右腕を高く掲げながらアトラが詠唱する。
その言霊に応じるように、右腕の光が大きく揺らめいた。
「――穿て 剣よ! シュヴェールト!!」
叫ぶと同時に、光を纏う右腕を縦に振り下ろす。
腕の軌跡を追うように、光が弧を描いて飛ぶ。
光の刃が兎に切迫し、その大きな口を縦に切り裂いた。
口を、牙を、頭蓋を、胴体を裂かれて、兎は体を二つに分けた。
アトラと獣の両脇を、兎の二つになった体がそれぞれ滑っていった。
「…少しはマシになったか?」
「そりゃどうも」
ニヤリと口端を吊り上げる獣に、アトラはため息混じりに返す。
背後を振り返って確認すると、兎の異形はしっかりと倒せたようだった。
が、倒したはずの兎の体から燐光が霧となり渦巻いた。
「うぇ!? まさかまだ生きてるのか!?」
「いや確かに倒した。鼬のならぬ兎の最後っ屁だろ」
渦を巻いた燐光は、ごうと風を撒いて立ち上る。
兎の体も霧散して掻き消えた。
「よし、終わった…」
安堵の声を漏らした、その直後。
頭上から金属の軋む、激しい音。
「・・・なんだ?」
アトラと獣が頭上を見上げると、巨大なシャンデリアが大きく揺れているのが見えた。
その付け根、天井にくっついている部分から、亀裂が広がっていく。
パラパラと落ちてくる破片と、シャンデリアから聞こえてくる音に、アトラは頬を引き攣らせた。
もともと古そうな建物だった。照明の手入れなどされているはずも無い。
それを金属は錆びるし、連結部分は老朽化。
石造りだろうと、月日がたてば脆くなるわけで。
ビシィ!
「だわぁーーーー!!」
シャンデリアごと天井が落ちる凄まじい音の中で、アトラの悲鳴が響き渡った。


「うわー…これとか刺さってたら痛かっただろうなー」
シャトがそこにあったシャンデリアの大きなガラスの破片を前足で突きながら、まるで自分がそうなったかのように苦々しい顔をしている。
「いだっ!…うわ、アトラ!刺さった…取ってくれ!」
「何やってんのさシャト…」
力なくへたり込んでいたアトラは、差し出された前足の肉球に刺さった小さな破片をとってやる。
欠片を取り除いてもらったシャトは、まだ痛むのか舌で前足を舐めた。
「うわっ、凄い猫っぽい」
「だれが猫じゃい」
ぎゃんとわめくシャトを無視し、アトラは周りを見回した。
天井の瓦礫と、シャンデリアのガラスが周囲に散らばっている。
だが、アトラの周りには大きな瓦礫もなく、真上に在ったはずのシャンデリアも向こうに落ちていた。
あれだけの物が落ちてきていながら、たんこぶ一つ出来ていないのは奇跡に近かった。
だが、アトラは分かっている。
これは運が良かった訳でも、奇跡などもはない。
「シャト」
「んー?」
「ありがとね。助かった」
「んん?なんだよバレてんの?未熟なアトラじゃ気付かないまんまかと思ってたのによ」
「人が素直に礼を言ってるんだから、素直に受け取れこの馬鹿猫!」
「だーれが猫だこの鼻たれ半人前!」
天井が落ちてくる直前、自分の目の前に立ちふさがったのは大きな黒い獣。
馬も超える大きな体躯をアトラを庇うようにし、ごうと咆哮をあげた。
その咆哮に弾かれるように、ガラスも瓦礫も自分を避けていく。
そして気付いたらその獣は消え、シャトがガラスを前足で突いていたのだった。
「にしても…疲れた…眠い…」
「まぁなー。三日出回ってやっと見つけたわけだしなぁ」
「とにかく終わってよかった…」
「よし。帰って寝るか!」
「おー」
眠い目を擦りながら、帰路に着くアトラとシャト。
とぼとぼと歩く黒髪の少年の隣を、紅い瞳の黒猫…もとい獣がついていく。
空はうっすらと薄紫になり始めていた。