仮面の魔法少女・第1話冬風 狐作
「うーん、ただいま」
 不意に部屋の中に響く鍵穴の動く音、それは静かに漂っていた空気が途端に動き出す瞬間だった。
「おかえり、またどこに行っていたの?しばらく帰って来なくて心配させてくれてさ、もう」
 部屋の中にいた者がさっと反応して駆け寄る内に扉は開かれる。外気に比べたらずっと穏やかな室温をかき乱すかの様な風にも等しい、大きく西に傾いた陽光と共に入ってきたのは見知った姿であった。
「もう、仕方ないじゃない?でも、もこうして帰って来たんだから安心なさいよ」
「あっそうだね、おかえり、紫雨!」
「急に微笑んじゃって、とっても分かりやすいんだから、ふふ」
 今は7月、梅雨が明けたのか明けてないのか、とても不明な湿気と暑さに見舞われた日の夕暮れに明かりを灯し、街並みを成す家々のひとつで弾んだのはそんなやりとり。
「でも帰ってくるタイミングが絶妙ねぇ、相変わらず」
「絶妙、ははぁさては…実季ったら?」
 帰ってきた紫雨を迎えた実季は微笑みの一方で、少しばかり困った表情を合わせて言葉を紡ぐ―そう、ちょうど夕飯食べちゃったところなの、と。
「それも何時も通り、か。まぁ良いわ、それなら何か食べに行けばいいんだし…ね?」
「えっちょっと、今食べたばかりなんだから…ひとりで食べに行きなさいよ?」
「はいはい、太るから、太るからでしょう?でもその割にはあなたスタイル良いじゃない?お胸に栄養がみんないっているのかな?」
 ただ返す紫雨の言葉はずっと軽かった。実季がふとした憂いにも近い、どうしようか、との問いかけを乗せていたにも関わらずあっけらかんと返し、むしろそこに皮肉交じりの問いかけを複数載せてぶつけるものだから実季の表情は更に歪む。それこそ言葉にはしなくとも、そこまで言わなくても良いじゃない、との思いが見える表情を更に笑って迎えれば、紫雨は己よりも10センチばかり低い相手の頭を軽く撫でながら、こう囁いた。
「まっ良いよ、そんなスタイルの良い君の事が僕は好きだから、ね?一緒に行こうよ」
 明確な謝罪の言葉は無くとも、それはふたりの間ではそうした意思の表明に等しいもの、と互いに看做すだけの信頼関係がある。だから撫でる手から少しよけよう、とも見れる角度に実季は首を軽く曲げるなり、その腕を紫雨へと回して抱きしめる形でその体を密着させる。そして一言「うん」と返して大きく息を吸えば、その鼻腔に入ってくるのは久々に嗅ぐ、ふとした汗臭さこそあっても分かる愛しい相手―それが同性、女性同士であったとしても、の香りであった。

 さぁ身支度を整えて―との言葉からおよそ30分もしない内に、2人の姿はまだ昼間の暑さと湿気の名残が残る外の世界の一角にあった。
 最も彼女等がいるのは、ガラス窓を隔てて冷房が適度に効いているレストランの中。だからそうした不快さとは無縁なのに加えて家からはそう遠くないのか、もう2人の前には注文した料理が幾らか運ばれてきており、夕食をひとりで摂ったばかりなのに、と言っていた実季もフォークを片手に運ばれてきた料理に手を付けている姿を見せていた。
 ふたりの間で弾む会話は店内の雰囲気にもあっていて、それはとてもある一点の他には何に、冒頭のシーンを見てきた目から見てはおかしな点は何もないものであっただろう。そう、向かい合うふたりの内、片方がどう見ても「男」であるのを除けば、そこには何の綻びも見当たらない。
 言うなれば久々に会った男女、彼氏と彼女のカップルが夕飯を食べながら、雑談に興じているとの具合であって、そうとしか周囲の目には映っていなかったはずである。
「はぁ、美味しいなぁ」
 その中でふと漏らしたのは彼氏の方で、それに笑いながらさっき夕飯食べたばかりなのに、と返す女、となればもうお分かりだろう。そう、男が「実季」、ならば女は「紫雨」であると合点が行くものであろう。
 そもそもの話として、その様に見てしまうのが「おかしい」のかもしれない。何故ならば気付く以前の話として後者の、紫雨の姿は全く変わっていない。ただ装いだけは改めてこそいるが、そのショートヘアの顔立ちはそのままであるのだから、矢張り注目すべきはテーブルを挟んでいる「実季」に相当する男なのに違いなかった。
 しかしふと思えば、そうした見方こそ、事情を知らない人からはとても浮かばないものであったろう。即ち、彼女等は男女のカップルでしかなく、そうとしか見られていない、との事実を補強するのが、会計に向かった際に店員からすっかり男女のカップルとして扱われていた事、ただそれが如実に表しているとしか言えない。
 だからこそ店を後にしてからの道中においても、ふたりはカップルとして歩道を歩き、言葉を交わしている、そうとしか見えなかったし、意識して見ていた人がいたとてもそうとしか映っていないはずであった―ちょっとこっちに来て、と女の方が少し狭い路地に男を連れ込んだ、としかその路地のある角に通りかかり、ふたりを認めて減速して除けた自転車の男性の目には映っていなかったのも、加えて書いておきたい。

 彼女が彼氏を―即ち紫雨が「実季」を連れ込んだ路地は今はすっかり廃れた飲み屋街であった。より正確さを強めて言うならば、飲み屋街の廃墟であろう。表に面した幾店舗かは営業こそしているものの、ほんの少し入り込めばタイル張りの路面はすっかり荒れていて、継ぎ目からは旺盛な雑草が姿を現して、その本来の所有権を主張しているかの様だった。
 そして視線を上に向ければ、飲み屋だとかの装飾こそ残っているものの、そのどれもが風雨に曝されてくすみ、あるいは無残に壊れている有様であるから、マシなのは外されて台座だけになったもの、である始末。
 加えて夜の帳も降りた時間帯ともなっているから、薄気味悪さだけはとても濃厚な中を「カップル」は歩いていくのみ。ひたすら奥に、曲がりくねった空間を慣れたと見れる足取りでしばらく進んだ果てにふと姿を消したのは、大きく「貸店舗」と何時貼られたのか分からない看板のある店舗の前だった。
 最もそんな店舗はこの飲み屋街の廃墟には幾らでもあるから、とても正確な位置等は容易には分からない。そう見れば見るほど、皆同じに見えてくるのがこの空間の最大の特徴であろう。
 知る人の間からは迷路と呼ばれ、ある人からは心霊スポットだの、またある人は不良集団が夜な夜な徘徊しているだの、とロクな噂がたった試しがない。それが故に何とかしなければ、との声こそ多くの人が言うものの、どうした訳か抜本的な対策は取られる事もないままに、もうどれ位前からこんな有様なのかも不明なままに、大都会の一角を占め続けている不思議な空間であると言えるだろう。
 その中に入り込んだ「カップル」は、ふたりだけしかいない一室に身を落ち着けている。そこで大きく体を伸ばしあい、ふっとした笑みを交わしあい、またも「女」たる紫雨の方からの招きが男に向かい、応じるとの流れが繰り返される。従順とも言える具合に「男」は、求められたままにその肉体を抱きしめれば、紫雨はふっとその耳を舐めて囁く―さぁ、見せなさい?と。
 それは短くも、しかし強さを有する言葉としか「男」―実季には受け取れなかった。
「はい…その言葉、待ってたんですから」
「あらあら、じゃあ早く見せなさい?」
「んっ分かりました…ぁ、あんっ」
 「男」の声は甘かった。とてもトロトロで灯された明かりがもたらす影の中に、クネッと腰を揺らすのが見えてしまうほどに言葉と動きが連動しているばかりか、途端にふっとした不思議な色調の明るさがその空間を満たし始めていた。
「もう、始まるのが早いのよね、君って、さ」
 生じつつある明るさは天井から吊るさっている電球とは違う位置から生じているのは明白、そうそれを発していたのは「男」の肉体なのだから。じわじわと強まる明るさは、その勢い以上にその全身の輪郭を呑み込んでしまえば、大きな楕円形の卵にすら見える形となる。
 それを紫雨は興味深そうに見つめてはいるも、その瞳の奥にあるのは何やら異なっていた。確かに興味深そうに、との点では同じなのだが言うなればある程度結果を把握していて、それがその通りになるか確かめないと、との冷静さをあわせもった瞳で見つめているのだ。
 だから次第にその光によって成された卵型の輪郭が、内に向かって収束していくと瞳の輝きは表情と共に変わっていく。冷静さが強まり、そしてすっと全てが内に呑み込まれて、ただ天井からの明かりだけに戻った時には、口元を満足げに歪ませた観察者としての姿を紫雨はその場に見せていたのだった。


 続
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