盆地の護・第一章 冬風 狐作
「しっかし、今年は良く雪が積もったせいか雪解けの水の量が多いなぁ。」
「そうだなぁ、これだけあれば今年も豊作だろうよ・・・まっ米の出来に心配する事は無いだろう。」
 御世沢村のある盆地中心から見て北東の方角にある湖、御世沢湖。その岸にある山から湖へと流れ込んでくる小河川が注ぎ込んでいる河口近くの水位計を見ながら町役場の係員が2人、その様な事を呟いていた。この御世沢湖は盆地の中にある湖沼で最も広く主に農業等の用水として利用されており、この湖の水がこの盆地つまり村の主たる産業である農業を支えている常用な存在であった。
 そしてこの御世沢湖の湖畔、これと言ってその形を定める事は出来ない様々な形をしているのだが総じて言えば山の淵に沿って楕円にも近い形で広がる内の最も北の外れ。ちょうど嘴のような形をした入江の奥の猫の額ほどの大きさをした土地に小さな・・・それはこの湖の大きさと比較してと言う事であるから当然小さいと言えてしまうのだが、そこに二階建て程度の横に長い一見しての形では昔の国民学校と言うかとにかく木造校舎その物に近い格好をした建物が一軒建っていた。
 その建物を除けば辺りに建物は無く、ただ道が湖畔をそのまま南下するのではなく北から西へと周回して中心部に向かう二車線の比較的整備された道が1つあるだけ。後はそれに沿って走っている電柱を除けばその周辺は湖に落ちる様に迫っている比較的急峻な山々と山から平地へと続く木々の波、何とも羨ましく水田が無いので日本的とは言えないかも知れないが緑豊富なこの国を象徴する様な風光明媚な光景であった。

 ブロロロ・・・そうエンジンの音を響かせつつ1台の、どうみても古めかしい数世代前のデザインをしたバスが村と下界とを結ぶ唯一の一本道を登っていた。御世沢村役場の前にある停留所と山向こうの都市の駅とを結ぶ1日2往復のみのバス路線、その駅からの始発便であった。今の時間は午前10時、およそ所要3時間の道のりである。
 そしてそのバスの車内は何時も人の姿は少ないのだが今日は運転士と日常使っている、この路線の数少ない定期券利用者である行商のおばさん3人と用務と思しき男性2人、そして運転士。この6人はすっかり慣れた様子で行商の3人は話に花を咲かせ、用務と思しき1人は窓を枕に居眠りをしもう1人は・・・こちらももう馴染みの中と言う気配を漂わせて運転士と話を一番前の席に陣取ってしていた。
 しかしその手馴れた空気の中に入らない存在が別に1人だけ今日はいた、比較的軽装をした1人の若い装いの女性。車両の比較的後方に座って車窓を眺めているその足元にはゴロ付きの布生地で作られたキャリーバック、比較的軽そうに見えるバックが置かれている事から恐らくは観光客だろう。この新緑の季節とは言え大型連休も終わった後のオフシーズンに御世沢村へと向かっている、ある意味では貴重な存在であろう。
「うわ・・・凄い深い谷・・・。」
 バスはそれこそ一車線の道幅しかない、いやバスの車体の幅にわずかな余裕があるに過ぎない道幅をそれなりの速度で走っている。つい先ほどまで彼女は細かなカーブは比較的多くその度に軽い警笛が鳴らされ、カーブの向こう側にいるかもしれない対向車や歩行者に対して注意しつつ小気味良く然程の減速もなしに突き進むその姿に、すっかり恐れると言うよりも魅入られてずっと前を見つめていた。
 だから余り気には止めていなかったのだがつい先程、100メートルほどの長さの明かりすらない煉瓦造のトンネルを出た際にふと車窓に目を向けた折、その道の高さに気がついて・・・つまり谷底からの高さに気がついて以来こんどはそちらを眺め続け、時折思わず同じ様な短い言葉を漏らしてはすっかり感じ入っていた。道とバス、そして対岸の山の同じ様な位置を走っている送電線以外にはこれと言った人工物の無い景色・・・普段生活している都市とは比較にならない最小限しか人の手の入っていない姿の魅力に取り憑かれていたのだった。
「お嬢ちゃん、お嬢ちゃん。」
「・・・あっはい・・・私の事ですか?」
「そうさよぉ、お嬢ちゃん以外にそういえるのは私らだけさぁ。」
 そしていきなり耳に響く呼びかけの声、慌てて顔を正面に向けると1つ空席を挟んだ付近に陣取っていた行商のおばさん達がこちらに向かって微笑んでいてその内の1人の言葉だった。そしてその言葉に思わず彼女は言葉を詰まらせて顔を赤くする、どう反応すればいいのか咄嗟の事過ぎて判断がつかなかったからであった。
「え・・・。」
「あらトメさん、何を言うで・・・お嬢ちゃんが困ってるじゃないけ。」
「あれあれお嬢ちゃん、ごめんねぇ。トメさんはこう言うのが好きでねぇ・・・御世沢へ行かれるんけ?」
「は・・・はい、そうです。」
 微笑から一笑いして人懐っこい笑顔へと変わった3人はそれを皮切りに色々と聞いてきた、どこから来たのか、仕事は何か、何をしに来たのか等ととにかく思いつく限り興味を抱けた限りと言う勢いで。それに対して彼女、名前も聞かれたので書くとその名前は大森康子と言う名前・・・康子はまるでゼミの面接か何かに答える学生の様に神妙な様子で一つ一つ答えていた。
 対して尋ねてくるおばさん達と言えばそれは大きな盛り上がりようでその流れにはどう思うと乗るしかないと言う勢い、その思いにどこかで圧倒されつつもそれはそれで楽しく狭い山道を突き進むバスの様子から始まっての興味はすっかりそれへと移り、残りの行程はおばさんたちとの会話で全てが埋まった。
 そしてようやくその途中から積極的にのめり込んでいた談笑から解き放たれたのは、バスが山を下りて盆地の中の平らな、二車線に整備されて真新しいアスファルトにて舗装されている道に入って最初の停留所にておばさんの内の1人が大きな荷物を背負って下車するその時までのおよそ1時間、後20分も乗れば終点である町役場前の停留所に着く頃であった。
 残された2人のおばさんもそれを合図としているのか話しは続けつつとも支度に入り、先程の様なのめり込む談笑はもう出来ない。ただその2人が支度をしているだけで十分車内が到着間際特有の慌しさにも満ちている様に見えるのは不思議なもの、だがそう言う気配を察していたので話を軽く続けつつも彼女は再び視線を車窓へと向けた。
 その目に映る御世沢村の景色はそれは初めてであるから全てが真新しい、盆地の中は典型的な日本の水田農村と言った景色なのだがあの様な今時珍しいまでに条件の悪い山道を通過してきた目にはそれすらもまるで別世界の様に映ってしまうもの、そこには一種の感慨深さすら漂わせて見つめている康子を乗せて白に黄色のカラーリングに塗られたモノコックバスはガタガタと揺れつつ次第に家々の立ち並ぶ街中へと入っていった。

「はい、駅からは2260円ね。あっお釣りは出ませんから両替を。」
 料金を尋ねた運転士にそう言われて両替機にて小銭を作って支払いバスを降り軽く首を回す、話をしていたとは言え3時間も路線バスの硬い椅子に座っていると疲れるもので、康子よりも先に下車して手を振って去っていった行商のおばさん達が2日におきに村と外とを1往復していると聞いた時では内心では同情しつつ、それ以上に感嘆にも近い物を感じていた。
 日差しは盆地の底と言う事もあってか妙に強く感じられる、コンビニか何かがあったら立ち寄りたいものだが役場の前には個人経営と思しき商店が幾つか連なって他には自動販売機以外には特に見当たらない、とてもコンビニの様に何のお構い無しに入れて買い物せずとも何の気兼ねする事無く外に出られるといった気配は当然漂っていない。
 何よりも部外者である自分が何の抵抗も無しに見られるとはとても思えない所が、余計にそう言った店に入るのを躊躇わせて・・・バスの到着から10分ほどしたら迎えに来ると言っていた、旅館の送迎の車を役場前に置かれたバス停様のベンチに腰を下ろして待つ事にした。静かな時折通る軽トラや役場の前を過ぎていく自転車等を見つめつつその空気に浸る、ただこれだけでどこか普段の自分が置かれている環境の空気が棘の含んだ刺激的な物である事を改めて感じつつ静かに迎えが来るのを待つのだった。
「あっ今日泊まられる大森康子さんですね?旅館の大野田と申しますがお迎えに上がりました。」
 およそ10分、正確には8分と言う所だがほぼ事前に予約した際に電話にて連絡された様に正確な時間にて1台のバンが停留所へと入り込んできた。側面には今晩予約する旅館の名前が書かれており降りてきた運転手はそう名乗り、軽く挨拶を交わすと運転手は扉を開けてそう運ぶのは苦では無い重さのキャリーバックを先に詰め込んでから康子を中へと案内した。バンの中は小奇麗に掃除されて整えられていて居心地は良く、康子が腰掛けてすぐに運転手も乗り込んできた。
 そして機嫌も愛想も良い声掛けを運転手はすると共に車を街中へと出す、そして康子の目から見ても恐らくこの村で一番栄えているであろう通りを抜けて信号も無い十字路を折れて一路北へ。その曲がる際にまだ続く町並みの続く先の次の角と思しき箇所が、道をそのまま進むと緑の唐突な林にて覆われているのに気がついたものの今はそれを追わずに視線も思考も今ある車窓へと再び向ける。
 一つ二つと角を抜けると再び町並みは途切れて一面の水田風景、そして所々に点在する比較的大きな土地の農家らしい家。それも20分ほど走ると段々と畑地や林に、そして道も平坦から軽い勾配と曲線を伴った物へと変わり行き・・・不意に林が途切れるとそこに広がっていたのは広大な湖の姿だった。
「これが湖ですよ、御世沢湖ですよお客さん。宿が前の方見ていると見えますよー今日は特に天気がいいですからね。」
 尋ねるまでも無しに運転手がそう教えてきた、言われた通りに康子が視線を向けると・・・なるほど確かに前方の対岸にぽつんと立つ人工物が1つ。ただそれだけしか見えない事からそれがその宿なのだろう、事前に写真にて建物のがどう言う建物なのかは知ってはいたものの改めて遠目からとは言えその姿を確認すると俄然期待が高まるものであった。そんな康子を乗せた車は一旦道に沿って湖の岸から離れ旅館までの道のりで最後の集落と言う、10軒ほどの家々とそりに付随した畑が並んだ地区を通過すると後はひたすら2車線の舗装された道、その対向車も歩行者もいない中を快調に飛ばして道の終点へと・・・即ちそのまま旅館の中へと入っていった。

「んー長旅だったなぁ・・・長かった、でも・・・。」
 そして今しばらく時間が経過しようやく彼女は割り当てられた部屋にて足を伸ばす、あらかじめもう部屋が決められているものと思って行ったのだがオフシーズンと言う事もあってか前金だけ支払うと、後は女将さん直々に空いている部屋を一つ一つ回って気に入った部屋を選ばしてくれたのには少し驚き同時に軽く戸惑いつつも、幾つか眺めて1つのその眺望が気に入った部屋に決めてそこに落ち着いた。
 今日から一週間の滞在の間その部屋が彼女の自室とでもいうべき部屋、比較的長期の滞在者の為の旅館であるのでその立地・・・つまり中々容易に来ようといきなり思い立っただけでは、来るのも大変な盆地の最果てにも近い端にある隠れ宿とでも言えるこの旅館を知ったのも、今付き合っている彼氏が学生時代に遊びに言って楽しかったと言う事を聞いていたので、仕事柄他の人が楽しんでいるときが忙しく、他の人が忙しい時が暇・・・つまり他人が忙しい時に長い休みが取れるのを利用して有給と与えられた休みを組み合わせて滞在しに来たという訳であった。
「・・・この景色良いし静かで最高・・・設備もちゃんと整ってるし、まぁ私は食事出してもらうから今回は関係ないけど・・・。」
 彼女のこの旅館に対する心象はまだ到着したばかりであるが比較的よかった、矢張り彼氏の紹介と言う事もあるであろうしまたその対応も丁寧であったからであろう。建物自体はかなり古いらしく戦前以来の物であると言う、そもそもはこのすぐそこにあった今は廃村となった集落の小学校の校舎と言う歴史を持つと言うのもまた興味深く、それがその古さの魅力を引き立てさせているのかもしれない。
 今では旅館として使う為に改装こそされていて必ずしも当時のままとは言えないにしろ、それでも矢張りその空気は良い形で残されていて随所に漂っている。その中に設けられたつかの間の自室にて設けられている設備に目を通しまた外の景色を眺めてしばし荷物を解いている康子の姿がそこにはあった。天気は相変わらず快晴で風も穏やかで心地よかった。

 しばらく部屋で休んだ後、持ち込んだお菓子で軽く小腹を満たしては旅館の周囲を散策する康子。外に出る際にもらった簡単な小冊子を手にかつて集落のあった場所を見たり湖岸を歩く等して時間を潰そうと考えての散策だった、時間はまだ夕方に差し掛かった頃で夕飯まではまだ1時間近くある。風は相変わらず穏やかで傾く太陽の大きく広がる光も目に優しい、何よりも人工物の音が殆どしない所が彼女の気をより穏やかに静めて深く感じさせている様であった。風の音、波の音、木々の音そして小鳥の鳴声・・・それらがじんわりと染み渡ってくる。
 思わずそれらに浸かる余り康子は湖岸にあったちょうど腰掛けるのに適当な岩に座り軽く瞳を閉じる、これほどまでの心地よさは果たして何時振りなのだろう。旅行好きで国内を中心に時折海外も織り交ぜて出かけている彼女とは言え中々にそれは味わった記憶の中に乏しかった、似た様な物はあるがここまで徹底していたのは尚更でふと早く来れなかった事を後悔しつつも、それもまた致し方無しと思っているのが我ながら面白く感じられてならなかったものだった。
 そうして半時間ほど佇み立ち上がり宿へ向けての帰路に付く、当然辺りに気を払いつつ・・・注意する為ではなく何かを感じ見出す為に、前向きの意味で気を払いながら歩を進めていた。そして道路へと戻ろうと薄くありつつも人の足によって作られた人による獣道に砂利が主体の浜から上がろうとしたそんな折、ふと彼女は歩を止めて視線をこれまで進んでいた方角の先端へと向けた。
 その先に何が見えると言う訳ではない、その先に見えるのは砂浜が尽きて低い岩肌の崖が波に打たれ、そしてその直線状の対岸に明かりが灯った宿が見えるだけで後は湖のみ。本当に何も無かった、そう湖面に浮かぶ流木すら・・・しかししばらく康子はその方角に視線を固定し、何事も無かったかの様に元に戻すと車道へ向かって踏み固められた獣道に戻っていった。


 続

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