馬の愛好会・第二章後編 冬風 狐作
「へえ・・・流石、うちの高校だ。本当なんでもあるな。」
 その林を載せているこんもりとした地形に近づいた山崎はその様な関心の呟きを漏らした。
「改めてみると結構立派な林じゃないか、農業科の連中が手入れ・・・している訳でもないか、その割には自然に任せ放題と言う具合だし。」
 全体を眺めるようにして立ち止まってそう評を漏らしては彼はふと首筋を掻いた、特に意味はあっての事ではないが軽く数度指を動かした後、体を軽く振って大あくびを浮かべるとしばらくその場に立ち止まってからようやく視線と共に顔を先ほど、遠くから林の奥にあるのを見た小屋の方角へと向けた。
「こんな所に小屋なんてなぁ・・・倉庫かな?でも倉庫にしては・・・まぁ良いや、近くに行くのが一番良いね、こう言う時は。」
 小声で自らに念を押すかの様に呟くと既に確認していた踏み分けられた小道、そう先ほど中沢が必死の形相で駆け込んで行ったばかりであると言うのは当然知らずに足を踏み入れた。最もその時、わずかに動きを止めたのは決して何か異変を感じ取ったとかそう言う訳ではない。ただ今になって林の手前の区画が、つまり今まで立ち止まっていた場所が芝生の張られた場所から外れて粘土質の土が露出している場所であったと言うのに気が付いたまでなのである。
 最も気が付いたと言う割にしてはその内心は強く動揺していたと言えるだろう、何故ならそれは彼の信条に反する行為であったからだ。前述した通り彼は上履き姿で外に出るのを好ましい事とは捉えていなかった、しかし一々外に出る度に靴に履き替えていては手間がかかって仕方がない事から幾らかの妥協点としてまず芝生の上はその例外であり、校舎の外のコンクリートのたたき等もそう出来ると見做していた、また芝生と芝生の間にあるわずかな土の箇所等も仕方ないと含んでいたものであった。
 しかし気が付くまでに踏み入り立ち止まっていた様な場所、更には今から踏み込もうと言う林の中と言うのは明らかにその信条に反していた。今いる場所は乾いた粘土質の上、そしてそれよりはマシとは言え進もうとしている林に続くのは踏み分けられた道は、足元の地面と同じく乾いた白さを見せておりその周辺は下草に覆われていて少しはまともとも言えようが、矢張り信条における妥協点に反していたには違いがない。
"しまった・・・ああ汚してしまったよ。"
 半歩ほど前に踏み出した足元へ視線を落として山崎は胸が締め付けられる様な錯覚を感じられてしまった、ただこれだけの事と思われるかもしれないが地味に彼にとっては大きな失態以外の何でもないのだからその気持ち。見つめている内に耳に何か膜がかかった様になった、先ほどまでは風に乗って流れてきていたグラウンドの方角からの昼練の掛け声もどこか遠い世界から響いてきているようにぼやけてしまっている。そして全身から冷や汗が吹き出ている、それほどにも感じてしまえたものだった。
"ま・・・まぁとにかく仕方ない・・・それより時間を。"
 だが反動としてか、ふっと我に返るなりまるで目を覚まそうとするかの様に首を振って腕時計へと目へ回す。時間はあと20分ほどで昼休みが終わりに迫っている事を示していた、そろそろ教室にもちらほらと学食等から帰ってきた連中が、姿を見せ始めている事だろうがまだ戻らなくてはいけないと言う時間ではない。つまりこの先のあの小屋を見に行く時間はまだ十分にあるのだ、それを思うとどこか上履きの事がどうでも良くなってきてしまった。
 確かに信条に反してしまったのは今でもどこかでしこりがないとは言い切れない、しかしいざ破ってしまうとそれは意外と何の事でもない事に気が付いてしまっていた自分もいた。だから、だからと言う訳ではないが急に気持ちが楽になったのだろう。そしてまたそれ以前に思っていた林の向こうに見える小屋への興味が再び強まっていく、それは文字通り伏していた何かが両手をついて頭を上げて立ち上がると言う具合で、再び一色に染まって行くまでの時間はそう要するものではなかった。

 小屋の中に満ちていたのは先ほどまでの静けさと涼しさではなかった、簡単に言えばそれはちょっとした騒がしさと熱気と言える物で幾人かの人間がこもっているような気配だった。最もそう感じさせるだけのものを1人の人間が発していたとすればどう思うだろうか?巨漢か何かか、その様な人物が発しているに違いないと思われるかもしれないが少なくともここまでの話をお読みいただいた方ならば分かるだろう、そうそれを発しているのは1人のまだ成人すらしていない高校生であると言う事を。
 だがその漂っていた空気はあのここに駆け込んでからしばらくの濃厚さを思えばずっと薄まっているとも、現状の説明として言う事が出来るだろう。少なくともあの慌しさはまた解放されたと言う強い気持ちは今の彼、中沢からは全く見出す事が出来ない。むしろ今彼がしているのはその逆のことだろう、服を再びきちっと着てそして清掃用具入れの中にあるホースを手にして水でタイルの壁と床を清めていると言う言わば落ち着ける為の作業をしている。
「ふうこれで今日はもう大丈夫、だ・・・。」
 水音が響く小屋の中でそうポツリともらして水が排水溝の中へ消えていくのを見つめている、その水の中にふとした塊、色としては白色とも半透明とも取れる物が混じっているのは、そしてその正体を知っているのはここを掃除しようと言う動機になった物でそれが消えては消えていくほど中沢の精神的なわだかまりは解消されていくのだった。
「でももう少し落ち着いてもらいたいよ・・・こうも毎日激しいと困るなぁ・・・。」
 水の音を聞きつつホースを左右に振りながら呟き、栓を回して水を止めホースを外して片付ける。手は水で濡れてしまった、ホースの表面つまり床のタイルと接触していた水だから決してきれいな水ではない。だが彼にとってはそれすらも今、洗い流した床や壁の汚れを思えばずっとマシな物でしかなく改めて水道を前にすると水を出して手を洗い、石鹸にて泡を作ってまた洗い流して終わりである。
 ハンカチを取り出して手から水気を拭き取ると中沢は身支度を整え始めた、幾ら見た目は特におかしくはないとは言え矢張りシャツの下の方がしわくちゃとなって外に出ているのは見苦しいし、厳しい教員ともし出会ってしまったらシャツをしまえと注意される事になりかねない。他にも外れたベルトや緩んだネクタイ、ボタンが外れた袖等を直して身を幾振りかするとようやく校内を普通に歩いていて全く問題のない姿へと落ち着いたのはあと10分ほどで本鈴がなると言う時間になっていた。
「じゃ、行こ・・・ぅっ!?」
 目視で一通り表を見てから彼は向きを変えて外に踏み出そうとしそして絶句した。絶句と共に立ち止まって転回と踏み出しの交じり合った姿のまま止まっている姿は正に中途半端と言えるものだろう、一体何を、その固まったままの視線の先に見たのだろうか。
 それは逆から見ればまた色々と明らかになるだろう、そう驚かれた側である山崎から見ればまたその味わいは深まると言うものである。何故なら彼にとってはその驚きの反応に驚きを浮かべざるを得ないのだから、そした受ける立場であったからこそその場を打開するのも彼の行動によるものであった。
「中沢・・・どうかしたか?」
「あ・・・ま・・・まぁなんでもないよっ!」
 戸惑いの余り、その様に固まられる事に戸惑った山崎はただ純粋に一体どうしたのだと言う気持ちを以ってその言葉を投げかけた。しかし幾ら彼がそう思っていようとも受け手がそう受け止めるとは限らない、つまり以心伝心とは相当条件が揃わない限り困難であると言う証明たる一幕であったと言えるのではなかろうか。その言葉を前にして中沢が内心に浮かべたのは、大きな焦り以外の何物でもなかったからだ。そして先ほどの上履きで土の上、と言う事に気が付いた山崎の比にならないくらいの動揺に見舞われてしまったのだ。
「な・・・何でもないっ何でもないから・・・っ!」
 すっかり挙動不審とも取れる大粒の冷や汗を額などに噴出させながら中沢は山崎と柱の間にある空間に一気に踏み込み、そしてどちらにも肩をぶつけながら気にする事無く外へと駆け出した。その動きの前に山崎は有効な手を取れなかった、少なくともただ見るのが精一杯と言う程度でようやく遠くへ走って行くと言う事に気が付いた時には、唖然としたまま口を何を言うでもなくパクパクと動かして意味もなくその方角へと片手を伸ばすのが精一杯だった。
"見られた・・・見られた・・・きっと見られたんだ・・・!"
 そして一気に駆け出した、今や脱兎とでも言うべき動きをしていた中沢の頭の中はすっかり染で埋め尽くされていた。そこに更には何時もの事だから仕方ないと言う気持ちの下に封じ込めていた、後ろめたく罪深いと言う後ろ向きな感情が一気に吹き上がってきて混沌となって正に濁流の様に正常な思考を洗い流していくのみだった。
"ああもう・・・もう駄目だ・・・駄目だあぁっ・・・!"
 それはすっかり恐慌であったと言えるだろう、何せ林を突き抜けてグラウンドにて校舎に戻ろうとしている部活等の練習を終えた生徒が前にいるにも関わらず突っ込んでいくのだから。幸いにしてその衝突は生徒側が気が付いた事で回避されたが、障害物が無くなった事で動きもまた止まる機会を逸してしまった訳である。
 だがグラウンドは何時までも永遠に続くものではない、大抵の場合グラウンドの外と言うのは道路であったり何であったりと別の用途に使われているのが普通であるのだから。すっかり横切り終えたその時に必然的に彼にとっての逃避劇は終わりを告げた、告げたのは敷地の境目にある農業科の実習農場との境になっている低い柵。それに足を取られた次の瞬間、その体は頭から田植えの準備の為に水が張られた水田の中へと突っ込んでようやく止まる事が出来たのだ。
 最も水田の中で一回転に近い動きをその勢い故にする羽目になってしまった事から無残なもので、折角整えたその姿は泥塗れで滅茶苦茶に成り果てていて彼は失神してしまっていた。そしてその異常な行動を一部始終目撃したグラウンド上の生徒の報告により、担当の農業科の教員が来るまでそのまま水田の中に横たわって太陽に照らされるのみであった。


 続

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