仕事を早々に切り上げた俺は、職場から出たその足で駅前の路地を入った所にある和菓子店へと向かう。その店は高速道路の高架橋の柱の傍らにあり、今にも潰れそうな佇まいをしているが味は全くの別物、これほど上手い和菓子が他にあるのか・・・そう思えるほどの味を常に80になる老夫婦が日々丹精を込めて作り上げており、それ故知る人ぞ知る名店として知られている。
俺がこの店の存在を知ったのは去年の今日のこと。その日、俺を含めた数名の社員は納期が迫った仕事に終われて連日の徹夜をしていた。もう外の世界がどうなっているのか気にする余裕は無く、一心不乱に完成へ向けて直走っていたそんなときの事だった。
「差し入れだぞ、少しは休め・・・大変だとは思うが・・・。」
社長がやってきた、珍しい事だ。数ヶ月前から体調を壊して入院していたと言うのに、思わずそのことを尋ねてみる。すると社長は軽く笑って気にする事は無いと答えた。
「まぁ食え食え、腹が減っては戦は出来んぞ。」
そう言って笑う社長に乗せられて俺達は1人に付き数個ずつ口へと団子を口にする、噛んだ瞬間漏れて来るあんこが何とも美味しい。甘過ぎずかと言って薄過ぎず、その微妙なバランスの上にて上手く平衡を保っているその味に興味を抱いた俺は思わず尋ねると、教えられたのがこの店だった。
結局その年は納期ギリギリまで会社にこもっていた為、自らの手でその店から月見団子を買う事は叶わなかったが、その代わりにと手にしたみたらし団子もまた絶品で以来事ある毎に立ち寄っては買い求めていたのである。そして今年、念願の月見団子を手にした俺は足取りも軽く改札を抜けて、何時もよりも奮発してグリーン車に腰を下ろすと一路その最寄り駅へ向けて流れる車窓を眺めていた。
目を覚ますとちょうど下車駅に着く直前、慌てて身支度を整えた俺は人気の無いホームへ下りる。都心から2時間ほどだと言うのにここは無人駅、辺りには人家も特には見当たらずまるで別世界へ来てしまったかのようだ。走ってきた車掌に定期を見せ乗り越し運賃を支払い駅舎を出る、自分の他にも数人が降りた様だったが一番遅かったらしく、丁度駅前広場から自分を除いた最後の下車客を迎えに来た車が走り去って行った。
車掌の笛の音とドアの閉まる電子音、10両編成の電車は動き出すと間も無く加速し終着駅へと疎らな客を乗せて走り去って行く。駅から500メートル程離れた鉄橋を通過する音が聞こえたのは、駅舎から歩いて少し行ったばかりの時であった。
「ここか・・・懐かしいな。昔と変わってない様で・・・。」
風がススキの上を流れる音だけが耳に響く様になった頃、俺はそう呟いて道を外れ草叢の中へと踏み込んだ。そこには細い踏み固められた1本道がある、一見すると何の変哲も無い道であるが俺にとっては馴染み深く懐かしい代物だ。最後に来たのは高校三年の時の十五夜の日、天文部の満月を見る企画に参加しての事であった。
"あの時もきれいだったが、今日もまた一段と美しいなぁ・・・。"
満月に照らされたすすき野を進んでいくとふと道は途切れる、その先には崖がありその下には大きな池が広がっていた。江戸時代に作られた農業用の溜池と言う事だが、その後様々な変遷を経て今では半ば自然な池となっており、この辺りの小学校等は今も格好の自然観察の場として訪れていると聞く。
そんな池を一望出きる突き出した崖の上に腰を下ろすと俺は背広を傍らに鞄と共に脱いで置き、月見団子を取り出して早速口にほうばる。空中と池の水面に映る2つの満月を眺めながら、全くこれは素晴らしい光景としか言い様がない。恐らく日本全国を巡ってもここまで環境の良い所は無いだろう、と思いつつ瞬く間に平らげて、それからは体の力を抜いて静かに眺め続けた。
気が付くと月が動いていた、体の姿勢も崩れ土に腕がついている。どうやら余りの気持ち良さに転寝をしてしまった様だ、流石に背広無しでは涼しく体が冷えているので急いで身に纏い時計を見る。時刻は間も無く0時、下手をすると週電話逃してしまいかねないので慌てて身を払い整え立ち上がり、元来た道を足早に戻りかけたその時だった。何か言葉を掛けられたような気がしたのは・・・。
「お兄さん、気が付いてくれたね。何をそんなに急いでいるんだい、今日は十五夜ゆっくり楽しんで行きなよ・・・。」
それは決して自分の思い過ごしではなかった、気になって立ち止まり後ろを振り向くとそこには満月の光を影として立つ人影が一つ。先程俺が転寝をしていた場所に立っていた、言葉の感じと姿からは女なのだろうか、長身で細くそして胸の辺りの膨らみがそうと感じさせる。
「誰だ?」
「そんな怖い声をしないでおくれよ、決して怪しい者ではないから・・・。」
俺が不審気に言うと声はそう返す。
「ただ、一緒に楽しんで行こうよ・・・と言う事さ、まぁ見ていておくれ。そう言わずとも恐らく動けずに見るだろうけど・・・行くよ。」
「何を・・・。」
相手が余りにも話を一方的に進めるのでイライラした俺が文句を言いかけたその時、俺は絶句し同時に体も強張った。
目の前では女はさっと慣れた手付きで見に纏っていた物を、着物だろうかそれとも一枚の布だったのだろうか。とにかくそれを自然に脱ぐと捨てる事無く端と端とを持ってマントの様に背に回し、動き出す。それは踊りであった、満月を背景にした女の一人舞い・・・不思議と見ているだけで気持ちが高揚してくる、何処か妖艶で美しい、そんな感想の持てる踊りであった。
そして数分は続いただろうそれが終わった時、俺は思わず拍手をした辺りに響く澄んだ拍手を自分でも驚くほど長く。
「ふふふ、ありがとう。毎年踊っているのだけど人に見せたのは本当、久し振りね・・・。」
「素晴らしかったよ、本当に・・・良い物を見せてくれてありがとう。じゃあ俺はこれで・・・。」
彼女の発言にちょっと引っ掛かる物があったが、見たものは見たのだからと俺は足早に立ち去ろうとした。ところがつい今しがたまで動いていた体が再び強張って動かない、驚いて呆気に取られた表情をして焦っていると何時の間にやら女が目の前へとやってきた。そして俺の顔を見てこう言う。
「あら、ただ見て帰るつもりなの?駄目よ、タダ見は・・・今度はあなたの舞が見たいな。私・・・。」
「俺の踊りだって?何を言うんだ、そちらが見てくれと行ったから見たと言うのにこの期に及んで今度は俺に踊れだと?冗談じゃない、俺はそんなに暇じゃないんだ。明日も仕事があるんだよ。」
そう言って俺は抗議する、だが女の表情に変化は見られない。むしろ先程よりも俺を見下していると言うかその様な感じが強まっていた。
「・・・そう、それなら良いわ。じゃあ帰りなさい、どうぞ。」
女がそう言うので俺は憮然として急いで歩き始めた、こんな変な女の元からは早く去るに限ると思って・・・だがすぐにそれは行き詰った。何故なら数メートル行った所で途端に進めなくなるのだ、まるで何か見えない壁が立ち塞がっているかのように。俺が困惑して立ち尽くしていると背後から突然女の笑い声がした。
「何を笑っているんだ。それにこれはどういう事なんだ?前に進めない見えない壁があるじゃないか。」
だが俺のその言葉に女は応えなかった、ただ笑うのみ。頭に来てそちらへ戻ろうとした時、女は急に笑うのを止めその瞳でジッと俺を見詰める。その眼力に俺は思わず固まる、蛇に睨まれた蛙と言うのだろうか。
「タダで帰すと思って?甘いわねぇ、考えが・・・今のあなたは万引きしたのと同じよ。人間なら分かる筈よ、万引きはいけない事、万引きしたら罰せられる事ぐらい・・・私も昔、初めて人の世界に行った時に知らずに万引きをして捕まった事があるわ。まぁ幻術を掛けて逃げてきたけど・・・。」
「ちょっと待て、幻術って・・・お前は何者なんだ?」
「あら私?私は人じゃないわ、狐よ。正確には狐人なんだけどね・・・まぁほら見ていて御覧なさい、本当の姿になってあげるから。」
女が平然と言いきった途端、鈍感な俺でも痛いほど強い気配を感じた。そして目の前で女の姿が変わっていく、人と同じ姿でありながら全身に狐色よりも若干濃い獣毛が生え、先端が毛筆の様に白く整った尻尾が延び三角の耳が頭の髪の毛の中より現れる。あれ程黒かった髪は完全なる、人間で言うブロンドの髪の毛よりも更に鮮やかな金色となり、顔もやや変わって鼻のてっぺんが黒くなり突き出た形へ。どちらかと言えば人よりも狐の方が薄めの顔となり、狐目のまま瞳の色が変わって赤く輝いた。それが全てであった、そこには女曰く狐人と化した姿があった。
「どう美しい体でしょう・・・この体であなたを舞わせて上げるわ。光栄だと思いなさい。」
そう呟きながら妖しげに瞳を輝かせて近付いてくる狐人の姿を見た俺は、驚きと一種の恐怖の余り腰を抜かしてその場に尻餅をついた。だがそれに構う様子は無い、むしろ扱い易くなったと見ているのか余計に張り切っている様に感じられる。そして目の前へ達し手が伸び顔が接近し・・・。
「わあぁぁぁっ、や、やめてくれ!?」
誰もいないすすき野に俺の悲鳴が響き渡った。
どうやら俺は気を失っていたらしい、目を覚ますと当たりはほんのりと明るくなり夜が今にも明けようとしていた。
"夢だったのか・・・?"
俺は今の辺りの静けさとあの記憶に残るリアルな感触の2つの間で考えを巡らせた、そして動こうとした時ようやく異変に気がついた。どうも視界がおかしいのだ、どこか宙に浮いているような感じで奇妙な感覚であった。
「あっ気がついたわね。良かった・・・。」
あの忌々しい女狐の声が響く、不思議と体の中から・・・ただその声には昨日には感じられなかった安堵の気持ちが含まれていた。
「ごめんなさいね、こんな事にしてしまって・・・やり過ぎちゃったわ。本当ごめんなさい。」
女は頻りに謝ってくる、確かに昨日の一件は謝るべき事だとは思うがそんなに謝られても困るし、第一"やり過ぎちゃった"と言う言葉が妙に引っ掛かる。俺は意を決して尋ねてみた。
"やり過ぎたって一体どうなつたいるんだ俺は・・・早く帰りたいのだが。"
すると彼女は済まなさそうに
「ごめんなさい、もうあなたは家には帰れないの・・・本当にごめんなさい。全部私の責任だわ。」
"家に帰れない?そんな馬鹿な・・・一体何が起きたんだよ、まさか俺は死んでしまったとか・・・そんな事は無いよな?ふざけているんだよな?"
余りに女が謝って来るので流石に何か重大な事が起きてしまったのだなと俺は感じ、どこかヒヤヒヤとしつつ言葉を投げかける。
「まだ気が付いていないんだ、そうね半ば死んだも同然と言うところよ。」
"へっ然様で・・・ってどういう事なんだよ!?死んだも同然って、何を隠しているんだ?俺はどうなってしまったんだよ?"
「大丈夫死んではないわ、ただ人では無いと言う事だけ・・・急な事だったから繋ぎ止めるのが精一杯でこうするしか道は無かったの・・・見てみる?今の姿?」
"勿論、見せてもらおうか・・・生きているのはどうも確からしいけど・・・。"
ここまで来ると俺はもう怒る気は何処にも微塵にもなくなっていた、命があるが人ではない。その単純かつ明解でありながら、意味深な言葉にすっかり捕らわれてその様な気は失くしてしまったのだ。その代わりに今自分が把握している事から考えて嫌な予想が台頭しつつあった。
「見てごらん・・・これが今のあなたの姿。」
そう言って女は何処からか取り出した手鏡を俺に見せた。そこに映るのは女の下半身、丁度腰の辺り。そこには本来ならワギナと茂みがあるだけなのだが・・・俺は仰天した、その途端体が引き攣った様な気がした。
"まっまさか・・・どういう事なんだよ?これが今の俺の姿なのか!?"
そこにはワギナと共にペニスが、睾丸が姿を見せていた。そしてそのペニスはすつかり勃起して青筋が立っている始末、動揺する俺に対して次に告げられたのはかすかな望みを完全に打ち砕く物だった。
「そう・・・それが今のあなたの姿。あの後、そうあなたが気を失った後精を吸わせてもらっていたの。だけど、ちょっと吸い過ぎてしまって気が付いた時には・・・魂の半分がなくなっていたわ。でももう後の祭り、流石の私でも魂を元通りにするのは難しかったの・・・だからその時の状況、そして姿から最も容易かつ最短で出来るのはそれ以外に無かったのよ。本当にごめんなさい、その様な姿にしてしまったお詫びと言っては何だけど生涯こうして面倒を見て差し上げますからどうか・・・。」
女は、女の狐人は真にすまなそうに、心底俺に対する謝罪の念を浮かべつつ喋っていた。だがその時の俺には聞く余裕などなかった、ただ驚きだけが先行して・・・その言葉も何だかBGMの様にしか入っては来なかった。