証言冬風 狐作
 すっかり闇も深まった深夜の週末、私は何時も通りに駅を出て自転車に跨り深夜とは言えまだ騒がしい駅前を無言で漕ぎ去る。郊外の住宅都市なので数百メートルも離れればもうそこは人気の無い、時折タクシーが通過し家路を急ぐ人が通る以外は、電柱の蛍光灯が小さく円を描くだけの道。ライトを付けた僕の自転車は直進する筈の角を曲がって、更に置く深くへと潜って行く。
 静かにブレーキを掛けた先にあるのは古ぼけて蔦が壁と言う壁に這っている煉瓦造りの倉庫、窓が破れ屋根の所々から外気と月明かりの沈み込む倉庫の中へと壊れた扉を押しのけて、自転車と共に入り傍らに鍵を抜いて倒して留め置く。そして再び扉を静かに、僅かな軋み音すらも立てぬ様に慎重に閉め鍵をかける。ここはかつて旧軍の倉庫だったらしい、何を保存していたかは定かではないが壁に残る機銃掃射の跡が生々しく歴史を雄弁に物語っている。
 空の所々が錆び付いて穴の開いて転がっているドラム缶を横目に見つつ、私は更に奥にあるひとつのこれまた錆びた黒塗りの塗装の浮く扉を開ける。扉の奥は一切の闇、灯り等は無い、窓すらも無い。だから私は持ってきた小型の懐中電灯を点けて中を照らすと、くの字に曲がった部屋の突き当たりの台の上にそれは置かれていた。

 私は鞄を壁に掛けると服を脱ぐ、それこそ全て何もかも。脱いだそれらは既に用意してあるハンガーに掛け鞄の隣に吊るしておく。そして、手を伸ばしそれを両手でしっかりと掴む。それとは精巧なマスク、竜の顔を模ったまるで竜のデスマスクなのではないかと思えるほど美しく色付けされたそのマスクを、私はしばし壁から吊るした懐中電灯の光の下で静かに眺めると、更に持ち上げてその口先へと唇を合わせる。合わせた瞬間の何と言う快感、何と言う素晴らしさ、私はその場で思わず腰を震わせ感動に打ちひしがれる。
 一筋の涙が頬を伝う頃、私は向きを変えて持ち上げて頭の上からそのマスクの下へと顔を沈める。ただでさえ暗い世界は更に深くなり、自分の吐く息の熱がマスクの中に篭る、音は何処か遠い世界から響いてくるような感じだ。だがそれも最初の内、すっかり心を開いてリラックスしていると不思議な事に、あれ程までに感じていた吐息の熱も暗さも音の響きも無くなり、自然な全く不自然な所を一切感じなくなるのだ。

 一通り事を終えた私はそのまま、竜のマスクを被った全裸と言う出で立ちでその小さな暗黒に包まれた部屋から出る。出た先は先程ここに至るまで歩いてきた倉庫の中、すぐそこにある屋根の割れ目から射し込んで来る月明かりの水溜りの中心へ立って、全身へ万遍無く微動だにする事無く月光浴をしばし満喫。終わる頃にはあれほどまで感じていた悩みや疲れ、その様な私を煩わせ続けた一切の重い物が強い日差しの元の雪の様に、跡形も無く解けて姿すら残さず消え去っていた。
 そして私は瞳を開ける。不思議な事にマスクの中では黒以外何物も見えぬ筈だと言うのに、如何した訳か私の目には先程見たばかりの倉庫の光景が鮮明に、先程以上に鮮明に遥か遠くまで見渡せるのだ。だが普段思うとそれは不思議な事だと常々感じているのだが、その場では全く感じない。わずかな疑問もわずかな喜びも感情の一切を感じないのだ、あの私の心と頭を煩わせた物が溶け去った時も同じく。本当如何言う訳だか見当も付かないが、唯一言えるのはそれが当然、それが自然の様に捕らえていると言う事だけ結局何が何やら普段の私からは皆目分からない。
 私の足は静かに出口へと向う、入ってきた時とは逆の方向にある扉へ。そこの扉は常に半開き、何故なら片方の扉が元から存在していないのだから。私はその常に開いている場所を通り抜けると、その先に広がる一面の雑草の生い茂った野原の中へと身を沈めて行く。それはこの野原の先にて何かが何時も私を待っているから、私を求め、私も求める何かがいつも私を待っている。そして私はそれを目指してひたすらに歩く、竜のマスクに女の裸体と言う井出達で草を掻き分けて進むのだ。

 往々にして思うのは、その時私を見る目があったならばどの様に見えているのだろうかと言う事。当然、私の目に映るその姿であるのに変わりは無い筈、しかし本当の所はどうなんだろう?もしかしたら私の見ているのは全てがマスクを通した幻で、本当はあの倉庫の中をグルグルと一晩中歩いているだけなのではないか、と。或いは倉庫から出て住宅街の夜道をさ迷い歩いているのではないか、と。それとも本当に草生した野原の中を歩いているのか、と。様々な事が思われてならないのだ。
 それでも私は進んでいく、例えそれが全て幻であろうと現実であろうとその時の私は、一切の疑問と希望を抱く事無く進んでいくのだ。一心不乱にただひたすらに・・・。

 ・・・その日は満月に限りなく近い上弦の月が出ていた深夜の事でした。その時僕は確かに見たのです、近所の草生した人気の無い野原をかき分けて1頭の二足で歩く全身を緑の鱗で覆った竜の姿を。それはとても現実の光景とは思えませんでした、何時も持ち歩いているカメラが手元に無かった事を今でも惜しい事をしたと思っています・・・後日、とあるオカルト雑誌にて掲載された投稿情報より。


 完
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