風呂から出た後はすぐに夕食であった。山の幸をふんだんに使ったその夕食は見た目も然ることながら、味も期待を裏切らず中々の美味であった。下川は勢い良くそれらを食べつくして下げさせると、後はしばし、まだ春を残す夜風に吹かれつつこれまで溜めていた文庫本を一冊ずつ呼んで行き、深夜も深まりかけた頃に就寝した。
"まぁノンビリ過ごすとしよう・・・。"
彼は2週間、この湯治場に滞在する予定である。
翌日、朝食後に部屋に篭って趣味の書き物をしていると、ふと右の中指に軽く鈍い痛みを感じた。何事かと思って見ると、昨日風呂場の扉に挟んだ中指の爪が黒く変色していた、どうやら挟まれたショックにより爪が死んでしまったらしい。手の指の、それも寄りにも寄って中指の爪が黒く死んでいるのは見た目から悪かったが、ここは湯治場である。ましてや休暇中である、彼を知る者は誰もいないし、宿の関係者が知っているとしても所詮は一時の連れ合いに過ぎない。
"まっのんびり行くか・・・。"
そうして彼は再び書く事に視線を向けた。
数日が経過したある時、ふと中指の爪はどうなったかと思ってみると、何とも不思議な事に爪の回りの皮膚までもが黒くなっていた。
"これは一体・・・爪の周りも死んでいるということか?恐らくそうだろうが・・・。"
最も、その時点ではその様な事に対して知識の無い彼は、皮膚も爪と同じ様になっているだけであると捉えていた。しかし、それは大きな誤りであった。彼の爪は確かに死んでいた、しかし皮膚は死んではいなかったのである。
ではどうして黒く変色してしまったのか?それはカビである、彼が指を挟んだ際、その柱には極々微量のカビの胞子が付着していた。一見するとそのカビは単なる黒かびの胞子の様であったがその実は、何と未だ発見されていない新種のカビであり、そのカビはぶつかった時の衝撃でふとした事から彼の爪の中へと入り込んでしまった。爪の中も言わば下山の体内に入り込んだ壁は、人体の中の適度な熱と水分、湿度によって胞子から目覚め、最初は死んで黒く変色した爪の下へ続けて、死んではいない正常な皮膚へと潜り込むと、それを黒く変色させて静かに増殖していたのであった。だが彼は知らぬまま、それを放置してしまった。最も仮に専門家であったとしても気が付く事は困難であっただろう、後から見ると非常に悔やまれるものである事だけは間違いない。
一週間後の早朝、急な痛みに目を覚まして痛みが発せられていると思われる右手を見た。すると寝る時には異常はなく普段通りであった筈の右手は、すっかり肩の付け根までが黒くなり異様な光景を見せていた。この事に非常に驚いた下川はすぐに荷支度をして纏めると、開いたばかりのフロントに駆け込み、急用が出来たので予定を切り上げて変えると告げチェックアウトをして宿を出た。車に乗り込み、痛みの走る右手を庇いつつ彼は必死に運転をして、いつもの倍以上の時間をかけて自宅へ帰ると最小限必要な物だけを持ち、残りの荷物を車に載せたまま家の中へと転がり込んだ。
手を洗った後に上着を脱ぎ捨てて鏡に右手と胸を映すと、このわずか数時間の間に宿で見た時は肩の付け根ギリギリまで広がっていた黒の侵食は勢いを増し、右胸全体と右首筋下までを背中側も含めて覆い尽くしていた。恐ろしい事にそうやって見ている間にも、小さくその範囲は広がりつつあり、一旦風呂に入ってからもう一度見た際には臍の右斜め上や左胸の中ほどにまで広がっていた。
「なんなんだよ・・・一体、これは・・・まさか死ぬなんて事はないだろうなぁ・・・ちょっと痛いだけだし・・・あぁまた・・・。」
黒の領域が広がっていくのを見るのに忍びなくなった下山は、すぐにパジャマへと着替えるとその晩はそのまま寝た。明日の朝起きた時には全てが直っている事を祈って・・・。
「な・・・こんなに・・・。」
翌朝、目を覚ました彼の期待はすっかり裏切られた。状態は改善する所無く、悪化し最早腰から上の全てと顔の左斜め上の一部を除いた大部分、そして右大腿部までがすっかり黒で彩られていた。痛みはわずかに疼く様な勢いで残っている意外は全く感じられないが、この状態では家から一歩たりとも出る事は出来なかった。もし仮に医師に見せたら何と言われる事か・・・それを考えただけでも彼はすっかり一杯一杯になっていた。
一応、こうはなっても腹は減るので家にあるありあわせの物で簡単な朝食を摂るとその強い食欲に彼は驚いた。
"俺ってこんなに食べる人間だったか?"
何か1つ違う事で全てが違う様に、そして異常な様に彼は捉える様になっていた。する事だけをしたら後はただベッドに篭るのみ、退屈だがこれからどうなるのか知れない心中で彼は時間を食べていた。
2日後、前日に全身を覆い尽くした黒い皮膚によって彼は鏡に映る自分が果たして自分なのかと疑う様になり、ますます心身ともに不安定に陥りかけていたその時、彼は再びドアに指ではなく、今度は体を挟んだ。股間も見事に挟んだので何とも言えない痛みに耐えつつ、膝を折り曲げて堪えていると彼はふとその耳にかすかな音を捉えた。
パリッ・・・
何かが砕け割れるような音、それは彼が体を軽く動かしただけで聞こえてくる。気味が悪い音ではあったが、何かを感じた下川は試しに強く体を揺すった、すると
バリッ・・・バリバリバリッ・・・
全身にその音が走った、鼓膜から骨から何もかもが脳へその音を一斉に伝えた。音から間も無く、彼は体から何かが静かに剥がれて行くのを覚えた、一種異様なその感覚に驚きつつも微細な振動を楽しみながら目を瞑る。
バサッ・・・
とうとう全てが剥がれ落ちた、静かにその目を開けると床の上には、黒い薄く硬い膜が湾曲した形で幾つかに分かれて散らばり、所々が欠けている。一方で黒い皮膚に覆われている筈の下川の全身の表面には、あの忌々しい皮膚は欠片1つ無く、代わりにあるのは体の形に張り付くように生えた豊富な毛、黒く、光の加減で時には青みがかって見えるその毛は何かの獣・・・そう馬の獣毛そのものであった。全ての始まりとなった指先は、それぞれ分化したまま、足は足で1つにまとまり硬化し黒い蹄になっていた。尾てい骨の辺りからは毛と同じ色合いの長い尻尾が垂れていた。
「どういう事なんだよこれ・・・これじゃあ、人前に出られ無いじゃないか・・・完全に・・・。」
下川は蛹の殻の様に破れ落ちた皮膚であった物の破片を1つ片手に持ち、鏡の前に立ってそれと自らの全身を見比べていた。だが、その顔や骨格はまだ人のままであり、彼は理解に苦しんだ。一体、自分はこれからどうなるのか・・・どうなって行くのか、何も分かりはしなかったがとにかく今出来る事だけ、それは会社に風邪を引いたとして、休暇を更に一週間延ばす様伝える事だけであった。
会社へ連絡し終えた彼は自分がまだ人の声を出せることに安堵して、再び洗面所の鏡を前に自らの全身を見回した。少なくとも現時点で変化してしまったのは全身の皮膚と尻尾、そして蹄となった指先爪先だけに止められていた。
だが、これからこの体が馬へと変貌していくのだけは容易に想像出来た下川は、名残惜しそうにすっかり様子は変わってしまったとは言え、形としては人の姿を止めている顔と体を撫でた。指先に触れるのは自分のもの、しかしこれもあと少しのみ・・・と思うとある意味悲しさを感じもしたが、考えように寄ればこのままの中途半端なままで居るよりも馬になってしまった方が余程良い。彼は何時しか名残惜しむのを止めて、早急な変容を願っていた。
しかしこれ程までに切に思っていると言うのに、次なる波は一向に押し寄せては来なかった。翌日目覚めた時もそのままで彼は一種落胆を覚えて、一日を始めただ思いながら何をするでもなしに日を送り、夜を迎えた。結局変化は起こらず、失望を感じて眠りかけた矢先、急に脂汗を全身に掻き始めた。
"きっ・・・来たっ・・・。"
敏感に感じ取った彼は布団から飛び起きて、洗面所へと急ぐ。何としてでも自分が自分で完全になくなるのをこの目で見たい、そう強く考えていたからである。階段を駆け下りて洗面所へ着いた時、ようやく目に見える変化が始まった、顎と鼻が伸び始めたのをきっかけに顔がまるで液体の様に混沌とすると従来からの筋肉や骨格と言った形を無視して、伸び縮みそして動き行き、瞬く間に人の顔からあの美しい馬の端正な顔へとすっかり変わった。苦痛も何も無い、ただ何かが流れた様な感覚しか残らないその流れを、下川は身動き1つする事無く真剣に見詰め、僅かの間のみであるがその視野が広くなったことにすら気が付かないでいた。
体の骨格はそれ以上に滑らかな物で、それまで薄かった筋肉や無いに等しかった筋肉が一緒くたに、不要な脂肪が消えるのと同時に盛り上がり、骨も太くなりこちらも本当に流れるように筋骨隆々として頑丈な造りに変貌を遂げた。股間のペニスもまた、破れた服を押し上げて太さと長さを持ち合わせており、二足で経つ以外は完全なる馬そのものの、青毛の見事な馬人がその鏡の前にはいた。
「凄い・・・よ、これは・・・。」
新たなる自らの体を見た下川は驚きや失望ではなく、深い感動と喜びを感じた。嬉しそうにその場で鏡を見詰める事しばらく、彼はふと自分のペニスに力が篭っているのを感じた。考えてみれば先程から体が火照っている、どうやら獣化した事により下川は発情していたのである。そして、何も考えずに彼はその場を後にすると、静かにドアを開けて誰いない寝静まった住宅街の道路へと出た。空には満月が煌々と輝いている、その光は彼を刺激しますます熱の上がった馬人は静かに蹄の音を立てて、道を行き当たりの様子を探った。
"メス・・・メスは何処だ・・・。"
しばらくは何の脈絡も無く歩いていると突然、ある方向へと引き付けられた。人気も該当も無いその道で一人電柱の影に佇んでいるとそこには、そう1人の女が、何も知らない一人の女が彼の隠れている電柱へと近付いてきたのだ。彼は息を潜めてそっと待つ、そして・・・。
カッ・・・・
「きゃー!」
小さな蹄の音と女の悲鳴が夜の街に響き渡る、近所の住人が何事かと出てきたその時にはそこには誰もいなかった。
「猫の喧嘩かよ・・・勘弁してくれよな・・・。」
そう勝手に結論付けた住人は、家へ戻ると再び眠りに行った。翌朝起きた時にはすっかりその事は忘れており、数日後に1人の女性が行方不明になったと新聞に掲載されても何も思わなかった。