告げ口冬風 狐作
「あなたちょっと出かけてくるからよろしくね。」
「何処へ行くんだ、またあのエセ神父の所か?」
「エセ神父なんかじゃないわ、そうよ、私は神様にご奉仕してくるの・・・あなたも行きましょうよ?ねぇ。」
「誰が行くか、お前いい加減にしろよ・・・騙されている事にいい加減気が付けって・・・。」
「悪魔に魅入られた人の言う事なんて誰が聞くものですか。私は行って来ます。」
 そう言って妻は車に乗って出かけていった。家に1人残された夫はため息を深くついて、半ば冷めたお茶を飲みつつ居間の椅子に座っていた。
"全く・・・なんでこんな事に・・・。"
夫は1人頭を悩ませていた。
   新婚当初、2人は静かに隠れてしていた交際時代の鬱憤を晴らすかの様に熱々の関係を周囲に何かにつけて見せ付けていた。だが、次第に熱は醒めて冷静になっていくと妻は、自分の思い通りに完全に事をこなせない夫に対して不満を抱く様になり始めた。
 不味い料理、たまる洗濯物、床に広がるほこりの塊・・・完璧主義者の清潔好きであった妻は何時しか相変わらず煮え切らない夫の態度――最も、この優柔不断さに不思議と惚れて婚約したのだが・・・――を事ある毎に怒鳴りつけて強く批判する様になった。気の弱い夫は当初は言い返す等をしたが、次第に沈黙して不満を鬱積させては、妻のいない時間帯に自分の実家の母親へと長電話をかけて妻を批判した。その多くは事実でもあったが、余りの鬱積により事実と彼の見方とが融合して出来た偽りも多く含まれており正直な所、正確さを欠いた物と言わざるを得ない。
 この事実を妻は電話の通信記録から把握していたが、まさかそこまで酷い物とは思ってもいなかったので年末に夫の実家を訪れた際にも、わずかに覚悟はしていたがそう強いものとは全く想定していなかった。しかし、着いた先から始まった夫の母親から妻へと浴びせられる苦情とは名ばかりの、筆舌に耐え難い罵詈雑言に彼女面食らい反論を試みたが、我が子可愛い母親には通じず逆に言い訳をしていると見られて不利な立場に追い込まれる始末。結局、妻が全面的かつ一方的なその主張を受け入れて謝罪する事で一応の片をつけることに成功した。全てが終わった時、妻はホッと一息を吐いた。休みを取ろうと来た筈のこの数日間はその殆どをそれへの対応に忙殺されて、気が付けばけんかをして年を越している有様であり、翌日の昼夫の首根っこを掴むように自宅へその場から去っていった。

 妻が謝った事で調子に乗ったマザコン夫はますます図に上がって、それまではしなかった様な事をし始めた。最初の内は何時か熱が醒めるものと信じて黙っていたが、とうとう堪忍袋の尾を切らして以前と同じく二言三言苦言を呈しただけで、再び母親に連絡され彼女の日常は蹂躙された。その影響は仕事にすら及ぶようになり、それまで常に高位を確保していた彼女の業績は低下し、事情を知らない周囲からは時代の終わりだのと心無い言葉を暗に言われてこちらでもかなり傷ついていた。
 それでも彼女は一途なまでに、ここまで来ると狂信的に夫とその実家が正常化するのを期待したがある事でとうとうその甘い期待をかなぐり捨てた。彼女にそこまでの決心をさせた出来事、それは夫の浮気である。ある日のこと、海外出張が突然中止になり予定外の帰宅した彼女は、家の中から何やら声が聞こえているのを耳にした。玄関の扉のわずかな隙間から漏れて来る音を拾っていると、てっきり当初は実家の母親と電話をしているものと感じていたのはそうではなく、夫の声と共に別の女の声が混じって聞こえてきた。玄関に置かれている靴を見るとなるほど、そこには見慣れた靴達の他に見慣れない赤色をした女物の靴が一足置かれていた。
"あのマザコン野郎・・・とうとう、他の女に手を出し始めたな・・・。"
 生来優秀であると共に情熱的で男勝りの気質の持ち主である彼女の心中は、先の想いに代表される様に溶岩の如く煮え滾り、これまで募らせていた我慢と言う名の岩盤を次々と溶かして勢力を躍進させた。この場で踏み込んで2人をボコボコにする事も出来たが、下手をすれば自分に火がかかりかねないとそう言った中で、あくまでも冷静さを忘れていなかった彼女の中の理性がその本能から来る想いをその場で留まらせて静かに立ち去る事を選択した。
 理性によって想いを何とか押さえた彼女は、元来た道を戻って駅から電車に乗り主要な流れとは逆に都心へと戻った。都心の繁華街の駅に降り立つとそのまま駅前の雑踏の中へと姿を消した。

 翌朝、始発電車に乗って自宅の最寄り駅へ向っている彼女の手には紙袋が握られていた。彼女には始発電車に乗るまでの記憶が無い、繁華街の入口へと足を踏み入れた記憶を最後に、数時間に渡って記憶が途絶してしまっているのだ。恐らく、様々な店を回って飲んでいる内に泥酔して意識を失ったものと考えられるが、不思議とそこまで酔ってはない。ほろ酔い加減で上機嫌、と言った所で意識はしっかりしておりその目は車窓の外に見える、ビルとビルの間から顔を出した太陽を見据えていた。
"全く、どこで飲んでいたんだろう私・・・記憶が飛ぶなんて・・・でも、その割には意識がはっきりしているのは何故なの・・・?"
 彼女自身、記憶の空白に様々な思う所があったが1つだけある事を承知していた。手に握られている紙袋の中に入っている物の使い方だけは・・・。
ガタン、ガタン、ガタン、ガタタン・・・
 そんな彼女を乗せて電車は朝と夜とが混ざった不思議な空の下を走っていった。

キィ・・・
 家に帰った彼女は玄関のドアの隙間からまだ不倫相手の女が夫と共に家の中に居るのを確認した。
"馬鹿な奴・・・絶対許さないんだから・・・。"
今一度心に怒りの炎を燃え上がらせて脇に理性のバケツを置くと、そっと手にしていた紙袋の中より丁重に物を取り出した。
"ええと・・・確か、これであっているわよね、使い方は・・・。"
取り出されたのはずんぐりとした円筒形の物体・・・缶詰の様なその筒は幾つかあり、その内の1つを選ぶと他は元へ戻してしまう。細心の注意を払って扉を開け、静かに靴を脱いで筒を強く握り締めて角に隠れて半開きになったドアの間から、今の様子を窺うとそこには間抜けな夫が浮気相手の女と共に居眠りをしていた。着衣が乱れて夫のズボンは下ろされ、女のスカートとパンツがその場に脱ぎ捨てられている。そして仄かに漂う栗の匂い・・・何が昨晩この場で繰り広げられていたかは、聞くまでも無く一目瞭然であった。
"そこまでの仲とは・・・本当、あなたには馬鹿にされたものね達也・・・そんなあなたに数日早い誕生日プレゼントを上げるわ・・・その尻軽女と堪能なさい・・・。"
シュッ
バタン!
 彼女は軽くその筒の封を切って中へ投げ入れると、扉を荒く閉めて玄関から外へ飛び出した。誰にこの様な事を教えられたのか、一向に分からないのであるが1つの動作を進める度に自然と脳裏に浮んでくるので、これほどありがたい事は無かった。
「三時間経ったら戻ってくる事にしましょうか・・・。」
玄関のドアの鍵を閉めると車に乗り、30分ほど離れた道路沿いにあるレストランへと向い、朝食を摂りがてら時間を潰すことにしてその場から立ち去った。

プシュー
 家の中では投げ込まれた筒から、静かに白い気体が閉じられた居間の中へと充満していた。あれほど強く扉を閉めたと言うのに、熟睡している2人の愚か者は目を覚ます事無く眠り続けている。充満した気体は呼気と共に体内へ侵入する他は、皮膚からじわじわと体内へ染み込んで行った。
 ある一定の量にまで蓄積された順にそれに含まれていたある化学物質が作用し、無数の細胞へと染み渡ると核の中の遺伝子を攻撃し、それを乗っ取ってその塩基配置を一つ一つ細かく書き換えて行った。遺伝配列の書き換えられた体は、不思議な事に全く腐敗せずに醜く蠢いてはその形・機能を変えて行った。内臓等皮膚の内部の書き換え・作り変えの進行と共にそれに伴って変化した臓器を収容できるように骨格にも変調が生じ始めた。
 夫の体は中肉中背ちょい小太りの典型的な親父体型からまず脂肪が落ち、次に皮膚の弛みが無くなると骨と筋肉が逞しい体になると、その皮膚の上をすっと随所から生えた灰色の毛が埋めて尻尾と肉球、そして顎が突き出て顔がすっかり人とは違くなった。
 女の方も似た様な感じで途中までは進んできたが、筋肉質になると共にその胸は豊満さを増し、尻が伸びて足ほどの長さのある巨大な尾が足の間に姿を現していた。耳は位置を変えずに尖り、両側のこめかみからは耳と似た形の黒い角が飛び出す。足の指は前に4指、後に1指と言う形となりその皮膚は冷たさと厚みを感じさせる丈夫な物になっていた。顔も男と同じく顎が伸びたものの、やや人間らしさが強いものである。
 そして全ては誰も知らない内に完了していた。

 きっかり三時間、レストランで過ごした彼女は再び家へと戻ってきた。戻ってきた時にはもう既に3時間40分以上が経過しており、彼女はある種の希望を胸に今度は普通にドアを開けて家の中へと入った。
「ただいまー。」
 家の中から返事は無い、逸る気持ちを抑えつつ彼女は締められた今のドアの取っ手に手を置いて、深呼吸をするとこんどは慎重にその中を覗き見た。するとそこに広がっていた光景は彼女を満足させる事以上に、多大な驚きをその心の中に沸き立てさせるものであった。

「何よこれ・・・。」
 今の中心に転がる筒の先のソファーに寄りかかる様に寄り添う2人、その構図は数時間前のそれとまったく変わっていなかった。しかし、革張りのソファーの上には毛が散乱しており、寄りかかる2人を中心にそれ以外にも散らばっている。そして当の2人の姿は夫であった方は全身に灰色の獣毛をたたえた筋骨隆々とし人の面影を残した異形へ、浮気相手の女も足の間から長い尾を伸ばし、皮膚はトカゲに通じる冷たさと反射を持った物へと転化した、こちらも人の面影を残した異形、つまり狼人と竜人に成り果てた2人の異形の姿がそこに寄り添ってあった。
「・・・これをどうしろと言うの私に・・・。」
 答えを求めた彼女であったが、もう二度と脳裏に導きが浮かび上がることは無かった。


 完
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