斜面を登りだしてしばらく、その道程は大木と自分の予想以上に険しいものであった。まずは鬱蒼と生い茂る木々と下草、そしてぬかるんだ急な斜面・・・気が付けば私達は斜面を登るのを諦め斜面を横へ横へとわずかでも平坦な場所を飛び石の様に渡って進んでいた。余りのきつさに話す気力さも起きない、ただじっと俯き加減で何かを押し殺したかのように進むばかりである。そして、それを促進するかのように雨は容赦なく葉と葉の切れ目から襲ってくる。
"インパール作戦みたいだな・・・。"
不意に私は今から60年も前に行われた、旧陸軍がインドへの侵攻を企ててチャンドラ・ボース率いるインド国民軍と共に行い、史上稀に見る多大な犠牲を払った悲劇の作戦の名を思い浮かべていた。
"死にたくは無いなぁ・・・。"
と言う思いと共に。
斜面に沿って進む事しばらく、ようやく前を行く大木の足が止まった。疲れ果てて足が棒の様になっていたので、ようやく少しの間でも足を止めていられるのは嬉しいことだった。
「おいおい、穴があるぞ。」
「穴?・・・あっ本当だ。」
足を止めた大木が指差した先を見るとそこには下草の生い茂った斜面の中にポッカリとまるで何者かがそうしたかのように、人一人が余裕で入れる程度の大きさの洞窟が口を開いていた。
「デカイな。」
「そうだな・・・雨宿りでもしようかと思うんだが、どうだ?」
「いいんじゃないか、もうすっかり疲れたからな・・・。」
私は素直に同意して、その洞窟へ滑り込んだ。
「うぅ・・・寒い寒い・・・。」
洞窟の口からやや中に入った所で私達は大木の持っていたライターで焚き火を焚いて暖を取っていた。洞窟の中は雨に濡れる事も無く、非常に楽な気持ちでいられたが雨に濡れた体は、冷えた空気と共に体を震わせ気持ちもまた下げて来る。
パチ・・・パチ・・・。
「しかし、ライターを持ってきて正解だったよ。」
静かに燃える焚き火に手を合わせながら、自らに対して感心する様に大木は呟く。私はそれに対して会釈で答えるに止めた、あまりの寒さに言葉一つ発するのも億劫に感じられたからだ。そのまま無言で焚き火を見つめて。時間は次々に去りいつしか焚き火の明かり以外は全て暗闇に包まれてしまっていた。
「しっかし・・・ここは一体どこなんだろうな・・・あの山の一部であることは分かるんだが。」
「そうだな、俺は中学以来の付き合いだから、この山の殆どは知り尽くしていると自負していたが今回ばかりはお手上げだ・・・。」
と大木は自らが知り尽くしていると思っていた山に対して静かにため息をついた。,br>
「そんな事は無いさ、ただ今回は運が悪かったって事だよ。何、気にする事は無い、じっくりと雨が止むのを待とう・・・腹が減って寒いけどね。」
「まぁ、それもそうかぁ・・・でもやはり悔しい・・・。」
「そう悔しがるなって・・・また知れば良いただそれだけの事だよ。良い勉強だったと受け取ればいいさ。」
「武本の言う通りかも知れんな・・・しかし、早く雨が止まんかねぇ。いい加減ウンザリするわ。」
「気長に待つしかないな・・・。」
と大木と共に暗闇の中に響く雨音に対して言っていた。
ドッドン・・・。
「何だ今の音は?」
深夜を少し回った頃、何とか眠らない様に努めていた2人の耳に何か聞きなれない鈍い音が外から聞こえてきた。
「さぁ・・・?」
尋ねられても適当な答えが見つからなかったので、そう答えたその時だった。不意に洞窟が鳴動を始めたのは、激しい揺れと次第に大きく響いていくその音に私は嫌な予感を抱いた、無論それは大木もそうであったようでさっと薪としようとしていた長めの幾つかの木に火を移らせると、その場から洞窟の奥へと移動した瞬間だった。
グァッドッドーンッ!
鼓膜が痛くなる様な大音響と最大の揺れが洞窟と自分達を襲った。そして、洞窟の壁を掴まえてやり過ごそうとした私の目はある衝撃的な光景を捉えていた。洞窟が、先程までいた火の辺りが突然姿を消したのである。
「ど、土砂崩れだ!崩落だっ!」
あまりの事に私はそう口走っていた。そして、焚き火が消えた今自分と大木とが持っているだけの火を守ろうとして無意識の内に足は、最初は静かにやがては大きく洞窟の奥へと向かっていた。
「おい!俺を置いていくなよっ!武本、1人で逃げるんじゃねぇ!」
私がその場から奥へと駆け出したのに気が付いた大木は、大声で大音響にも勝るかのように怒鳴りながら私の後を追った。それを耳にしながらも私はとにかく、奥へ奥へと走った。幸いな事に洞窟は常に一定の大きさであってくれたので、途中で歩を緩める事は無くすんなりと進められ。歩を止めた時にはもうあの大音響は耳には聞こえなくなっていた。
「全く、勝手に1人で逃げるなよ、武本。酷いじゃねぇか・・・。」
しばらくするとやや遅れて大木が追いついてきた。文句を言いながら肩から息をしている。
「スマンスマン、いや、何突然の事に乱心しちゃってさ・・・。」
私は微妙に笑いながら答えたのを見て、ふぅと軽く息を大木は吐いた。そして
「あの場面では乱心・・・いや驚愕の余りするのも無理は無いかとは思うが、一言ぐらい声をかけていけよな、まぁこの話題は良いや・・・ところでここは一体・・・まるで同じ洞窟の中とは思えないが・・・。」
「あぁ、確かに・・・うーん、湖があるとはねぇ・・・。」
驚いた事に、今いる場所は湖の畔であった。とは言えあの洞窟の中を走ってきた先にあったのだからこの湖は洞窟の中に広がっているのである。つまり、あの最初は人一人入れる程度の洞窟がその奥にはこんな姿を秘めていたという事である。
「試しに一杯飲んでみるか・・・喉も渇いたことだし。」
「大丈夫か?見た感じ汚れとかは無いけど・・・。」
「大丈夫だろ、むしろ地下水だからきれいかも知れないぜ・・・とにかく、俺は飲むぞ。」
そう言って大木はその水を口に含んだ。
「どうだ?不味いか?」
神妙な面持ちをして水を口に含む彼に問いかけた、すると
「いや、不味くは無い・・・むしろ、甘くて上手いぞ。中々の美味だ、武本も飲めって・・・あぁ美味い。」
と満足げな少々の驚きを含んだ顔と言葉で応じて、再び水をガブガブと飲み始めた。だが、私は何かを感じて大木の飲む姿をただ見つめているだけであった。
「ガーッ・・・ゴーッ・・・。」
洞窟内にいびき声が反響している。湖の畔のその場所で私と大木は一夜を明かす事にした。不思議な甘さを湛えたその水を一杯に飲んだ大木は満足して、先ほどからいびきをかいて眠っているが私はどういうわけか目が冴えてしまい眠れないまま、しずかに反響するいびき声と微動だにしないその湖面とを見聞比べていた。
頬に冷たさを感じて目を覚ますと、私は洞窟の床の上に寝転がっていた。どうやら、あの後何時の間にか眠っていたらしい。
「うーん・・・良く寝たなぁ・・・。」
と伸びをして呟いて目を覚まし、寝惚けた頭でボーッと湖面を眺めていると不意に自分の喉がカラカラに乾いているのに気が付いた。
"一杯くらい飲んでも大丈夫だろう・・・。"
とそっと歩み寄るとその水を軽く口に含んだ。
ゴクッ・・・。
含んだ水は静かに喉を鳴らして下り染み渡っていく。
「なるほど・・・これは中々美味い、大木の言うとおりだな。」
私は昨日の大木の言った事は嘘ではない事を実感すると共にふと大木の事を思い出した。
「おーい、大木起き・・・。」
と言いながら背中の方にて眠っている大木を起こそうと振り返ったその瞬間、私は我が目を疑った。何故なら、そこに大木の姿はなかったからだ。私は自分が寝ている間に目を覚ました彼が洞窟の入口を見に行ったのではないかと考えて、慌てて昨日走った道を駆け足で戻った。走っていては分からなかったが、結構な長さのその道のりを経て着いた先の閉塞点に大木の姿はなく、また来た気配も無い。それに洞窟が昨日の土砂崩れで入口が崩落した事を知った事による落胆もまた大きなものがあった。
"どこに行ったのだろう・・・ひとまず探すとするか。"
「大木ーどこだー、返事しろー。」
湖の畔に戻って私は大声で彼の名前を叫んだ、しかし返答は無く自分の増幅された声に襲われただけであった。声を出すことは無駄だと悟り、今度は手当たり次第行けると思える範囲を念入りに調べたが中々手がかりは見つからず、諦めかけたその時私の耳に微かな声の様な物が捕らえられたのは。
"大木の声だ・・・どこから聞こえている?"
私は一切の動きを止めて慎重にその音源を辿った、すると微かであるがその声はすぐ近くの岩の中から響いている様であり、手を伸ばしてそれと思しき岩を軽く動かすと案の定その岩の下には小さな穴が奥へと続いていた。その穴はこれまでの物と比べるとかなり小さく、這わないととても中には入れそうになかった。しかし、大木の声はこの奥から響き、また不可解な事に風がこちらへと噴出して来ているではないか。
"これは行って見るしかないな・・・服はこの際我慢だ。"
そして、岩を完全に退けてその中へと匍匐全身の要領で体を差し込んだ。
その穴はこれまでいた洞窟の初めの付近と同じくほぼ一定の大きさが連続していたので、狭くて前進する意外に大きな動きの取れない以外は快適な穴であった。進めば進むほど声は大きく風は強くなり、同時にその風は次第に熱気を帯びてきた。温泉でも沸いているのだろうか、その暖気を含んだ風に混じって聞こえてくる大木の声は何かに抵抗している、そんな感じに受け取れた。
"これは、何か大事だな・・・急げ急げ・・・。"
無言のまま、ひたすらに穴を這う事10分余り、大きく屈曲した箇所を曲がると目の前で穴が終わり新たな未知の空間が見て取れた。何やら白い蒸気が見え、熱気が肌で感じられて赤々としている。しかしながら、あれほど聞こえていた大木の声は全く聞こえなくなった。
"何が起きているんだ・・・この奥で・・・。"
私は何が起きているのか想像もできないまま、唯一彼の身を何等かの異常事態が襲っていると言う事だけは理解してそっとその口から下の方を望んだ。そこには想像以上の異常な凄まじい光景が広がっていた。
縦型をした楕円形の空間の底の一角からは濃い蒸気が立ち上っている。その上には透明な正円の物体・・・魚の卵を想像してもらえば良いだろう、それの何十倍にも大きな卵が壁から突き出た幾つかの支えに乗って蒸気の上に晒されていた。そして、その透明な卵の中には1人の人間、そう大木が体を小さく丸くした格好で中の液体に浮かんでいた。私は思わず叫ぼうとしたが、すぐにそれを止めた。何故なら、その卵とは反対側の陸地の上に1人の白服に、古墳時代の辺りの人々の着ていたような服装をした白髪の老人が静かに卵を見つめていたからである。とにかく、何をする事も出来ないので見つめていようとしていると急にその老人が軽く手を振った。すると、突然自分の下にあった地面が消え、空中に浮いた状態となった私は、老人が手を下に下げると共に下へ向かって下降をゆるりと始めた。
何の衝撃も無く、見えない手に引かれるかのように底面に着陸した私の目の前に、例の白髪の老人が静かな瞳で立っていた。その物言わぬ静かな目に私は一瞬全てを奪われそうになったが、気を確かにしてそれに向かった。
「あなたは一体何者なのですか?」
物言わぬ老人に対して私はこう言った。すると老人は覚悟を決めたかのような目をすると、口を開いた。
「わしかね・・・わしはこの山の主じゃ。」
「山の主・・・という事は神様と言うことですか?」
言葉を慎重に選んで更に続ける。
「そうじゃ・・・理解が早くて良かったわい、全くお前さんは・・・お仲間とはえらい違いだ。」
「お仲間、大木の事ですね。」
「ほほう、あの者は大木と言うのか・・・では、お前さんが武本かな。」
「はい、そうです。私が武本です・・・ところで。」
「何じゃ。」
「大木に一体何をしたのです?あのような卵の様な中に入れて・・・。」
「罰じゃよ、罰。」
「罰?一体何に対しての?」
「御神水を飲んだからじゃ、ほれお前さんも見たであろう。あの湖の水じゃ・・・あれは人が飲んではならぬ物、神と神に認められた者のみが飲む事を許される水じゃ。」
「そうだったのですか・・・で、大木を一体如何するつもりなのですか?」
「あの者は我が奴隷とする・・・今はその仕込み中じゃ、神の奴隷となる以上人の姿では居れぬ。」
「神の奴隷・・・ですか。」
「そうじゃ、まぁ見ているがいい。そろそろ始まるぞ。」
と言って、山の主と名乗ったその老人はその妙に納得してしまった不可解な会話を切った。自分としてもこれ以上話す事は得策ではないと感じたので、すぐにそれに習い大木の入っている卵を見つめた。
卵の中に入れられている大木は全裸であり、先ほどと同じく体を胎児の様に丸めていた。卵の中の液体は時折底の方から気泡が立つ以外は何も動きは無く、平穏その物であった。
"何が起きるというのだろうか・・・そもそも、この老人は一体・・・。"
卵と卵をじっと見つめる先ほどまで話をしていた"山の主にして神"と名乗った老人とを、見比べながら感じた。だが、一向に反応を示そうとしない老人を見るのを止めて卵に集中し出したその時、これまで平穏であった大木が小さく震えた。そして、口から大きく気泡を吐いた。小刻みに震え出した大木は目を閉じたまま、静かに変化を生ぜしめ始めた。
丸くなった背中の肩甲骨が縦に大きく盛り上がった。そして、それはそのままに組まれていた手も解けて力なく伸びると共に皮膚の表面が盛り上がり始めて、硬質化し鳥特有の硬い皮膚が形成されていき、足もまた膝より下が硬質化し、そして前2指後1指の鳥の足へと変貌した。人のままで残った部分も含めて全身はしまった筋肉質の体になり、幾分身長も伸びている。そして、残った人の皮膚のままである場所は小波の様に白い産毛を先頭に黒い羽、鳥毛がその上に覆い被さる形で全身を侵食した。全身が鳥毛で覆いつくされると共に口の中からは鋭く黒く輝く嘴が伸び、そして顔全体が鳥様の流線型を描いていき、最後にこれまで最初に盛り上がって以来何ら変化のなかった肩甲骨の瘤の中から、大きな対となった羽が一気に開いた。花の蕾が開くように瘤を破って開いた巨大な羽はすぐに折りたたまれると、それまで微動だにしていなかった卵の表面に亀裂が走り中から満たしていた液体が、下の盛んに吹き上げられる蒸気の中へと一気に落ちて行った。瞬間、これまでに無く激しく噴き上げられた蒸気によって辺りは濃い霧の中の様に白くなり、視界が回復した頃にはもう卵はそこには無かった。その代わりに、僕と老人の前に頭を垂れた1人の鳥人がひざまついていた。
「完成じゃの・・・ほれ。頭を上げるがいい。○○×よ。」
「はっ・・・仰せのままに・・・。」
と鳥人は名を呼んだ老人の言うがままに頭を上げた。その目は緑色をしており、とても以前に大木であったとは、無論その姿からでもあるが思えない。また、自分を見ても何も変化が無いので記憶もまた消えているのだろう。
「○○×よ、お前はこれより我が手となり足となりて仕えよ。それがお前の全てであり、我が命には必ず従えそして果せよ・・・分かったか。」
「はっ、私は命を懸けてもあなた様の仰せのままに従い、生きる事を誓います。」
「うむ・・・よいよい。」
と老人は、いや山の主と言った方が適切だろう。こうもこの様な自分には聞き取れない発音をする光景を見せられてはそう言うしかない。
「さてさて、次はお前さんじゃな・・・さて、お前さんもわずかに一口御神水を口にしたと認めるかね。」
「はい、確かに一口飲みました・・・。」
どうして、それを知っているのかという問いを堪えて私は正直に山の主の問いに答えた。
「えらく素直じゃな・・・まぁ、それで良い・・・して、一口でも御神水を飲んだ人間は罰しなくてはならないのじゃが・・・さてどうしたものかな。」
どうやら大木の処分が済んだのを受けて今度は自分が罰せられるようだ。私は覚悟をきめ、やや緊張した面持ちをして、次の言葉を待った。そんな私を山の主はその髭を弄ってはしばし検分し、答えた。
「ま、一口だけじゃから許すとするか・・・だが、何もしないで里には返さぬ。少し目を瞑るが良い。」
私は無言で目を閉じた。すると、山の主は何かを始めた。何をしているのかはわからなかったが。体のあたらこちらに平たい棒が当てられて何事かを詠唱しているのだけはわかった。
「目を開けるが良い、これでお前さんに対する処置は終わりじゃよ。」
と山の主は言い、私は軽く頭を下げた。
「大木は・・・どうなるのですか?」
「あやつは二度と人へは戻れぬ・・・余りにも多くの御神水を含んでしまったからの・・・。さぁ、人であるお前は行くがいい、あそこにあいておる穴に入れ。入ればお前は人の世界へと戻るじゃろう、そしてこの山には二度と来ないように・・・分かったかな?」
「はっ分かりました・・・この度は真に申し訳ありませんでした。」
「木にはせぬ、詫びは良い・・・さぁ行くが良い。」
「失礼しました・・・。」
礼は良いと言われつつも最後にもう一度だけ頭を下げて、私はその示された穴の中へ入った。最初に入った洞窟と同じ様な感じのその穴は、次第に輪郭がぼやけ気が付いた時にはその姿はなかった。
気が付けば自分は自宅の玄関に立っていた。
「ただいま・・・。」
「おかえりなさ〜い、山菜は取れた?」
玄関横の今のコタツに温まっている妻が、そのまま襖を開けて暢気に話しかけてきた。
「いや、途中で雨が降っちゃって・・・駄目だったよ。」
私は何か、自分と世界とのギャップを感じつつ話を合わせて答えた。すると、妻は残念そうな声を上げて夕飯は何がいいかと聞いてきた。適当な品を言って、ひとまず2階の自室へ避難すると着替えながら、一緒に山菜取りに出かけた1人に電話をした。
「もしもし?」
「あぁ、鴻池かあのさぁ今どこにいる?」
「今ですかぁ、居酒屋っすよいつもの・・・ええ、二丁目の・・・武本さん突然車の中で帰りたいなんて言い出すんですもん・・・今から来ますかぁ?ヒャコャコャ。」
電話口の向こうから聞こえる元気な2人の声を聞いて私は一瞬めまいを感じた、気が付いたらいた玄関、そして手に持った濡れた山菜取りの用具・・・そして元気に酒を飲みくわしている2人。私は意を決して続けた。
「ところで、大木はそこにいるか?」
「大木?誰だそれ?」
「ほら、大木だよ、大木。高校の時同じクラスで、今日一緒に山菜取りに行った・・・。」
私は敢えてその先を言わなかった。どうも話と記憶が食い違っていたからだ。電話口の向こうで鴻池はしばし沈黙して、返してきた。
「おいおい、武本・・・お前何を言っているんだ。今日は3人で山菜取りに行ったじゃないか・・・それに大木は成人式の2日後に鉄道自殺して葬式に行ったじゃないか・・・故人の名前を持ち出すなんて、大丈夫か?」
その時、私は返す言葉が見つからなかった。取り合えず適当に返して電話を切ると椅子に倒れこむように脱力し、しばしそのままの格好で過ごしていた。大木・・・鉄道自殺・・・葬式・・・故人・・・汚れていない服・・・そして、自分の股間にある2つの鱗に覆われたペニス・・・これまでのあの一連の出来事が否定されたという記憶との不整合で、私はしばらくの間、無力感と脱力感で自分のどこかが壊れたのを感じた。一陣の突風が、季節外れの突風が窓を叩くのを聞き、鱗に覆われた股間に立つ2本のペニスを見つめつつ・・・・・・。