誕生日〜恵子の日常〜冬風 狐作
「あっ恵子チョーカーなんて巻いてたんだ。」
 昼時も過ぎた午後の学食、つい数十分前までの喧騒振りが嘘であったのかと思えるほど閑散とした室内にその声は響いた。それは窓際に程近い五月晴れの太陽の陽が静かに注ぎ込んでくる場所だった。
「えっ・・・あっうんそうそう、ちょっと巻いてみようかななんて思ってさ・・・。」
 恵子はそう言われて思わず首筋に巻いたチョーカーへと左手を当てた。思わず進めていた箸の動きが止まり慌てて口の中にある物を飲み込んでの行動だから何処かぎこちないのは当然であろう、そんな恵子を向き合って座っている友人はまじまじと見つめる。
「ふーん・・・珍しいわねぇそんな物つけるなんて。」
 そう呟いて手元に巻かれたままにしてあったスパゲティを口に含んで食すと続けて呟いた。
「まぁ何があったかは私の知った事じゃないけどさ、気になってね・・・以前ほらあんた康平君からネックレスもらって、首にかける装身具は絞められる様で嫌だとか言ってそのまんまにしてるじゃん。なのにチョーカーなんて余計に締め付けるものを良く付けられるなぁと思ったのよ。」
「そっそんな事・・・それはねあの時はそう言ったけど、ほら心変わりってものがあるでしょ。それよそれ、だから特に意味は無いの・・・。」
 そう言って恵子は笑い顔を浮かべながらその様に説明を、とは言えそれは何処か必死で笑い顔とは言えどもどこか作った様な印象を漂わせているのが印象的であった。当然その不自然さに気が付いた友人はそこを突いて来る、幾度かのやり取りの後友人は最後に1つ呟いてトレーを手に席を立った。
「・・・もう康平君がいなくなって半年かぁ、何処行ってしまったんだろうね。じゃお先に。」
「あっうんじゃね。」
 恵子はそう答えるので精一杯だった、そして去っていく友人の背中を見ながら今一度今度は右手でチョーカーを押さえた。

 黒元康平、その名前は恵子と今し方の会話を繰り広げていた友人の2人にとって忘れる事は出来ない名前だった。このそう大きいとも小さいとも言えない中堅所の公立大学に同じ高校から来た3人は同じクラスであった事も関係し、高校の時には殆どやり取りも付き合いも無かったと言うのに今では入学して数週間も経たない内に、高校時代のクラスメイトが見たら目を見張るほどの強い関係を築き関係を持ち合っていた。特に康平と恵子の関係は友人と言う括りを超えたものであっただろう、男一人に女二人と言う関係において男を巡って女同士が対立しなかったのは、ひとえに友人が男に対して無関心で専ら本と新聞が友達と自ら公言するほどの変わり者であったからに他ならない。
 だからこそ恵子はある一面においてその友人には頭が上がらずそればかりか様々な助けを受けていたと言えるだろう。そんな友人も似たような趣向を持つ異性との付き合いを最近始めたという事もあって少しずつ変わりつつあるものの、大元の部分は変わっておらずこれまで通りの関係を保ち続けていた。そして二年生となった今、その関係に変わりはみられなかった。少なくとも美香と友人、恵子と康平の間に限っては。
 簡単に言うと入学以来の三人を線で結んで出来た三角形状の形をした関係はもう消滅していたと言う事だ。加えてその崩壊と崩壊後の内実を知っているのは恵子だけだと言う事も、もう友人と康平の関係は物理的にも何的にも皆無となり潰えていたのだから・・・一応、どうしてその様になったのかは友人を含めた恵子以外の人々に対しては康平の失踪と言う事で理解されて知られている。
 現に彼の姿は大学構内にも下宿にも果てや実家にも無かった、警察へは捜索願が出されていたが失踪前夜に近所のコンビニにてあんぱんを買い込んで以来その姿は目撃されておらず、その足跡も下宿の自室に買った時のままの状態であんぱんの詰まった袋が置かれているのを最後に足跡も完全に途絶えている。警察犬まで投入されて行方が懸命に捜されたものの玄関先を以って臭いも途絶え入ってくる情報は皆無に近いと言う有様で、警察は今でも捜索を行ってはいるが実質的には解決困難な難事件として匙が投げられているのだった。
 一応、彼の両親を通じて大学当局には4年間を限度とした休学願いが出されており今後4年間の内に復学することは可能となっている。だから彼の学籍は休学と言う形で残されており、その様な判子は押されているものの昨年度の内は彼の履修していた講義の名簿よりその名前を見る事が出来、皆が意識せずともその名を見る機会は常に用意されていた。だから時折話題にも上がったのだが年度が変わり一新されて行こうまず見る機会は無くなり、急速に皆の記憶からその名前、それ以上に顔や容姿と言った事柄は消え去るに任せていた。ただ唯一、恵子とその友人に当局のコンピュータと言う例外を除いてはだが。
 その記憶に止める3者の中で話題に上げるのは2人のみ、そして真実を知るのは唯一人恵子だけ。それは恵子に言わせて見れば周囲の把握している事、公式な事実と言うのはとんでもない茶番劇に過ぎなかった。確かにその中には失踪して、何処にもその姿は見当たらず足跡不明、と言う2つの事実は含まれていたが噂や推測されていた様に自殺していたり或いは誰か恋人と駆け落ちしたのだ、等と言う事は最早一笑にすら値しないほどの下らない内容だった。特に後者に関しては幾ら美形で数多くの女が思わず目を奪われる様な顔を持つ康平には決して有り得ない事だろう、古典的なまでに義理堅い彼自身が聞いたら必ずや反論する筈だった。
 とは言え死人に口無しというのは言い過ぎであっても失踪と言うのは社会的に、そしてその存在を知っていた人々にとっては死んだも同然であってむしろ性質が悪い。何故ならそれは前述したような無用な噂や興味を浮かばせる格好の種となってしまうのだから、それを考えると死んでしまったと言う歴然とした事実の方が遥かに良い。本人が問う捉えるかはともかくまず一般的には死者と死に対する独特な感情から、何か大きな事を成した人以外はそう下手な噂を流される事は無く基本的には哀悼の意と懐かしさを以って語られ接せられる事だろう。
 それは比較的割り切った姿であり見る方としても大変居心地が良い、だから中途半端で如何にも取れない社会的な死、失踪と言うのは大変居心地が悪く何かと悪い方向へと人を掻き立ててしまうのだった。そしてこの様に書く事から察せられる様に彼は、康平は恵子の元でしっかりと生きておりそれらの他愛の無い噂話は本人の耳へと恵子を通じて全て流されていた。だがその事は康平を思って恵子がした事ではないと言う事もまた把握しておかねばならない、恵子はあくまでもそれを伝え聞かせる事によって康平の見せる反応を楽しむ為に伝えていただけなのだから・・・自らの楽しみの一環としてのみ、悔しがり嘆く彼の姿をおかずとする為に。

「さて帰らないと・・・もうこんな時間だし、犬も寂しがっているだろうから。」
「あっそう言えば犬元気なの?」
「うんとっても・・・最初の頃は結構反抗してきたけど、こっちが本気で望んだら今はもうすっかり服従して懐いて来てくれるよ。」
 それから数時間後、西の空が夕焼けに鮮やかに染まるのを見て恵子は席を立った。場所は図書館、目の前には数札の本とレポート用紙に鉛筆が置かれ、彼女はそれらの本に手を伸ばして手中に収めようとする。
「あっいいよいいよ恵子、私片付けておくから・・・それにまだ終わってないしさ。」
 片付けかけたその動きを傍らに隣り合って座っていた友人・・・学食で共に食べていた友人とは別の大学に入学後に出来た友人が止めた。そう彼女はまだ明日提出するレポートを書き上げてはいなかったのである、それをうっかり忘れていた恵子は軽く謝ると礼を言ってその場を離れた。
「早く帰って犬の世話をしなきゃ駄目だよ。」
 と言う声に送られて。そして駐輪場の中より自らの自転車を引っ張り出し、折りしも吹き始めた心地良いそよ風の中で髪の毛を掻き分けてしばらく立ち尽くす。
「犬か・・・早く帰って世話しないとな・・・。」
 そう呟くと西の夕焼けを一瞥し軽く頭を振るとライトをつけて夕闇の道へと漕ぎ出していった。それが恵子の一日の黄昏だった。


 終

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